『行かないで』
「行かないでください」
玄関先で革靴を履いていると、滅多にスキンシップを取らない彼から急に後ろから抱きつかれてしまった。
弱みを見せない、むしろ弱みなんてものはなくて、いつも完璧な彼から告げられたかぼそい声。その発せられた声にはいつもの彼のような強さはなくて、巻きついた両腕はただ俺を捕らえて離さない。
「どこにも、行かないで、」
今にも泣き出しそうな声が背中に当たる。無理もない。今日の仕事は最期になるかもしれない、危険な任務だからだ。
「大丈夫です、ちゃんと生きて帰ってきますから」
俺はできるだけ優しい声で話しかけた。決して俺が行きたくないと言ってはいけない。俺はこの仕事に選ばれた存在だから。これがあるべき運命なのだと思い込まなければならなかった。
「ほんとですか」
ゆっくりと腕が解かれていく。俺は彼の方へ向き直った。
彼の輪郭をなぞるようにいくつもの涙が伝っている。目は赤く充血していて、普段の綺麗な顔がぐちゃぐちゃになっている。いつもは表情が読み取りづらい彼は、今日は手に取るようにわかる。俺のことを心配して不安になって涙を流している。もう二度と会えない気がして。
「愛してます」
軽く口付けを交わして、俺はいつもの笑顔をした。心の底から幸せな顔をしていたと思う。
ーー
『愛言葉』
彼に好きと伝えたことはない。好きじゃない、信頼して、尊敬している。
それなのに。
「社長」
俺が呼ぶと資料からゆっくりと目を離す彼。俺を見つめたその視線は、柔らかでまっすぐだ。両目で俺を捉えると「なんです?」と言う。
言葉にしないと伝わらないこともある。このどうしようもないくらい重くなってしまったこの気持ちだってそうだ。この気持ちの正体に気づいてしまったあの日からずっと彼に伝えるつもりでいた。
今日こそ、と意気込んで2人きりのオフィスにいる。
「あの、えっと、俺、社長のこと、」
社長への想いは誰にも負けないくらいなのに、意気地無しは俺に負けるヤツはいない。
「……いえ、なんでもない、です」
失礼しました、と社長の顔も見れずに後ろを向いてオフィスを出ようとする。
今日も言えない。「好き」なんて。いつも完璧な彼が、俺みたいな落ちこぼれの部下に恋愛感情を抱くはずは無いのだ。
と、両腕が俺の体に巻きついた。
「社長……?」
振りほどこうとしたが、抱きつかれたことが嬉しくてそうすることもできない。社長の体温が服越しに伝わって熱い。心臓は狂ったように早鐘を打つ。
「あなたの想いは伝わっていますよ」
ーー
『紅茶の香り』
「紅茶、飲みませんか」
彼はいつもコーヒー派だ。俺は紅茶の方が好きだけれど、いつも彼に合わせていたので紅茶はたぶん半年くらい飲んでいない。
「さっき取引先の方からいただいたんですよ、よかったらいかがです?」と湯気が燻るティーカップを俺の方へ向けた。
「じゃあお言葉に甘えて」
一口口に含むと暖かいジャスミンの香りが口に広がる。さわやかに駆け抜けたそれは心を癒すようだった。
「美味しいですねこれ」と彼へ言うと、彼は俺をじっと見つめていた。
「……美味しそうに飲みますね」
どうやら口に運ぶところから見られていたみたいだった。なんだかむず痒いような恥ずかしいような気持ちになって俯く。
「好きですよ、あなたのそういうところ」
にこやかに微笑まれた笑顔に俺は撃ち抜かれてしまった。
ーー
『懐かしく思うこと』
「……もう随分と経ってしまったんですね」
小さなお墓の前で目を閉じ手を合わせながらそっと呟く。
墓石には10年以上一緒にいた人の名前が掘られていた。その名前を見る度に、本当に死んでしまったんだと心がきしきしと軋む。
私の右隣から降ってくる声も、慌ただしく駆け巡る日々もない。
あの人が亡くなってしまった今、ただ穏やかな日々が淡々と流れている。それは私にとっては退屈だったのだけれど、あの人がいなくなってしまったからなにも出来ずにいる。
久しぶりに出歩く街。ここは私とあの人がまだ会社を経営していた街だ。汚いものが蔓延るなかで、あなただけは輝いているように見えていた。この人と一緒にいたらどんなこともできると感じていたことを思い出した。
街を歩く中で、ここは一緒に遊んだ場所、初めて一緒に交渉しに行った場所、一緒に飲んだ場所……様々なあの人との思い出が蘇ってきて懐かしく思う。
もういないことを考えると身を切られる思いだが、自分の中ではもう踏ん切りはついていた。この場所でもう一度、会社を経営しよう。あなたがそばにいなくても、あなたがいなくても、私がなんでもやれることをあの人に見てもらわなければ。
ーー
『理想郷』
「私はこの街を……」
何度も聞いた言葉だった。俺は彼の言葉の通りに世界は動いていくと思っていた。
けれど。
「ーーさんは残念ですが亡くなりました」
できるだけの手は尽くしました、と目を伏せて言われる。真っ白になった顔を見て、どうして、と思う。無理もない彼は身体が弱かったのだ。それに致命傷である右腕の損傷。それは俺を庇ってのことだった。本来なら俺が背負うべきだった傷だった。
それでも彼を生きさせられなかった医者をぶん殴ってやろうと握り締めた拳は、俺の横で寒さで凍える小動物のように震えていた。
……俺は何も出来なかったのだ。ただその罪悪感に飲まれた。
彼の訃報から3年が経つ。早すぎる月日の流れに深いため息を吐いた。
俺はこれからあの人のために何かできるだろうか。完璧な彼にすらできなかったことが、こんな俺にできるのだろうか。
「できますよ、私の右腕だったあなたなら」
聞きなれた声にはっとして伏せていた顔をあげる。
しかしそこには彼はいなかった。ただ彼の名前が彫られた墓石がぽつんと寂しそうに建っている。
風が吹いた。
ああ、俺、あの人に救われてばっかりだと涙を拭う。
「前を向きます。」
墓石の前でそう宣言する。風で前髪が揺れる。
「俺、あの時造れなかった社長との理想郷を、造ってみせます」
風がまた頬を撫でる。柔らかく誰かに触れられたように暖かかった。
『やわらかな光』
やわらかい光はいつまでも遠くに届いて
まっくらなわたしの心臓さえもあたたかいそれに照らされた
覆い隠された黒い霧は晴れて
わたしの心臓は動き始めたばかりだった
ーー
『忘れたくても忘れられない』
「残念ながら、あの人は死にました」
項垂れて言うその人は、彼の部下だった。
「そうでしたか」
人は呆気なく死んでしまうものだな、と幾度となく誰かの死を間近で見てきたというのに人の死に直面する度にそう思う。
「彼のことは残念ですが、忘れてしまわれた方が……」
忘れるなんて到底無理な話だ。
あの人は素敵だった。誰がなんと言おうと、私の計画を邪魔する邪な人であっても、私の恋人であることには間違いはなかった。
ネクタイの仕方を忘れてしまった。あなたが結んでくれていたせいで。
車の運転も忘れてしまった。あなたがいつもどこかに連れていってくれるせいで。
全部全部あなたのせい。できないことをさせないで、できることを奪うのなら、私が死ぬまでずっとそばにいてよ。
そんなわがままを押し込んで、
「そうですね」と部下に口角を上げた。
ーー
『秋晴れ』
「見てくださいあれ」
彼の言った「あれ」を探す。指された「あれ」は真っ赤に燃える紅葉だった。
「きれいですね」と返すと、何を思ったか彼はその近くまで走り出した。俺も続けて後を追う。
「こんなに綺麗に色づくんですね」と近くに来てもなお見惚れている様子だった。無理もない、やっと彼の目に「色」が付いたのだから。
彼は先天的に色彩を感じ取れない病気にかかっていた。それが今の医療の進歩で見えるようになったのだった。今日は手術が成功して退院してから初めての外出だった。
彼は全てのものに感動した。「色が見える」と。色が感じとれないから「赤色」と言われても分からなかったのである。
白と黒の世界だけで生きてきた20年間はどれだけ辛いものだったか、容易には想像できない。しかし、彼の喜びようを見るに、色が分かることは彼にとって感動的なものなのだろう。
「あ、もみじ」
そう言って足元に落ちていた葉を1枚拾い上げた。
「これが赤色」
俺はしみじみと呟く彼の横顔を見ていた。
この先、白黒の世界から抜け出して色づいた世界を、同じ目線で見る事が出来ることは幸せだ。彩られた世界の中で、ずっと一緒にいたい。
ーー
『すれ違い』
「何度も言ってるじゃありませんか。この任務は私ひとりに任せてください」
「あなたは何も分かってませんよ、社長。この人たちがどれだけ危険か分からないんですか?」
「それも全て承知の上です。私はもう大丈夫ですから。あなたは違う任務をお願いします」
話は終いだ、と言うように社長はオフィスのドアはバタンと閉めた。
1人、誰もいないオフィスに取り残された俺はタバコを咥え火をつけた。
ふうと吐きながら、一息つく。
社長はあの組織の恐ろしさがわかっていないのだ。
俺は、社長と出会った時からずっと社長の部下として従うことを決めた。しかしさっきの任務を1人では難しすぎる。いくら交渉が上手な彼であっても、銃を取り出されれば殺されかねない。
目的のためならどんな犠牲も厭わない組織には交渉などというものでは穏便に帰してはくれないだろう。
それに、俺はどうしても社長を失いたくない。
彼は、家族も身寄りもない捨て犬だった俺に手を差し伸べてくれた光のような人だ。
それまで失い続けるばかりの人生だった。彼まで失うことはもう考えたくもない。
そして彼は健常者ではない。今は重い病気を患いながらも生きている。生きているだけでも奇跡なのに、そんな危ない仕事は任せられなかった。
死なせたくない。その思いは伝わらなかったようだった。
※今回は3作品掲載。
ーー
「あ、」
俺の目の前を歩いていた男がぴたりと足を止めた。
「どうしました?」
「そこのコンビニ寄っても?」
「ええ、構いませんよ」
この男が煙草なんて珍しい。煙草を吸ってるヤツなんて周りには多いが、彼がまさか吸うとは思わなかった。
俺はコンビニの前で待つことにした。
するとすぐ彼は戻ってきた。
「珍しいですね、煙草なんて。」
と言うと、びっくりしたように目を丸くした。彼はジャケットの中のポケットから、白い箱を取り出した。
「キャラメルを買いに行ったんです」
「え?キャラメル、ですか?」
予想外の言葉に聞き返すと、ええ、と頷く。
「実は、甘いものを定期的に摂取しないと最近だめなんですよ」
とさっそく箱を開封して銀紙に包まれたキャラメルを口に入れた。口の中に広がっているであろう彼の口が緩んで笑顔になった。
そんな彼に、少し呆気に取られる。
先ほどまで、ケンカを売られた相手をボコボコにしてきたというのに、子どもが買うようなお菓子を食べてにこにこしているなんて。
「あなたもお一つどうです?」
「・・・じゃあいただきます」
俺達はオフィスに入るまでキャラメルを食べながら街を歩いた。
口の中は甘いキャラメルで満たされていた。
『子供のように』
ーー
「この自分の手で、どこまでこの世界に迫れるか、試してみたい」
そう言ったあなたはどこか遠くに行ってしまったような気がした。
「今日もありがとうございました」
いつもお世話してくれてありがとう、と眉を下げた男は右腕を外した。
その右腕は、彼の元を離れてベッドの隣のテーブルに置かれる。
「義手にはなかなか慣れませんね」
右腕をそっと撫でて苦笑する彼の顔には、疲れたと書かれてあった。
「もう早く寝ましょう。明日も早いんですから」
と促すと、彼は静かに頷いた。
「おやすみなさい」
そう言って彼は俺のおでこにキスを落としてベッドに赴いた。
この人は、いつまで俺を右腕として置いてくれるのだろうか。
時々、俺が必要ない男のように感じる。
昔はそうであったからなのだろうか。
俺と出会って、あのとき俺をかばったことで右腕はなくなって、俺を「右腕」としてそばにおいて、俺に身の回りの世話をさせて。
俺ができることなんて本当はないのかもしれない。
俺の失態で、俺のせいで、できないことはないような完璧な人が、俺がいることで、どんどんできることができなくなってしまっているように思われた。
・・・彼はどこまで行けるのだろう。どんな高みまで行けるのだろう。
俺なんか、必要ないんじゃないか。まるで疫病神みたいな俺なんか。
「私は、あなたとだから、高みを目指せると思っているんですよ」
眠っていたはずの彼が、後ろを向きながらぽつりとこぼす。
「あなたは私の『右腕』ですから」
『高く高く』
ーー
時々する、あの目。
いつも俺を見る目とは違う目つきに心臓を見透かされたような心地がする。
そして、隣にいる男が何か得体の知れない物のような気がしている。
目の奥にはなにもない。
黒の空間が広がっている。
この男の蔑むような視線が好きだ。
『鋭い眼差し』
夕日と揺れる想いが
とろとろと溶けていくような
そんな放課後が愛おしくて
このまま一緒にいられたら、なんて
『放課後』
あまり感情を表に出すタイプじゃないあなたの表情が読み取れるようになったのはいつからだっただろう。
「感情が死んでるよね」
そう茶化されたことが気に食わなくて、頑張って意思表示しようとする最近のあなたは、嘘をついて生きているような気がした。
涙はこぼれない。でもあなたは少し悲しそうな目をした。
ふわりとカーテンが風と踊る。
開かれた窓から舞い込んだ風と暖かな陽射しが、まるで私たちを誘っているようだ。
おもむろにぱっとあなたの手を取る。小さくて細い手。驚いたように目を見開いたあなたを見てああ愛おしいな、なんて思う。あなたはあなたのままでいい。その細やかな表情の移ろいは、私だけが分かっていればいい。
立ち去った部屋には揺れるカーテンだけが取り残されていた。
『カーテン』