雨に佇む、その煙草屋の前。
一人の男が、座ってタバコを吸っていた。
僕は、傘をたたみながら、
(何だこの男は……)
と思った。
煙草を買うために立ち寄った店であるが、軒下に喫煙所が併設されていて、雨が降り込まないようになっている。
悠長なことを言うと、正直目も合わせたくなかったし、話しかけられたくもなかった。
「おい」
なんだよ。おい、って。見ず知らずの人に話しかけるような言葉か?
男は、上はネルのシャツを着ており、下は長いパンツ姿で、見るからに世捨て人といったなりをしていた。
「お兄さん、何吸うの?」
「キャスターっス」
「最近の若いのは、弱いの吸うね」
と、男は紫煙をくゆらせている。
何の益体もない会話だ。と思った。
僕は、これから、ショッピングモールで、買い物をしなくてはならないのに。
「そう」
と、何ともなしに呟く男。
「時代も変わった」
そうして男は去っていった。
煙の匂いは、タールとニコチンの重い洋酒かかった臭い味がした。
二月十五日晴れ
今日も、容態は芳しくない。
ただ、蜜柑を隣の澄川さんがくれたので、夫が剥いてくれた。とても美味しかった。
それと、点滴のチューブを、何度も外れるので、看護師の原田さんには、難儀をさせたと思う。
朝のご飯
お粥におかか梅干し
昼のご飯
アジのフライにかぼちゃの煮付け
夕のご飯
レンコンのきんぴらに聖護院大根のスープ
二月十六日曇り
会話に喉が詰まるのを、優しく待ってくれる孫は優しい。
今日は、漁に出ないのかと聞くと、波浪警報が出ているので出られないと言うので、明日の天気を思う。
波浪警報を何度も聞き返す。
鯛をまるっとくれたので、ヘルパーさんが、鯛の煮付けにするという。
楽しみである。
朝のご飯
お粥に大根漬け
昼のご飯
鯛のあら汁にからし菜の煮物
食後のプリンがおいしかった。
夕のご飯
鯛の煮付けに芋の煮っころがし
向かいあわせの席で、僕は君を見つめている。
君が飲んでいるのは、グレープフルーツジュース。
僕は、ラズベリーのサイダーを。
今日に限っては、君に合わせるつもりで来た。
なぜかっていうと、僕は君に言いたいことがあったからである。
「ねえ、君。やっぱり、僕たちは別れるべきだと思う。だから……」
彼女が泣き始めると、僕はやはり口をつぐむしかなかった。
彼女は涙をだらだら流しながら言った。
「ごめんなさい……」
「いやいいんだ。僕が言い出したことだから」
なぜ、君に合わせているか。それはこうなることが、分かっていたからだ。
君が泣くのは、僕のせい。
そして、それにもう、未練はなかった。
彼女はこう言うかもしれなかった。
「もう少しだけ一緒にいて」
でも、それは、僕の幼稚な願望で、彼女は固く口を結んで、それ以降、なにも話すことはなかった。
「それじゃ」
と、席を立つ。
「待って」
「なに?」
「あなたとは、もう二度と合わない」
そう、って僕は返したよ。
メガネの端に映る彼女は、やっぱり頑なで、それが五年の重みだと、思ったんだ。
やるせない気持ちは、いつも悲しみをともなっている。
あの子の苦しみは私の苦しみではないのに。
同情はいらない。
と、あの子はいう。
でも、辛そうですよ。と私は考える。
天上から、降りてくる蜘蛛の糸みたいに、救われたい人々がいて、グレートヒェンの祈りは遠く、すでにここにはない。
振り返ると、いなくなってしまった、人々の影が見える。
彼らは彼らなりに頑張っているのだから、あなたは自分のことをしなさいね、と母の声が言う。
無数の光の中で、出会っていく人達は、皆覗き絵の、押絵の如くある。
人は紡ぐ。ここにいるのだから、頑張って生きなさいと。
聞こえてくる、人々の声は、無数に反響して、私を形作っている。
永遠に語り繋がれていく物語。
その産声に耳を傾けながら。
海の彼方に、まだ見ぬ島があるのなら、行ってみたい。
海より深きもの。
海より恐ろしいものはない。
嵐の日に。
凪いだ風の日に。
航海の日に。
私は毎日、航海日誌をつけている。
航海長、それが私の肩書きだ。
海より深淵を隠したものは地球上に存在しないと、私は考えている。
「皆の者! 帆を張れ! 風をきって大海原を行こう!」
「航海長のお達しだ! 全速前進!」
と、船長のエスメラルダ・ドルカスは言う。
彼女は、このエーゲ海きっての大海賊で、海賊旗はエメラルド色に、ラムの樽、刃。
風をいっぱいに受け、旗は揺れる。
そうして、大海原に波跡をつけながら、進んでいく帆船。
風は吹いている。
私たちを祝福する風が。
船頭につけられた、アテネの神様が、海図と共に行く先を示す。
行く先は、黄金の国ジャパン。
船は、大量のラム酒を詰め込み、さあ出発だ! と息をあげる船長は、長い旅の始まりに、歌を歌った。