今宵

Open App

『ベルの音』


 喫茶店に入るとカランコロンとドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」
 そう出迎えてくれたのは、おそらくこの店のマスターだろう。
 ピンとした蝶ネクタイに後ろで束ねられた白髪、珈琲を注ぐ細い指先には歳相応の苦労がにじみ出ている。
 初老くらいの歳に見えるが決して老けた感じではなく、むしろ背筋がピンと伸びたその凛とした佇まいに、将来はこうでありたいと思うような大人の雰囲気があった。

「ご注文はいかがいたしましょうか」
机の上に置かれた手書きのメニューを眺めていたとき、マスターが注文を取りに来た。
「ホットコーヒーを一つ」
「かしこまりました」
そう言ってマスターはゆったりと微笑んだ。

 外は雪が降ってきたようで、その寒々しい光景を窓から眺める。本当なら今頃はこの雪の中で、寒さを堪えるように二人で寄り添っていたはずなのだ。
 だが今はこうして一人、喫茶店に逃げ込んでいる。

「お待たせしました」
白いカップからは湯気があがり、珈琲の豊かな香りがそれと一緒に立ち上がる。
 注文したのは珈琲だけのはずだが、店主が手に持った皿の上には何やら菓子のようなものが。
「もし宜しければこちらもどうぞ」
「えっと……これは?」
「本日はクリスマスということで、ささやかながら店からのプレゼントです」
そう言って机の上に置かれたのは生クリームが乗った一口大のケーキ。
「えっと、ありがとうございます。いただきます」
 店主が去ったあと、俺はポケットの中に手を突っ込んだ。手の中には確かに、今日渡しそびれた彼女へのプレゼントがある。
 珈琲の湯気の奥に、今日あるはずだった未来をぼんやりと浮かべる。

 3年付き合って、結婚するなら彼女しかいないと思った俺は、クリスマスの今日、イルミネーションで有名な公園の一緒に鳴らすと永遠に結ばれると話題の鐘の下で、彼女にプロポーズをする計画を立てた。
 クリスマスに鐘の下でプロポーズなんて我ながらベタでキザだとは思うが、俺は俺なりに今日を一生忘れられない特別なものにしようと意気込んでいたのだ。
 だが人生そう思い通りにいかなかった。
 彼女は急遽急ぎの仕事で呼び出され、俺は待ち合わせ場所でドタキャンを食らうことになった。
 諦めきれなかった俺は、こうして待ち合わせ場所近くの喫茶店で時間をつぶすことにした。
 彼女は悪くない。仕事ならしょうがないのだ。
 ガチガチに緊張しながら買った指輪の箱が、虚しく俺のポケットの中に詰め込まれている。

 そんな寂しさを紛らわせるように、俺は珈琲をすする。外で冷えた体に、温かい苦味が染み渡っていく。
 苦味とバランスをとるように、今度は目の前のケーキを口に運ぶ。優しい甘さが口に広がり、俺の頬は自然と緩んだ。

――カランコロン
 入り口で鳴ったその音に振り向くと、彼女が息をきらせてそこに立っていた。
「ど、どうしたの??」
「……ゆうくんが待ってると思ったから急いで仕事終わらせてきた…………」
「もぉ〜探したよ〜」と言う彼女の鼻は外の寒さで真っ赤だ。
 笑ってはいけないと分かっていながらも俺は笑いが堪えきれなかった。
「な、何で笑うの!」
「だったさ、鼻の頭が真っ赤でトナカイみたいだ」
俺がそう言うと彼女が手で鼻を擦る。
 さっきよりもっと真っ赤になった鼻で、今度は彼女がじっとこっちを見る。
「じゃあ私がトナカイなら、ゆうくんはサンタだね」
「え?」
「だってほら」
彼女が俺の顔を指差すので、近くの窓を覗き込むと、そこには口にクリームをたっぷりつけた情けない男がうつっていた。
 彼女がこっちを見て大笑いする。俺もつられて声を上げて笑う。

 特別なことなんて必要なかった。俺は幸せを噛みしめる。
「俺と結婚してください!」
そう言って俺は彼女に指輪を差し出した。
「えーっと……」
彼女は一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐに照れ笑いを浮かべ、首を縦に振った。
「はい!」

 今日、永遠に結ばれるという有名な鐘を一緒に鳴らすことは出来なかったが、こうして彼女が鳴らしてくれた喫茶店のベルの音が、俺にとっては何よりも幸せを告げる音色だった。

 俺はこの笑顔を一生守っていくと喫茶店のベルに誓った。


12/20/2023, 12:55:50 PM