今日会った時から思っていた。いつも明るいはずの彼女がなぜだか暗い。
いつもは冗談を言っても軽く受け流してくれるのに、返す言葉が弱々しい。それに目が赤く充血している。…もしかして泣いた後なのか?
そう思いながらも、今日は目的の場所まで案内することになっている。その責務は全うしなければならない。
気づいていないふりをしながらいつも通り話しかけてみる。
でもやっぱり彼女の反応は薄い。
どうにかしたい。今までもずっと隣で見てきた彼女に寄り添えたら。
そう思って、「何かあったのか」とあたかもさりげなく聞いたかのように言う。しかし俺から出た声は緊張しているような、様子をうかがっているような声色になってしまっていた。
「…なんでもないです、」
俯きながら足早になる彼女にじれったくて、
「なんでもないわけねぇだろ。…なあ、俺に言いたくねぇ事でもあんのか?」と彼女の後を追いかけながら問い詰めてしまった。
彼女の足が止まる。
「…ほっといて、ください」
後ろを向いたまま、冷たく言い放った彼女は、夜の喧騒へとまた足早に歩き始めてしまった。
俺はアイツに何も出来なかった。そばにいてやることも、涙を拭うことも。
ただそんなことができなかった俺は、これからもそばにいられるんだろうか。
『涙の理由』
今日の夜、大好きな恋人が帰ってくる。
長すぎた1週間の出張を終え、ヘトヘト顔で帰ってくることだろう。
今日はあの人の好きなものだけで晩ご飯を作ってあげよう。今日は今週会えなかった分だけたくさん話して、1週間ぶりに2人で寝よう。
そんなことを考えたら幸せな気持ちで溢れた。
『ココロオドル』
煙草にゆっくり火をつける。
煙草の先端に付いた火を消しながら、さっきまでの騒動を振り返る。
私は小さな会社の社長を務めている。社長とは言いつつもその名前は肩書きだけで、最近は人員不足のため私も通常の従業員と変わらず同じ仕事をこなしている。
先程は事務所で内勤していたとき、突然スプリンクラーが作動し、大惨事に至った。とにかく長年集めた重要資料は濡れたりせず、どうにかなったものの、廊下やトイレなどが水で浸水してしまい、そのハプニングの対応に追われていた。今日の午後はゆっくりできるといいのだが……
しかしゆっくりしていられるのも、束の間だった。
聞きなれた叫び声がする。これは私の社員の声だろう。
「社長大変です!」
その数秒後、秘書が報告するため屋上に飛び込んできた。
「うちのオフィスがまた大変なことに!」と叫んだ。
秘書はおろおろしている様子だった。
とりあえず状況を見てみないと対処の仕様がない。私は煙草を急いで揉み消し、オフィスへと戻った。
『束の間の休息』
「おい、それは握りすぎだ」
「…そうか?」
自分の握るそれを見つめる。ぎっちりと白い米粒が敷き詰められているおにぎりは、炊きたての白米だからかつやつやと光っている。
「こういうのは心も込めて作るものなんだぞ?」
とたしなめる左隣のあいつは俺の癪に障る言い方をしてくる嫌なやつだ。
「だからこそぎっちり握ったっていいじゃねぇか」
などと口論をしながら、寝ぼけた頭で不慣れなおにぎりを握っていると、寝室の方からスリッパを引きずる音がした。
「おや、おふたりとも早起きなんですね」
と後ろから穏やかな男の声がする。
隣にいたヤツがその人の口調に合わせるように、
「ええ、今日は昼飯を食いに行く時間もないと思いまして。」
あなたの分もありますよ、と穏やかに返した。先程まで俺といがみ合っていたはずだが…。
だからおにぎりを作っていたんですね、と納得したその人は、おにぎりを握る俺の右隣に来て様子を見ている。
俺のおにぎりは少し不格好で、三角であるはずのものが、形が崩れて四角形にも見えなくもないし、頂点が火山の噴火口のようにぼそぼそしている。中央に巻かれた海苔は、おにぎりに正確にくっついておらず、斜めになったものがいくつもある。
「ふふ、美味しそうなおにぎりですね」とその人が言うと、俺が返事をする前に、ええ?とすぐさま不服そうな声が飛んでくる。
「そうですか?こいつのおにぎりはぎゅっとしすぎですよ。もっと優しく握れと言ってるんですが…」
と隣のヤツが言うと、反対側の右隣からくすくす笑う声がした。
「あなたのおにぎりみたいだなと思ったんですよ。最初に作ってくれたおにぎりがそんな感じだったなと思い出してつい」
くすくすと笑うその人の言葉に狼狽するそいつは、本当にこの人を慕っているように見えた。長年、2人でともに生活してきたことが窺える。
俺に家族はいない。もちろん誰かのためにおにぎりを握ったことすらなかった。だが2人の様子を見て、誰かのために作ってあげる料理は、俺が思っていたよりもずっと暖かいことのように感じられた。
『力を込めて』
朝ふと目が覚め、だるい上半身を起こす。
隣には、誰もいない。
そうか、もう彼はいないんだった。涼しくなってしまった右隣のシーツをそっと撫でる。
急にいなくなってしまったあの日。
あの時からずっと心に穴が空いたまま、時が過ぎ去っていく。
春、夏、秋、冬。
どんな風が起こっても私の心を埋めるものは訪れなかった。
今日も彼がいないことをぼんやり思う。もう一度寝ることにした。私の隣にもう一度あなたが眠っていることを願って。
『過ぎた日を想う』