今宵

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『ゆずの香り』


「うち、ゆず農家なんです」
そう言って、ダンボールいっぱいに入ったゆずを持って職場に現れたのは、今年入社したばかりのうちの部署の後輩。

「独り暮らしなのに実家からこんなに送られてきて困ってるんですけど、先輩ももらってくれませんか」
「なるほどね。どうりで朝からすれ違う人みんな、手にゆずを持ってたわけだ」
「今日は冬至の日なのでちょうどいいかと思って、皆さんに配ってまわってます」
「あ、冬至って今日だっけ。じゃあ私も1つもらっていこうかな」
私がそう言うと彼は子犬のように潤んだ目でこっちを見る。
「1つと言わず、5個でも10個でも。何なら箱ごと持っていきますか? お風呂にたくさん浮かべると、とってもいい香りがしますよ」
まだ数十個、下手したら100個くらいあろうかというたくさんのゆずが入った箱を、本当に受け取ってしまいそうになり、慌てて押し返す。
「いやいや。私も独り暮らしだし、そんなにうちのお風呂広くないよ」
「だったら、料理に使ってもいいんですよ。いろんな料理の香り付けに使うのもいいですし、お菓子にしても美味しいんです」
そううっとりしながら喋る彼は、本当にゆずが大好きなんだろう。
「じゃあお言葉に甘えて5つくらいもらっていこうかな。3つは今日お風呂に入れて、残りは料理に使わせてもらうね」
「まいど!」
彼はうちの部署なんかより、営業の方が向いているのではないだろうか。
 そんなことを考えているうちに、彼は手際よく持参したビニール袋にゆずを詰め込んでいく。
 ほんわかしてそうに見えるのに「これはサービスです!」と1個多く入れるところは、思ったより抜け目ない。

「そっかぁ。冬田くんはゆず農家の息子だったんだ」
「はい、ゆずに囲まれて育ちました」
「だから、冬田くんいつもゆずの香りがしてたわけだ」
「え!? 僕そんな匂いしますか?」
慌てて自分の匂いをクンクンと嗅ぐ彼は、やはり子犬のようだった。
「冗談よ」
私がそう言って笑うと、彼は「もぉ〜」と口を尖らせた。
 やりくるめられてばかりでは困る。私だって先輩のメンツってものがあるのだ。
 でも彼は、彼のこういう憎めないところによって、先輩後輩関係なくこれからも慕われていくのだろう。

「ゆず、ありがとね」
「いえ、どういたしまして!」


 次の日、会社中がほんのりゆずの香りに包まれた。

12/22/2023, 1:46:23 PM