泡沫

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10/5/2023, 1:56:45 PM

「……というわけで今日から数日間、オフィスには帰ってこられません。」
と伝えた。目の前にいた彼女は、覚悟を決めたような真剣な顔をしていた。
そんな顔をするのも無理はない。私の仕事は常に生と死の隣り合わせ。いつ死ぬかも分からない。今回は通常の仕事よりももっと死ぬ可能性が高い危険な仕事を仰せつかったからである。

「じゃあ、これを持って行ってください」
と彼女はポケットからあるものを取り出した。
「ペンダント?」
それは中央に十字架が描かれた円状のペンダントだった。周りには白い粒のようなものが舞っているように見える。

「……私は神を信じないのですが」
そう言うと彼女は、「いいから!」と半ば無理やり持たせた。
一度決めたことは曲げない主義の彼女だ。何度言ってもそれは変わらない。「分かりました。持っていきますから。」と私は首にかけ、ワイシャツの下にペンダントを滑らせた。

今回の任務は殺しではなく交渉。
取引をしてくればそれで解決なのだという。

思っていたよりも交渉はすんなり成功に終わった。
数日かかると見込まれていたものを一晩で済ませたことを報告するとボスも上機嫌そうな声色だった。

報告し終えた後、帰ろうかと思った時だった。
後ろから一発の銃声が鳴り響く。音は反響し私の鼓膜の中を震わせた。

振り向くと、そこには先程まで交渉していた相手の部下らしい人がこちらに銃口を向けている。裏切りだ。

素早く死角に隠れると、ハンドガンを手に持ち、相手の様子を伺う。
しかし、油断していた。部下はもう1人いたのだ。
相手は私の胸めがけて発砲した。

撃たれる。そう思った。一気に走馬灯が流れる。真っ先に思い浮かんだのは彼女だった。様々な表情をした彼女が私の目の前を通り過ぎていく。もう二度と会えない。そう思った時、とてつもない絶望感に襲われたと同時に、生きることへの諦めも頭をよぎった。
しかしもう時は取り戻せない。私は撃たれて死ぬ。そう覚悟を決めた。

その瞬間だった。
私の胸を貫通したとさえ感じた心臓が血1滴流れていない。
撃たれてなどいなかったのだ。
彼女が無理やりよこした十字架の描かれたペンダントが、私の胸を守ったらしい。


「ただいま戻りました」
おかえりなさい、玄関まで来てくれた彼女が言い終わるのが先だったか、私は唐突に彼女を抱きしめた。いつもはスキンシップなど取らない私だ、彼女は頭がおかしくなったんじゃないかと心配する。

私は今日あったことを話す。数日かかると思われた交渉が一日ですんなり終わったこと、交渉相手の裏切り行為に遭ったこと、無理やり持たされたペンダントが私の胸を守ったこと。

全ていい終わったあと、ほっとしたような顔で良かったと何度も呟いた。
私はずっと気になっていたことを聞いた。

「なぜこのペンダントには十字架が描かれているのですか?」
「…これはみなみじゅうじ座という星座を模したものです。」
彼女は続けた。
「大航海時代の船乗りたちが、この星座に航海の安全を祈願していたんですよ。」と言った。
「それで安全祈願にこれを送ったということですか。」
そうです、と穏やかに笑う彼女をもう一度抱きしめた。


『星座』


追記
10/05の誕生星のイオタ・クルキスの星の場所が、みなみじゅうじ座のあたりなのだそうです。

10/4/2023, 1:37:29 PM

「もう1杯くださぁい」
「ダメですよ、そんなに酔ってしまっては」

酒を飲みたいと駄々をこね始めた彼女は、酔いが完全に回っているのにもかかわらず、お酒を飲む手は止まらなかった。いつもに増して緊張感がなく無防備な姿を見せるあなたに他の男にも酔ったら同じ態度をとるのか、と少し嫌な気持ちになる。
口を開けば、今お付き合いしている男の話ばかり。これが不満だとか、このように言ってきて腹が立った、などである。

私なら嫌な思いなんかさせないのに。そう言いたくなる私がなんだか薄っぺらい人間のように思われて、吐露しそうになる口を噤む。その話を聞きながらにこやかにいつも通りの私を演じた。

あんな男なんて捨てて、今宵、私で上書きしませんか。
辛かったこと、苦しかったこと全て、私との記憶で塗り替えましょう。

肩をとんとんと軽く叩き、眠りにつきそうだった彼女は振り向く。
私は左手を胸に当て、軽く頭を下げながら彼女の目の前に右手を差し伸べた。今夜、あなたが忘れられるほど楽しいひとときを過ごすために。

『踊りませんか?』

10/3/2023, 2:30:06 PM

「あいつが言ってました。『俺はずっと兄貴のことが好きでした』と……。」

「……そうでしたか。」

今考えれば、あの人とは長い付き合いだった。
最初の印象は犬だった。
一匹狼だった私に、噛み付いた犬。
それは弱くて、年上のはずだけれどまだ幼く見えた。

喧嘩をし終えたあと、あの人の方から
「俺の『兄貴』になってください」と言われた。

私はそれに断ろうとした。私ごときに負けるような弱い存在だ。利用する価値のない人だと思っていた。

しかし、断ってもことごとく着いてくる真っ直ぐなあの人に、今度はこちらが負けた。了承したとき、あの人が心底嬉しそうな顔をしたのを覚えている。人はこんなに無邪気に笑えるのだと思った。

そのあとは、私も若かったせいか、色々なことをした。取り立て、盗み……力を奮うことがいつの間にか楽しくなった。
それはきっとこの人とだからなんだろうとどこかでそう確信していた。

肩まで伸びた柔いブラウンの髪。優しそうな、どこか不真面目そうな瞳。
いつも助言してくれるこの人は、私を利用しようとして近づいたのではないと気づいた。
この人となら、どこまでも行ける気がした。どんな極悪人が蔓延っていてもこの人と私なら簡単にねじ伏せられると思った。



ある日、ある場所へ交渉をしに行った時だった。

ドアを開けて入ってきた私たちに、真向かいの男が銃口を向けた。
私たちを殺す罠だったのだ。
銃口の先はあの人。
彼は後ろを向いていてまだ男に気づいていない。
このままではこの人の命が危ない。

彼の腕を力いっぱい突き飛ばす。
突き飛ばされた彼はひどく動揺していた。
その表情を見た瞬間、私の右腕に激痛が走った。

「……さん、しっかり!」

無傷のあの人を見て、ああよかったと安心した。
それとは反対に彼の必死そうな表情をしていた。それを最後に私の意識は途切れ、私の右腕はもう二度と戻ることはなかった。



その事件から、彼は私の「右腕」として働いてくれた。
私の身の回りの事から、仕事のことまで。なんでも言われた通りにこなしてくれるあの人。私の体の一部のように動く彼には右腕という言葉がぴったりだった。
今日、死んだと聞かされるまでは。


私の言った指示通り、きっと死ぬ瞬間まで動いてくれていたのだろう。どこまでも健気に着いてくれていたことは嬉しかった。
しかし私の右腕は完全に死んでしまったのだ。


好きでした、か。
あの人が遺した言葉を頭の中で反芻する。

私のワイシャツのボタンを不器用ながら毎朝止めてくれる大きい手。支えてくれる度に香る香水。

あの人の笑顔、困り顔、泣き顔、怒った顔。

真剣に交渉してきたおかげでやっと交渉成立した日。
我を忘れて飲み明かした日。
時には裏切りがあり、ボロボロになって2人で歩いた日。
たくさんの時間と感情を、あの人と共有してきた。



あなたの言う「好き」は「兄貴として」ですか?それとも……。


また機会があったらお返事を聞かせてくださいね。
そう心の中で呟いたあと、暗い部屋に一筋の光が射し込んだ。今宵は満月だ。

「月が綺麗ですね、」
そう呟いたとき、後ろであの人に似た声でこう聞こえた。

「あなたと見るから綺麗なんですよ」



『巡り会えたら』

10/2/2023, 11:14:03 AM

「兄さんの場所が分かったぞ」
急いでやってきてくれた人に返事をする暇もない。白杖をつきながら早足で兄のいる場所へと向かう。急げ、急げ。足を止めるな。10年前に生き別れた兄。この街に来ていると知ってから5年。それでも全く会えず、もう死んでしまったのかとさえ思った。この街に来てから辛いことも苦しいこともあった。目が見えなくなったのもこの街に来てからだ。辛いものをもう見たくなくて。でももう大丈夫。兄がいたら。兄がそばにいてくれさえすれば、また生きることが出来る。ここで足を止めてはだめだ、また兄に会えないような気がする。

「お兄ちゃん……?」
後ろから案内してくれた人の息を飲む声がする。
何も聞こえない。お兄ちゃんの声も。足音も。

「お兄ちゃん、どこ?」
分からない。聞こえない。
おそるおそる手を出しながら前に進む。

数歩歩いたところで、なにかに触れた。怖くて足がすくむ。

「え……?」
それは人の肌だった。冷たい。なにかに切られたような跡がある。その付近には水のような液体が付いている。おそらく血だ。

……これがお兄ちゃん?
カッと熱いものが頬を伝う。
頬。手。髪。間違いなく、わたしのお兄ちゃんだった。

ようやく会えたと思ったのに。2人でこれから生きていけると思ったのに。
ああ、神様。もしもあなたがいるなら、お兄ちゃんをもう一度生かしてください。

『奇跡をもう一度』

10/1/2023, 1:55:38 PM

煙草に火をつける。煙が夜風に吹かれて遠くへ行くのをぼうっと見ていた。あのとき。もしもあのとき、ああしなければ。ああしてれば。もう考えても無駄なのにいつまでも考えてしまう。

「考え事か?」
お前にしては難しそうな顔をしてる、と俺の顔を覗き込んだ兄弟が言う。そう言われて我に返った。
ふざけんなと鼻で笑って、短くなった煙草を足で消した。
「仕事行くぞ、兄弟」
後ろで、おうと声がした。


『たそがれ』

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