さよならを言う前に
深夜、目が覚めたのではなく意図的に目を開ける。
ベットライトしかついてない部屋は仄暗く、聞こえるのは空調が動く音と隣の寝息だけ。
もう金輪際、この部屋に来ることはない。
このベッドで寝ることも。
きっとこれは2人がいい未来に行けるための行動だから。この行動がいつかきっと、遠い未来、こうしてて良かったと笑える日が来る為に。
キュッと目を瞑り、ゆっくり息を吐き出す。
起こさぬ様にそっとベッドを抜け出し、落ちていた服を身に付ける。
シャワーは浴びない、起きてしまうといけないから…なんて言うのは建前で本当は洗いたくないから。隣の温もりを…なんて、乙女が過ぎるだろうか。
「んん、…」
モゾモゾと動く気配がして、ピンッと緊張が張り詰めた。しかし寝返りを打っただけの様で、また規則的な寝息が聞こえ、重たい息をつく。
その溜め息の意味は、安堵かあるいは…
そんな思考を振り払う様に頭を振り、荷物を手にする。必要最低限、たった一つの鞄を持って今から己は、この温かくて捨てきれない場所を離れる。
最後に振り返って、じっと見つめる。
もう見納めだから。でも見てたら最後の欲が出てきてダメだと思いつつ体も心も止めることはできなかった。
これで最後、最期だから。
だから、さよならを言う前に口づけを。
いつまでも捨てられないもの
1人でいろんなものを買える歳になって。部屋の中は自分が買ったお気に入りのもので溢れていく。
その中にインテリアに合わない、押入れの場所を取るいくつかの物たち。
あー捨てようかなと思うのに捨てられないそれらは別に特段思い出がある訳じゃなかったりする。
誰しもが泣ける様な美談が詰まってる訳でも、映画になる様な思い出が入ってることもない。思い出すのはほんの色褪せた一瞬で、なんならそれすら思い出せない物だってある。
買ってもらったんだっけ?どこで?そもそも誰に?なんてことも割とザラ。
でも何だか捨てられずに、部屋を片付けるたびに頭を悩ませては結局大切にしまうそれたち。
何となく捨てられない物、それはきっと大切にしたい何かが詰まった物なのかも知れない。
誇らしさ
その背中はいつだって大きく見えた。
別に自分と同じ背丈に身幅だというのに憎らしくてしかたない。
でも知っている。
その背には沢山の物事が、想いが願いが時に輝かしく時に重々しく、その背に乗っていることを。そしてその背には笑顔だけでは語れない物語がいくつもあることも。
その背にある無数の傷は、勲章かはたまた自虐か。
それでも彼奴はずっと前を見続けたっている。自分だってもう、その背から預かる事だってできるのに結局彼はそれをしない。それが憎らしくて大嫌いだ。
同じはずなのに自分は結局、すぐ後ろにしか立てない。
伸ばせば触れれる距離。でも、隣じゃない距離。
憎くてうざったらしくて、誇らしい背中。
夜の海
それは静かな夜だった。
水面には夜だけが映る、そんな時間。海に着いた時ちょうど月明かりが出てきて、夜だけだった海にぼんやりと儚い光がさす。
そこに浮かんだ色素の薄い髪が月明かりに光って息を止めた。
「_ッ!!!」
名前を呼んで転がるように砂浜を蹴った。足がもつれようと、砂が行手を阻もうと構わず、砂を蹴り走り続けた。息を切らす途中、何度呼んでも振り返らなかったその人は、まるで月夜に導かれるように振り向いた。
「…ごめん」
そういってくしゃりと笑って、目尻から一粒の雫が落ちた。まるで、消えるさだめ定めの星屑の様なそれ。
そうしてまた顔を背けようとする。これを逃したら今度こそ、もう、本当に逢えなくなると思った。
だから、全ての力を振り絞って海へ入った。絵の様に動かなかった水面が、バシャバシャと汚く音を立てる。それでいいと思った。
そうして引き寄せて、もう離さないと誓おう。
このまま海に溶けてしまってもいいと言おう。
だから今は、ただ、己の胸に抱かれて欲しい。
静かになった水面には、ひとつになった影がだけが映っていた。
自転車に乗って
夕暮れの商店街は主婦にお使いの子に、親子連れと買い食いの学校帰りの人々で賑わっている。
よくある色褪せた元はカラフルだったアーチを抜け、今日の戦利品をひとつ見つめる。
今日はコロッケにおばちゃんがオマケでくれたカボチャのサラダと家で待つ冷えた缶ビール。完璧な晩酌が出来そうだ。
満足気に頷く後ろから声をかけられ振り返ると、同僚が自転車から降りてこちらに歩いてきた。
「今帰りか?」
「うん、何買ったんじゃ?」
「コロッケともらったカボチャのサラダ」
「ええなぁ、ビールは?」
いつまで経っても絶妙に抜けない方言が今じゃ心地よくなっている。
「家でスタンバってる」
「最高じゃ。よし行こう」
「まてまて、なんでお前もくる感じになってるんだ」
「ええが、今なら自転車で送ってあげるだが」
「そもそもなんで自転車なんだよ」
「もらった」
「あ、そ」
ビールじゃビール!と鼻歌を歌いながら自分の買い物バックを奪うとカゴに入れ後ろに乗れと視線で促される。
色々と突っ込みたい事はあるのに、まぁ歩くより早いしな、とかバック奪われたしなとか言い訳を作って。
何より、彼と帰れるという事実に上がりそうな口角を必死に抑え、跨った。
彼の背中はやっぱり思ったとおり大きくて、熱くて。
夕陽に反射するほんのり浮かんだ汗が何だかとてもいけないものに見えて、視線を逃しても結局彼の背中しか見えなくて、それに少しだけムカついた。
だから、その背中にそっと頭をつけて一瞬ドキリと跳ねた背中に、いい気味だと微笑んで。
「…ビール飲んだら自転車乗れないぞ」
「……飲んでいいんか」
「…好きにしろ」
そう言ったら少しだけあがったスピード。
あぁ、今日はどうしようもなく酔ってしまいたい。