『神様へ』
神様へ。先日、とある話を耳にし、突然ですが急ぎこの手紙を書いた次第です。不躾ではありますが、僕の願いを聞いてもらえませんか──
季節外れのいちじくに、彼宛ての手紙がくくりつけられ、川の下流まで流れてきた。
そこに綴られた文字からは書き手の必死の思いが見て取れる。
「ほお、よく用意したものだ」
感心しながら彼はそのいちじくを手に取る。そして、重なった藤紫の襟元に手紙をしまうと、ヘタを折ったいちじくの皮を慣れた手つきでめくり始めた。
一見すると黒髪のようであるが、太陽の光の下ではそれが濃い紫なのだと分かるような彼の髪は、腰のところできつく結ばれた若紫色の帯の下まで真っ直ぐに伸びている。そして、その艷やかな毛先は、和紙をよって作られた細い紐で束ねられていた。
生糸で織られた藤紫色の着物の裾からは細い足首と骨ばったくるぶしが覗いていていて、それはすらっとした彼の身長を支えるにはいささか心許なく思える。
日の光に透けるような長い睫毛は、一本にすっと通った鼻筋の向こうで動かす指先を、それは真剣に追っていた。
彼の足元を流れる御尽紫川(みつくしがわ)は、ここから少し道を登った先にある笠子山(かさこやま)を源流に、この先の東湾(あずまわん)まで一本に続いている。
数百年よりもさらに昔から、この町の人々の営みとともにこの川はあった。
笠を被ったようになだらかな斜面からなる笠子山の山頂付近には、昔の人々が建立した古い石の鳥居が立っていて、その鳥居のすぐ側から御尽紫川の水源が湧き出している。鳥居の横に立つこれまた古びた小さな石の祠には、何があるわけでもないのに、ひと月に数人ほど人が訪ねてくる。
その誰もが、この町の人々に密かに語り継がれるある話を聞いて、藁にもすがるような気持ちで足を運んでくるのだ。
御尽紫川にはツクシ様と呼ばれる神様がいる。この川の守り神であるツクシ様はいちじくに大層目がなく、いちじくを受け取る代わりに頼まれごとを引き受けてくれるらしい──
誰がそんなことを言い出したのかは定かではない。実際のところ、彼の仕事は一にも二にもこの川を守ることであり、願いを叶えたり頼まれごとを聞いたりするのは彼の範疇ではない。
ただしその話には事実も含まれていた。
そう、彼は確かにいちじくをこの上なく好いていた。
いちじくがもらえるなら、それは決して悪い話ではなかった。むしろ彼はそれを目当てに、本業に勝るとも劣らないような力の入れ具合で、副業として人々の頼みごとを引き受けるようになった。
こうして彼は川の神様でありながら、大好物のいちじくと引き換えに人々の頼みをきくという畑違いな仕事を始めた、少々風変わりな神様となったのだ。
彼はその華奢な指先でむき終えたいちじくを、ほいっと口の中に放り込んだ。
しばらくありつけていなかったからか、彼はいつもより時間をかけて舌の上で転がすように味わった。そして、名残惜しそうにごくんと飲み込んだ。
「では、とりあえず彼の元に参りましょうか──」
鮮やかな本紫色の鼻緒がすげられた下駄の先で、とんと片足地面を叩く。
ほんのり藤の花を思わせるような不思議な風が、刹那にその場で巻き上がったかと思うと、次の瞬間には川の方に消えていった。
その時、山の上の祠の側を流れる川面に、どこから探してきたのか新たないちじくが一つ、思い詰めた表情でぽちゃんと投げ込まれる音がした。
そのいちじくが携えた手紙の文頭はきっとまたこうだ。
"神様へ──"
『春爛漫』
「もういい加減にして! 泣きたいのはこっちなの!!」
そう叫んだあと、アパートに響き渡っていた泣き声が一瞬止まったかと思ったが、結果、さっきよりもっと大きな声で泣き出しただけだった。
「もう……どうすればいいの」
ベビーベッドの手すりを掴んだまま床にへたり込む。
目から涙がぼろぼろと出てくる。それを拭う気力もなく、次第に嗚咽が混じった泣き声が喉の奥から込み上げてきた。
ふと自分の中にある掴みどころのないどす黒い塊の影に気づいた。目の前で泣きわめくこの小さな生物をもっと簡単に泣きやませる方法があるじゃないか──
一瞬でもそう考えた自分が怖かった。やり場のない感情を力いっぱいに握った拳に込める。
手のひらに爪がささって痛い。痛いけど当然の報いだ。私はダメな母親だ。母親失格なんだ。
娘が産まれてからのこの半年間、私はなんとか踏ん張り耐えてきた。
初めての子育てに四苦八苦しながらも、最初の1ヶ月は育休を取ってくれた夫と力を合わせ、どうにか乗り越えられた。
あの頃も睡眠時間は充分とは言えなかったものの、まだ娘を見て"かわいい"と思う心の余裕はあった。何かにつけ写真を撮ったり、1日の様子を事細かに日記につける余裕もあったくらいに。
だが、いつからかそんな余裕もなくなっていた。
仕事を再開した夫が帰るのは夜遅くのため、日中は一人で世話をする。夫が帰ってくるまでの間、娘の面倒を見ながら家事をして、夕飯を作った。
飛行機で2時間ほどもかかる場所に住んでいる母に簡単に頼るというわけにもいかず、近くに住んでいる義理の母には気を使って頼ることができなかった。
そして、そのうち始まった夜泣きがさらに私の心に追い打ちをかけた。
昼夜問わず寝れない。気が休まらない。娘に笑いかけようにも、笑い方すら分からない。そんな自分に自己嫌悪した。
こんなはずじゃなかった……何度そう思ったか分からない。
私たち夫婦が待ち望み、やっと産まれた初めての子ども。
病院で初めて娘が笑った時、心に陽だまりができたような言葉にならないほどあたたかい気持ちになった。
そこから、"ひなた"と名前をつけた。このあったかい響きには平仮名の方がいいよね、と2人で相談して決めた。
「ひなた」と呼ぶと笑ってくれた。それがとてもかわいくてたまらなかった。かわいくないはずがなかった。なのに──
仕事終えて帰宅した夫がそんな私をみかねて、「週末3人で出かけようか」と言った。
「え……」
私は信じられない気持ちでいっぱいだった。
「もう外に連れていっても大丈夫なんだろ? 外は桜が見頃だし、ひなたに初めての桜を見せてあげたい」
「──何でそんな簡単に言うの」
夫が不意をつかれたようにこっちを見る。そして戸惑ったように言う。
「別に、簡単なんて」
「そうでしょ! 自分はひなたの世話をずっと私に任せっきり。私は1日生きるだけでこんなに精一杯。なのにあなたはそんなふうにお気楽にして、その上私が悪者みたいに言って」
「俺がいつそんなこと言ったんだよ」
「言ったじゃない。私がひなたを全然お出かけに連れて行ってないって。ひなたが可哀想だって。ダメな母親だって……」
自分でも感情が抑えきれなかった。
分かってるんだ。夫は何も悪くない。悪いのは自分だ。今のは彼に向けてじゃなくて、自分に言いたかったことなんだ。
「──今日はもう寝る。夕飯は明日朝食べるから」
そう呟かれた言葉だけが部屋に残って、そして静寂に消えた。
次の日、ソファでうとうととしていた私が目を覚ますと、もう夫の姿はなかった。
心当たりのない毛布が1枚私にかけられていて、冷蔵庫に入れておいた昨日の夕食の皿は、全部洗って水切りに置いてあった。
ベビーベッドでは娘が珍しく静かに眠っている。
私は起こさないようにそっと近づいた。両手を上げて寝る姿がいつも夫が寝る時の姿にそっくりだ。そうやって静かに寝息を立てる娘を見てると、なんだか無性にかわいくて愛おしくてたまらない気持ちになった。
そう思うと私の頬は自然と緩んでいた。ああ、私にもまだちゃんとこんな感情があったんだ。そう気づいた。
週末になり、私たち家族は初めて3人でちゃんとしたお出かけをすることになった。
友人たちにもらった外出用のかわいい洋服を着せ、母にもらったくまの耳がついた小さな帽子をかぶせる。
「あれはいれたし、これもOK……これで全部かな?」
荷物の多い乳児のお出かけのために、夫がほとんどの準備をしてくれた。
「うん、ありがと」
「よし、じゃあ行こうか」
普段の買い物は夫に任せているため、外に出るのは久しぶりだ。
1歩家から出ると外にはいつの間にかちゃんと春が来ていて、すっかり暖かくなった空気を吸い込むとなんとなく春の匂いがした。
「ひなたーお出かけですよー。桜を見に行くんですよー」
私が抱いている娘に向かって、夫が歩きながらうれしそうにしゃべりかける。
「お父さんの方がはしゃいでるみたいだねーひなた」
娘はそんな私たちに構うことなく、初めて見る景色に目を行ったり来たりさせている。
「ほら、あれ!」
夫の声につられて視線を追うと、そこにはこれ以上ないくらい満開の桜が通り沿いにずらりと並んでいた。
天気も申し分ないほどの花見日和だというのに、まだ少し時間が早いせいか車通りも人通りも少ない。
「こんなにすごい桜なのに、私たちがひとり占めだね」
私がそう言うと、夫が「違う違う」と首を振る。
「三人占めだよ、それを言うなら。この桜はたった今、俺たち三人だけのもの。よし、ひなたおいでーお父さんと一緒に桜を見よう」
夫がひなたを抱きかかえて、桜の枝の方にひなたの顔を向ける。
その時、その枝から桜の花びらが1枚ひらりと落ちた。
それを見てひなたが笑った。それは、この満開の桜にもこの光に満ちた春の陽気にも負けないほどの、まぶしい笑顔だった。
ふと夫の方を見ると、向こうも同じくこっちを見ていた。
「笑ったね」と私が言うと、「うん、笑った」と彼も言った。
娘はきっと、今日見たこの圧巻の桜も、今日感じたこの春のあたたかさも、この瞬間私たちがどんな顔をしていたかも、すべて覚えてないだろう。
でも私たちは一生忘れない。世界中の幸せをかき集めても足りないほどの、溢れんばかりの幸せを。
「来年もまた来ようね」
花びらの影の下で2人に向けて言う。
夫が握る娘の手は、気づかないうちに大きくなっている。きっとこれからもあっという間に大きくなってしまうのだろう。
夫がひなたの顔を私に見せるようにこっちを見た。
「うん。来年も、再来年も。もういい加減いやって言われるくらいになっても、毎年来よう」
「──うん」
『これからも、ずっと』
それは、お昼ご飯を食べ終えた私が休憩室の時計を眺めながらぼんやりしていた時のことだった。
「畑野さんって、音楽やってたんですか?」
「え!?」と咄嗟に振り返ると、同僚の斎藤さんが後ろに立っていた。肩までの茶髪を傾けた彼女がこっちを見る。
「えっと……どうしてですか?」
「いやぁそれ、ちょくちょく見かけるなと思って」
斎藤さんが机の上に置かれた私の両手に視線を移した。
何を言ってるのか分からないといった表情をした私に、彼女が続ける。
「それって、ピアノでこの曲弾いてるんですよね? 私はちっちゃい頃にほんの少し習ってた程度なので詳しくないですけど、畑野さんってもしかしてピアノすごくお上手なんじゃないですか?」
私はハッとした。
私が事務として勤めるこの整骨院では、BGMにクラシックのCDを流している。仕事中は業務に集中しているためおそらくこんなことはしてないはずだが、気が抜けている休憩中には曲に合わせて勝手に指が動いていたらしい。それもおそらく今日が初めてではなく、度々。
「そんなそんな。私も昔ピアノやってだけです。今はもう全然弾いてないですし。今のも無意識でした。すみません」
申し訳ない気持ちといたたまれない気持ちで頭を下げる。
「何で謝るんですか。すごいことじゃないですか。私なんて指が動くどころかこの曲の名前すら覚えてないんですよ。ピアノ習わせてくれた親には申し訳ないくらいです」
斎藤さんはそう言って苦笑いを浮かべた。
そこに、「何の話?」と院長が休憩室に入ってきた。
「畑野さんが昔、ピアノを習ってたって話ですよー」
斎藤さんが答える。「そうなの?」と興味を示す視線が私の方に飛んでくる。
そんな状況から今すぐにでも逃げ出したくてたまらない私の頭に、思い出したくない記憶が蘇ってきた。
「──ダメだった……」
そう両親に告げたあの日、私はピアノをやめた。高校3年生の夏休みのことだ。
3歳からピアノを習い始めた私は、すぐに音楽に夢中になった。毎日何時間もピアノの前に座り、友達と遊ぶよりピアノを弾いてる時間の方がずっと長い幼少期を過ごした。
だんだんと上達する自分が誇らしくて、家族やうちを訪れた人々には積極的に演奏を披露した。あの頃の私は、みんなに褒めてもらえるのがたまらなく嬉しかったのだ。
小さい頃の私はピアノのことがとにかく大好きで、その分上達も早かった。小学校低学年の時に初めて参加したコンクールでも賞をとったし、それからも小さな大会ばかりとはいえ、コンクール上位の常連組の一人となった。そして、将来の夢もピアニストになった。
ただ、そんな日は長く続かない。
歳を重ねるごとになかなか思うように上達しなくなり、中学生の頃には音楽を楽しめなくなっていた。成長しないから楽しくないのか、楽しめないから成長しないのか。
ただはっきりしていたことは、自分は今全然楽しくないということだった。
それでもこれまで続けてきたピアノを辞めてしまう勇気はなく、高校に入ってもピアノは続けた。
「お前の音を聴いていても楽しくない」
中学から指導を受けていた先生にそう言われた時、私は怒りや悲しみというより、妙に納得した気持ちになった。そりゃそうだろう、だってこっちも楽しくないんだから、と。
「このコンクールで賞とれなかったら、ピアノ辞める」
高3になってすぐ、私はそう宣言した。
学業をおろそかにしてまでも、私は最後の意地で練習に励んだ。結果次第では、今までの人生がすべて無駄になるような気がした。怖かった。
そんな恐怖と不安に追い立てられるように、私は毎日ピアノに向き合った。
これで最後だと決めたコンクール、私の結果は惨敗だった。
その時、糸が切れた音がした。胸の中でぷつりと。
次の日から、私は目標を受験勉強に切り替えた。すべての感情を取り払うように、私は無心で手を動かして受験勉強に励んだ。
あれから私は、音楽から距離を置いて生きてきた。
大学でも就職してからも、何かを演奏することはもちろん音楽を聴くことすらほとんどない。
ただ、街中で知っている曲が流れて来ると、無意識に耳がそれを追ってしまう。頭の中に、昔何度も練習した譜面が自然と思い浮かんでくる。その思考を止めることはできなかった。
「──ねぇ畑野さん。もし良かったらお願いできないかな」
顔を上げると、2人がこちらに注目していた。
「えっと……」
一体何の話だろうかと、頭の上に疑問符が浮かぶ。
「来月やる開業10周年記念の音楽会で、畑野さんも何か演奏してくれないかな」
「えっ!?」
あまりの驚きに声が裏返る。
「小さな集まりの予定なんだけど、僕の下手くそなバイオリンだけじゃ来てくれる人に申し訳なくってさ」
「でも、私もう何年もピアノ触ってないんです。なのに人前で弾くだなんてとても……」
「そっか。そうだよね……でも残念だな」
これで何とか断れそうだと思った矢先、斎藤さんが口を開いた。
「じゃあ練習しましょうよ!」
「──え!?」
「だって、今でもあれだけ指が動くんですもん! 1ヶ月練習すればきっと弾けるようになりますよ!」
なぜか自信満々な彼女がこちらを見た。私は必死に断る理由を探す。
だが、私がそれを見つける前に院長が笑顔を作った。
「そうなの? じゃあぜひ弾いてよ。畑野さんのピアノ、楽しみだな」
院長のその言葉でどうにも断ることができなくなった私は、途端に心の中に不安が襲ってきて、音を立てないように深くその場に息を吐いた。
本番当日。音楽会用に飾り付けた院内に、いつも通ってくれる患者さんや職員の家族が十数人ほど集まった。
始めて1年ちょっとだという院長のバイオリンの演奏に盛大な拍手が送られたあと、私の出番がやってきた。
院長がどこからか手配してきたアップライトピアノに手を乗せる。
あのコンクール以来、初めて人前で演奏する。胸が破れそうなくらいに強く鼓動を打つ。
小さく息を吸って鍵盤を押す。
練習して分かったことだが、曲を覚えていたのは頭ではなく何度も練習したこの指先の方だった。今もこうして緊張で真っ白になった頭に変わって、指先が自然とメロディを奏でていく。体に染み込んだメロディが弦を伝って、空気を振動させる。
それは懐かしい感情だった。楽しい。音楽って楽しいんだ。
そうやって心が弾むと同時に音が弾んだ。
そんな感情で胸がいっぱいになっていた私にとって、それは本当にあっという間だった。
椅子から立ち上がり後ろを振り返ると、その場の観客たちの拍手が私を包み込んだ。院長や斎藤さんをはじめとする同僚たち、患者さんや今日初めましての人でさえも私の方にこぼれんばかりの笑顔を向けていた。
その光景を、滲んでいく自分の目の中にしっかりと焼き付ける。そしてその感情を、私は心の中にしっかりと刻み込んだ。
きっと私は、この数年の間も決して音楽を嫌いにはなれなかった。むしろ嫌いになろうとしても、私は音楽の側からずっと離れられなかった。
なぜなら、私が音楽に出会ったあの時から、音楽は私のこの中にずっとあったから。
そして──これからもずっと、私の中にあり続ける。
『沈む夕日』
私には秘密がある──。
「ねぇ! テストも終わったことだし、パーッと飲み行こうよ!」
こちらを振り返って後ろ向きに歩くマキが、ほんのりオレンジ色に染まりかけた空に勢いよく腕を伸ばした。
「あのねぇ、そんなこと誰かに聞かれたら、なんか良くないことしてるみたいじゃん」
マキの提案にカエデがつっこみをいれる。
「いいじゃん、いいじゃん。学生だって、たまには息抜きも必要ってもんよ」
「あんたはいつも息抜きばっかでしょ?」
呆れた表情のカエデに対して、マキはとぼけたように斜め上に目線を上げた。
「んー、そうだっけ? まぁ細かいことは置いといて、私たち未成年は健全にジュースで乾杯しましょうよっ」
マキが屈託のない笑顔を浮かべて、前に向き直る。
「もぉ、まったくしょうがないなぁ。だったら会場はカラオケね。あたし、ここんとこ歌が足りてなかったんだよねー」
「えー! カエデとカラオケ行っても全然歌わせてもらえないじゃん」
「そんなことないよ。今日はちゃんとマイク渡すからさ。ねぇ、ミカもカラオケがいいよね?」
カエデが私の方を振り返って尋ねる。
「えっと……私は……」
2人の視線がまっすぐにこっちを見る。
喉のすぐそこまで「私も行きたい」と出かかっていた。
通り沿いの店の看板がカチカチっと音を立てて明かりを灯した。
「ごめん! うち門限厳しいから、今日はパスで!」
顔の前で両手を合わせ、目をぎゅっとつむる。
「あ、そっか。ミカんち厳しいんだっけ? でもさ、今日くらいダメなの? テスト頑張ったご褒美だしさー」
マキが唇を尖らせてそう言う。
「私もすっごく行きたいんだけどさ……」
私がそううつむくと、肩にポンとカエデの手が乗せられた。
「じゃあさ、日曜に改めておつかれ会しようよ。部活は午前中までだから、それが終わってからミカの門限まで。もちろん会場はカラオケね」
カエデがニッと私に笑いかけた。それを見て、まだ少し不満げだったマキが小さくため息をつく。
「わかった、じゃあ今日はやめよ。カラオケは3人で行った方が楽しさ100倍だしね」
そう言って笑顔に戻ったマキが、私の肩に腕を回した。
「そうそう。じゃあ決まりで」
カエデが満足そうに大きく頷いた。
夕暮れの空のオレンジ色は待ってくれるような素振りもなく、みるみるうちに鮮やかに変化していく。
「ありがと」と私が呟くと、マキが「いいってことよ」と笑った。
「じゃあまた明日」
「うん、またね!」
「また!」
ちょうど3人の家への分かれ道で、私たちはいつもそう挨拶をしてから別れる。
少し行ったところで私は振り返った。それぞれに歩く2人の背中の向こうで、太陽が真っ赤に染まって落ちていく。
2人の姿が完全に見えなくなる頃、太陽もそのほとんどが建物の向こうに隠れてしまった。
私は急いで辺りを見回し、人目につかなそうな路地に駆け込む。そして、しゃがみ込み、小さく丸まった。
「あ、黒猫さんだ!」
道を照らす街灯の下で、お母さんに手を繋がれた小さな子どもがそう声を上げた。
私はその横をスッと走り抜ける。
「──あ、行っちゃった……」
そう呟く声が後ろの方から聞こえた。
さっきまでは"昼"の街だったのに、あっという間に街並みが"夜"の雰囲気を醸し出す。
どっちが本当の姿なんてことはない。どちらも合わせて一つなのだ。
通りを抜けて少し進むと、足元にピンク色の花びらが一枚落ちていることに気づいた。
パッと顔を上げて左右を見渡しても、桜の木はどこにも見当たらない。この花びらは一体どこから来たのだろうか。
そんなことを考えながら、足先で花びらをつつく。
もうすぐ春も終わる。そうすれば、次は夏だ。
すっかり陽の沈んでしまった黒い空を、私はゆっくりと見上げた。明日はきっともう少し長く──。
私には秘密がある──、誰にも知られてはいけない秘密が。
そんな私は最近、夏を心待ちにしている。
『星空の下で』
星空の下で彼女と出会った。
その冬一番の澄んだ空には見たこともないほどの数多の星が浮かんでいて、彼女はその空を僕と同じように見上げていた。
吐く息は白く、陶器のような白い肌は鼻先だけが微かに赤い。僕が着ているのよりもずっと薄いコートを羽織り、両手を温めるように擦りながら、彼女はじっと夜の星を眺めていた。
僕は自分の両手を見つめた。飾り気のない自分の灰色の手袋を。
「良かったらこれ」
考えるより先にそう話しかけていた。
突然差し出された手袋を見て、彼女がきょとんとした表情でこっちを見る。僕は慌てて言葉を続ける。
「今宵は一段と空気が冷たいようです。僕はこの通り温かくしてきたので、手袋一つくらいなくても平気です」
身につけた帽子とマフラー、そして重たいコートにボアのついたブーツを順に見下ろして、最後に彼女の目を見る。
「──いいんですか?」
その瞬間に初めて聞いた彼女の声は、僕が漠然と思い描いていた彼女の声そのものだった。薄いガラスのように繊細で透明な声。
「ご迷惑じゃなければ、ですが……」
「ご親切にありがとうございます。では少しだけお借りします」
喜びを含んだような笑みを浮かべた彼女が、僕が差し出した手袋に手を伸ばす。
その瞬間、微かに彼女の手が僕の指先に触れた。
僕は咄嗟に首をすぼめた。彼女の手の冷たさに驚いたからなのか、それとも不意に肌が触れたことに戸惑ったからなのかは分からない。
こんなに冷えて風邪をひいてしまわないだろうか、という僕の心配をよそに、彼女はそのまま手袋をつける。
「あったかいです、とても」
「それはよかった。ですが──それだけではまだ寒いでしょう。このマフラーもよければ……」
僕が首元に手をかけると、彼女は小さく首を振った。
「それはいけません。それではあなたが風邪をひいてしまいますし、こう見えて私、寒さには強いんです」
鼻の頭を真っ赤にした彼女がそう言って微笑む。
その言葉で心配が拭えるはずはなかったものの、僕は出かかった言葉を飲み込んで首に伸ばした手をゆっくりと下ろした。
彼女が再び空に視線を戻した後も、僕はたびたび彼女の横顔を見つめた。
彼女は今、何を思ってこの今にも吸い込まれてしまいそうなほどの美しい星空を眺めているのだろうか。
「──ねぇ、何を考えているの?」
あの日を思い出していた僕に彼女がそう尋ねた。
「何って、君のことに決まってるじゃないか」
僕がそう言うと「ほんとかしら」と彼女が僕の目を覗き込む。
「本当さ。ここで君と出会った時の、君の真っ赤な鼻先を思い出していたんだよ」
少し驚いたように息を呑んだ彼女は、すぐに頬をふくらませて、ふいっとそっぽを向いた。
そのいじけた表情を見て、僕は「冗談だよ」と笑う。
「本当はあの時の君の冷たい手を思い出していたのさ」
僕はそう言って彼女の手を握る。
だが、今日は彼女の手の冷たさを感じることはない。僕も彼女も今日は手袋をしているのだ。
僕はあれからずっと大事にしてきた灰色の手袋を。そして、彼女は真新しい濃紺の手袋を。
あの日みたく寒さに凍えないようにと今日のために用意したその手袋は、彼女が好きな夜空の色を僕が選んだ。
「──だってあの日は特別寒い夜だったから……ちょうど今日のように」
彼女が空を見上げるので、僕もあとに続く。
「それに私だって気づいてたのよ。あなたがこの美しい星空を差し置いて、こっちばかり見つめてたって」
「えっと、それは……」
焦る僕の隣で彼女がくすっと笑う。
「せっかくこんなにも美しい星の下にいるっていうのに、私ったらそればかりに気を取られてしまったわ」
「それは知らなかったよ……」
何気なく彼女の方を伺い見ると、自然と目があった。途端に笑いがこみ上げてくる。
その時、後ろからシャッターをきる音がした。
「なかなかいい写真が撮れたよ。ほら見てごらんよ、主役のおふたりさん」
そこに切り取られた満天の星の下には、特別な純白の衣装に、不似合いな防寒具を身をつけた2人が幸せそうに笑いあっていた。
「素敵……」
「ああ、本当に」
「じゃあもう一枚。次はみんなで」
その言葉を合図にして、散らばっていた人々が僕たちを取り囲むように集まってくる。家族、友人、どこを見ても大切な人たちばかりだ。
「──はい、撮りますよ! 3、2、1 ……」
この日。星空の下で、僕たちは2人の未来を星に誓った。