『この世界は』
だれなんだ、まったく。学校の本に落書きをするなんて。
ぼくは筆箱からちっちゃくなった消しゴムを出して、図書室で借りていた本の落書きを消した。
でも鉛筆の落書きはまだいい方なんだ。なかには、ボールペンで書かれていて消せないものもある。そういう時はぼくにはどうすることもできないから、図書室の先生に気づいてもらえるようにメモを挟んで返却することにしている。
ぼくは背の順だと前から2番目で、残念ながら小さい方だ。
だけど毎日トレーニングを欠かさないから、力はともかく体力は同級生に負けてない。それに毎朝牛乳をたくさん飲んでるから、これから誰よりも身長が伸びていくはずだ。
ぼくはスポーツはそんなに得意じゃないけど、これだけはだれにも負けないということがある。
実はぼく、みんなの知らないところでいろんな良い事をしてるんだ。
朝、誰よりも早く学校に行って教室の机を並べて黒板消しをきれいにするし、校庭に乗り捨てられた一輪車をいつも置き場に戻しているのもぼくだし、だれもやりたがらない係も進んで引き受けている。
学校の中だけじゃなくて、街でお年寄りの荷物を持つのを手伝ったり、バスで席を譲ったり、道にゴミが落ちてたらぼくのゴミじゃなくても拾うことにしている。
でもそれを自慢したり、見せびらかしたりするのはなんかカッコ悪いって気がするんだ。ぼくは、あくまでも"さり気なく"を大事にしている。だれにも気づかれなくたっていい。むしろその方がカッコイイ。たぶん、だけどね。
でもたまに。本当にたまになんだけど、ぼくはだれかに言いたくなっちゃうんだ。
「この世界は、ぼくのこの手に守られてるんだ」ってね。
『どうして』
物音で目が覚めた。
ガサゴソと何かを探すような音が、寝室と扉一枚で隔たれたリビングの方から聞こえてくる。
ベッドに伏せていたスマホを裏返すと、画面の時刻はちょうど深夜2時。スマホを握りしめた俺は、音を立てないように気をつけながらベッドから起き上がった。
数時間前に暖房の切れた寝室のフローリングは氷のように冷たく、かと言ってスリッパを履いては音を立ててしまいそうなので、俺は裸足のまま忍び足で扉に近づく。
普段なら静まり返ったはずのこの時間に、不審な物音と暴走機関車のように速い自分の鼓動だけが響いている。
安月給でボロアパートに独り暮らしのこんな部屋に入った泥棒はどんな奴だろうか。
俺はそれを確かめようと、勢い良く扉を開けた。
「誰だ!」
俺がそう声を上げると、リビングの引き出しの中をあさっていた人物が振り返った。
ひどく驚いたようなその顔に俺の方が仰天した。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
驚いた表情も束の間。彼女はそうあっけらかんと言い放ち、いたずらな笑みを浮かべた。
「起こしちゃった? じゃないだろ」
「じゃあ、何て言えばいいの?」
彼女がそう頭を少し傾けると、肩にかかった長い髪がゆっくりとすべり落ちた。そこに悪びれる様子はなくて、むしろ楽しそうに見える。
「そりゃいろいろあるだろ。そもそもこんな時間に不法侵入しておいて」
俺がそう言うと彼女は「いろいろありすぎてどれから話せばいいか分からない」と肩をすくめた。
そんな彼女を見かねた俺が何から質問しようか考えていると、彼女はふいに部屋の時計を見上げた。
「あ、ごめん。そろそろ行かなきゃ」
「行かなきゃってどこに? てか何しに来たんだよ。何探してたんだよ。いや、なんで、なんで……」
彼女に聞きたいことが次から次に溢れてくる。
「なにそんなに必死な顔して。泣くなんて悠斗らしくないよ。涙腺がゆるい私のこといつも笑ってたくせに」
「それとこれとは違うだろ。だって……お前は……」
「悠斗」
真っ直ぐな瞳がこっちを見つめる。
「聞きたいこと、1つ答えるから」
「……なんで1つなんだよ」
「その質問でいいの?」
俺が慌てて否定すると彼女が笑った。
「じゃあ次は本当に答えちゃうからね」
聞きたいことは山ほどあった。ずっとこの時を待っていたはずなのに、いざ彼女を前にすると上手く言葉にならなかった。
「ちとせ」
「うん」
あぁ、ずっとこう答えて欲しかったんだ。何度呼びかけても、何度名前を呼んでも、何も答えてくれなかった彼女に。
「どうして……どうして、俺をおいて死んだんだ……」
掠れた声を絞り出した。
彼女は寂し気な目を少し伏せると、微かに微笑んだ。
「いつかはみんな死ぬんだよ。悠斗だってそう。私はそれが少し早かっただけ。それに」
彼女と再び目が合う。
「それに俺より先に死ぬな、なんてのは自分勝手過ぎるでしょ? 私だって悠斗が先にいなくなるなんて嫌だもん」
昔と変わらないままの彼女は、あの頃のように口をとがらせた。
「でも俺はもっと、ちとせと生きたかった」
俺がそう言うと、彼女は俺に背を向けて窓の外を眺めた。
「うん、そうだね」
月明かりがさす窓辺に彼女の髪が透けた。
「ねぇ、これ持っていっていい?」
振り返った彼女の手には引き出しに仕舞っていた、彼女の髪留め。
「それ……」
その髪留めは俺が彼女にプレゼントしたものだったが、彼女が亡くなる少し前、この部屋に来た彼女はそれを忘れていったのだ。
「実はね、これを忘れていったのを思い出して取りに来たんだ。本当はこっそり持って行こうと思ってたのに、見つかっちゃった」
「不法侵入に窃盗まで。幽霊には法律ってもんがないんだな」
俺がそう言うと彼女は声を上げて笑った。
「それ、ちとせのだから」
「え?」
「だから、それは俺がお前にあげたやつだから、ちとせの自由にしていいって」
それを聞いた彼女は嬉しそうに髪を耳にかけると、その髪をとめるように耳の上にそれをつけた。
「どう?」
「うん」
「うん、じゃなくて」
「その……似合ってる」
「ありがと」
スマホのアラームで目が覚めた俺は、いつも通りの朝を迎えた。
ただ、昨日みた夢の続きを探しているような心地だけは、どこかいつもと違っていた。
ベッドから起き上がった俺は、リビングに続く扉を開けた。
そこは見慣れたはずの、いつも通りの温もりのない部屋。
「あれ……」
なぜか、ここ数年触ることのなかったはずの引き出しがほんの少し開いていた。
モヤのかかった景色の中に、ぼんやりと影が揺れる。
俺はその光景を抱きしめるように、そっとその引き出しの取っ手を引いた。
『プレゼント』
クリスマスの朝はまず、プレゼントを探すところから始まった。
うちのサンタはなぜだかエンタメ性が高く、プレゼントの届く場所はその年ごとに違っていて、いつもなら眠くてなかなか起きない私も、その日だけはパチッと目を覚まして家中を探し回った。
両親の寝室に父の書斎、物置部屋やリビングの窓の側……ここはさすがにないだろうと分かっていながらも、トイレのドアまで開けたりしてみたものだ。
プレゼントをもらうのと同じくらい、プレゼントを探すことも私にとって大事なクリスマスの楽しみだった。
大きくなると、サンタは私の元に来なくなった。
大人になった今、誰かに形ばかりのプレゼントをもらうことはあっても、プレゼントを探す楽しみだけは味わうことができない。
そもそも、独り暮らしの家の中にプレゼントが置かれていたらいたで、クリスマスの朝から恐ろしい気分になるに違いないのだ。
クリスマス当日。心なしか部屋にはクリスマスの朝のあの空気が流れていて、私は朝からちょっぴり寂しい気持ちになった。
そうは言っても、クリスマス休暇などないうちの会社にとって今日はただの平日なので、そろそろ出勤の用意を始めなくてはいけない。
体温で温まっている布団に後ろ髪を引かれながらも、上着を一枚羽織った私は、意を決して布団から立ち上がった。
支度を終えた私は、冷たい風が吹き込むことを覚悟して、首をすぼめながら玄関の扉を開けた。
すると、玄関を出てすぐの場所に心当たりのない荷物が届いていた。
不思議に思って宛名を確認すると、そこには確かに私の名前が書かれていたが、差出人の名前は見当たらない。
だが、私はその癖のある手書きの文字に心当たりがあった。
私は一旦部屋に戻り、玄関でその包みを開ける。
ちゃんとラッピングが施された袋の中身は、上品であったかそうなチェックのマフラーだった。
それと一緒にメッセージカードも入っている。
『メリークリスマス。寒いので風邪をひかないように。』
やはりよく見慣れたその文字は、かつてうちに来ていたサンタの字と同じだ。
久しぶりにプレゼントを持って来たかと思ったら、家の中じゃなくて玄関先に置いていくなんて、我が家のサンタはどれだけ変わったサンタなんだ。あの頃の私でも、さすがにそこにあるとは気づかないのではないだろうか。
私はそう思いながらも笑みをこぼす。
久しぶりにプレゼントを見つけた時のあのワクワクした感覚が蘇り、朝起きた時に感じた寂しさはいつの間にか消えていた。
サンタにあとでちゃんとお礼を伝えないと。
届いたばかりのマフラーを首に巻いた私は、早足で仕事へ向かった。
『ゆずの香り』
「うち、ゆず農家なんです」
そう言って、ダンボールいっぱいに入ったゆずを持って職場に現れたのは、今年入社したばかりのうちの部署の後輩。
「独り暮らしなのに実家からこんなに送られてきて困ってるんですけど、先輩ももらってくれませんか」
「なるほどね。どうりで朝からすれ違う人みんな、手にゆずを持ってたわけだ」
「今日は冬至の日なのでちょうどいいかと思って、皆さんに配ってまわってます」
「あ、冬至って今日だっけ。じゃあ私も1つもらっていこうかな」
私がそう言うと彼は子犬のように潤んだ目でこっちを見る。
「1つと言わず、5個でも10個でも。何なら箱ごと持っていきますか? お風呂にたくさん浮かべると、とってもいい香りがしますよ」
まだ数十個、下手したら100個くらいあろうかというたくさんのゆずが入った箱を、本当に受け取ってしまいそうになり、慌てて押し返す。
「いやいや。私も独り暮らしだし、そんなにうちのお風呂広くないよ」
「だったら、料理に使ってもいいんですよ。いろんな料理の香り付けに使うのもいいですし、お菓子にしても美味しいんです」
そううっとりしながら喋る彼は、本当にゆずが大好きなんだろう。
「じゃあお言葉に甘えて5つくらいもらっていこうかな。3つは今日お風呂に入れて、残りは料理に使わせてもらうね」
「まいど!」
彼はうちの部署なんかより、営業の方が向いているのではないだろうか。
そんなことを考えているうちに、彼は手際よく持参したビニール袋にゆずを詰め込んでいく。
ほんわかしてそうに見えるのに「これはサービスです!」と1個多く入れるところは、思ったより抜け目ない。
「そっかぁ。冬田くんはゆず農家の息子だったんだ」
「はい、ゆずに囲まれて育ちました」
「だから、冬田くんいつもゆずの香りがしてたわけだ」
「え!? 僕そんな匂いしますか?」
慌てて自分の匂いをクンクンと嗅ぐ彼は、やはり子犬のようだった。
「冗談よ」
私がそう言って笑うと、彼は「もぉ〜」と口を尖らせた。
やりくるめられてばかりでは困る。私だって先輩のメンツってものがあるのだ。
でも彼は、彼のこういう憎めないところによって、先輩後輩関係なくこれからも慕われていくのだろう。
「ゆず、ありがとね」
「いえ、どういたしまして!」
次の日、会社中がほんのりゆずの香りに包まれた。
『ベルの音』
喫茶店に入るとカランコロンとドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」
そう出迎えてくれたのは、おそらくこの店のマスターだろう。
ピンとした蝶ネクタイに後ろで束ねられた白髪、珈琲を注ぐ細い指先には歳相応の苦労がにじみ出ている。
初老くらいの歳に見えるが決して老けた感じではなく、むしろ背筋がピンと伸びたその凛とした佇まいに、将来はこうでありたいと思うような大人の雰囲気があった。
「ご注文はいかがいたしましょうか」
机の上に置かれた手書きのメニューを眺めていたとき、マスターが注文を取りに来た。
「ホットコーヒーを一つ」
「かしこまりました」
そう言ってマスターはゆったりと微笑んだ。
外は雪が降ってきたようで、その寒々しい光景を窓から眺める。本当なら今頃はこの雪の中で、寒さを堪えるように二人で寄り添っていたはずなのだ。
だが今はこうして一人、喫茶店に逃げ込んでいる。
「お待たせしました」
白いカップからは湯気があがり、珈琲の豊かな香りがそれと一緒に立ち上がる。
注文したのは珈琲だけのはずだが、店主が手に持った皿の上には何やら菓子のようなものが。
「もし宜しければこちらもどうぞ」
「えっと……これは?」
「本日はクリスマスということで、ささやかながら店からのプレゼントです」
そう言って机の上に置かれたのは生クリームが乗った一口大のケーキ。
「えっと、ありがとうございます。いただきます」
店主が去ったあと、俺はポケットの中に手を突っ込んだ。手の中には確かに、今日渡しそびれた彼女へのプレゼントがある。
珈琲の湯気の奥に、今日あるはずだった未来をぼんやりと浮かべる。
3年付き合って、結婚するなら彼女しかいないと思った俺は、クリスマスの今日、イルミネーションで有名な公園の一緒に鳴らすと永遠に結ばれると話題の鐘の下で、彼女にプロポーズをする計画を立てた。
クリスマスに鐘の下でプロポーズなんて我ながらベタでキザだとは思うが、俺は俺なりに今日を一生忘れられない特別なものにしようと意気込んでいたのだ。
だが人生そう思い通りにいかなかった。
彼女は急遽急ぎの仕事で呼び出され、俺は待ち合わせ場所でドタキャンを食らうことになった。
諦めきれなかった俺は、こうして待ち合わせ場所近くの喫茶店で時間をつぶすことにした。
彼女は悪くない。仕事ならしょうがないのだ。
ガチガチに緊張しながら買った指輪の箱が、虚しく俺のポケットの中に詰め込まれている。
そんな寂しさを紛らわせるように、俺は珈琲をすする。外で冷えた体に、温かい苦味が染み渡っていく。
苦味とバランスをとるように、今度は目の前のケーキを口に運ぶ。優しい甘さが口に広がり、俺の頬は自然と緩んだ。
――カランコロン
入り口で鳴ったその音に振り向くと、彼女が息をきらせてそこに立っていた。
「ど、どうしたの??」
「……ゆうくんが待ってると思ったから急いで仕事終わらせてきた…………」
「もぉ〜探したよ〜」と言う彼女の鼻は外の寒さで真っ赤だ。
笑ってはいけないと分かっていながらも俺は笑いが堪えきれなかった。
「な、何で笑うの!」
「だったさ、鼻の頭が真っ赤でトナカイみたいだ」
俺がそう言うと彼女が手で鼻を擦る。
さっきよりもっと真っ赤になった鼻で、今度は彼女がじっとこっちを見る。
「じゃあ私がトナカイなら、ゆうくんはサンタだね」
「え?」
「だってほら」
彼女が俺の顔を指差すので、近くの窓を覗き込むと、そこには口にクリームをたっぷりつけた情けない男がうつっていた。
彼女がこっちを見て大笑いする。俺もつられて声を上げて笑う。
特別なことなんて必要なかった。俺は幸せを噛みしめる。
「俺と結婚してください!」
そう言って俺は彼女に指輪を差し出した。
「えーっと……」
彼女は一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐに照れ笑いを浮かべ、首を縦に振った。
「はい!」
今日、永遠に結ばれるという有名な鐘を一緒に鳴らすことは出来なかったが、こうして彼女が鳴らしてくれた喫茶店のベルの音が、俺にとっては何よりも幸せを告げる音色だった。
俺はこの笑顔を一生守っていくと喫茶店のベルに誓った。