寿ん

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10/11/2024, 5:47:25 AM

涙の理由


電車を降りて駅を出たところで、ポケットのスマホが震えた。確認すると、どうやら不在着信があったらしい。電話主を見てどきっとする。
慌てて歩道の端に寄り、折り返しをかけた。呼び出し音に手が汗ばんだ。
Rrr...Rrr...R
『はい』
「あ、福井です。すみません、さっきお電話いただいてたみたいで気がつかず……」
『ええよええよ。よく考えればさっきまで電車乗っとったよな』
「そうですね。ちょうど駅出たところで」
『せやんな。今ちょっといける?長くなるかもやけど』
……深呼吸。
何を言われるのか、わかるようでわからないけれど、それは私を傷つけたい訳じゃない。それだけは確かだ。
「はい、大丈夫です」
『よかった』
電話の向こうでほほ笑む様子が目に浮かんだ。
『ほなじゃあ、一旦最後まで聞いてほしい』

その人が電話越しに話したことは、主に謝罪だった。軽率なことをしてしまった、本当に申し訳なかったと繰り返していた。
私はどうでもよかった。むしろそれを聞くのが苦しかった。もういいですって遮りたくなった。
ひと通り謝り終えて、その人は少し沈黙した。やがて、ぽつりとつぶやいた。
「福井のこと……大事に思ってるんよ」

あ。
先生、あなたは私のことをわかっていた。私のこの心を知っていた。だからきっと難しかった、だからいつも寄り添ってくれた。
私が欲しい言葉を持たないから。
だからあなたはあんなにも、悲しい目をしていたんだ。

「先生」
溢れ出る感情が頬を伝う。
「やっぱり先生は」
うん、と電話口の向こうで頷いた。
「やっぱり先生は、私の恩師です」


                『彼女と先生・終』

10/9/2024, 1:13:15 AM

束の間の休息


駅の中のファストフード店が、今日はありがたい。
「いらっしゃいませ。ご注文をお伺いします」
「えーっと、コーヒーのSを……いや、やっぱりカフェオレで。あ、いややっぱり」
「大丈夫ですよ、今はお客様も少ないですから。ゆっくり決めていただいて」
「ごめんなさい本当。えーっとじゃあ……」
眠いわけではない。けれど目をさましたい。けれど夢に浸っていたい。けれど甘いのはもう十分な気もする。けれど−−−。
「じゃ、コーヒーのSとアップルパイで」
「かしこまりました。店内をご利用ですか?」
「そうですね」
「かしこまりました。ご注文を確認します、ホットのブレンドコーヒーのSサイズがひとつと、アップルパイがおひとつ。以上でよろしかったですか?」
「うん」
「では合計で330円いただきます」
財布を開くと、ちょうどの小銭が入っていた。トレーにのせる。若い店員は手際よく金を拾ってレジを打つ。
「ちょうど頂戴いたします。それではこちらをお席においてお待ちください」
札を受け取って、外向きのカウンター席に座った。昼時というのに店内に人はまばらだった。
ぼうっとしていると、さっきとは別の若い人が注文したものを運んできた。礼を言ってコーヒーに口をつける。
顔をしかめたのは苦いからでも、何か気に入らなかったからでもない。ただ熱いまま喉を通るこれが、今のわたしには必要だと感じた。
「ああ」
ため息がでる。
「ごめんな、福井」
アップルパイをかじった。ブラックコーヒーとはまるで対照な甘さ。熱々であることだけが共通点だろう。
わたしは、どちらかしかできないのだな。コーヒーかパイか、彼女はどちらかひとつを望んでいるのではないだろうに。

330円の休息は15分と経たずに終わった。その間に気がついたこと。店を出たなら、やるべきことがある。
わたしはスマホの電話帳を開いて、彼女の名前を探した。


                  『彼女と先生』

10/8/2024, 1:25:22 AM

力を込めて


「あ」
思わず口を出たせいで、
「あ」
向こうも私に気づいてしまった。改札口。
目が合ったなら、挨拶ぐらいはするべきだ。ICカードをタッチしながら
「お久しぶりです、先生」
「おー久しぶり」
ワンセットの礼儀を終えたところで、きっと離れるのが正解だろう。おかしな期待も幼稚な妄想もいらない、この人には通じないから。
「あ、じゃあ私こっちで−−−」
「大学どう?ちゃんとやれてるん?」
「え」
上手く別れられなかったせいで、駅のホームの端っこに、ふたり並んで立つ羽目になった。先生は相変わらずきっちりとスーツを着こなして、やっぱり背は高いまま。
「えっと、まあ、それなりに頑張ってます」
「うん、ほどほどが1番ええよ」
13時を過ぎたホームに人はほとんどいなかった。
「……結構、忙しくなって」
なんて自分から喋り始めたのは、気まずい静けさが嫌だったからじゃない。ちょっと沈黙があけば、先生は即座に話題を見つけてくれるような人だもの。
あの日で最後って覚悟を決めたのに私、今ものすごく嬉しいから。
「家にいる時間って減ってるんです。帰っても7時近くなってると家事でバタバタで」
風が吹いた。流される髪を片手でおさえる。
「だからそういう面では、楽かもしれないです。……母のこと、思い出すことが減るから」
真っ直ぐ向かい側のホームを眺めていた先生が、こちらに顔を向けた気配がした。私は変わらず足元の点字ブロックを、穴が開くほど見つめていた。
「福井」
「はい」
「お願いがあんねんけど」
「はい」
「目つぶって」
「はい……え?」
つい顔を上げると、視線がぶつかった。どうして先生がそんな表情をしているのかわからない。
「目」
繰り返す。
「つぶって」
悲しそうな瞳で。
おそるおそる目を閉じた。風は少し強くて、空気はちょっと冷たかった。
ふいにその風がなくなった。それと同時に、背中に温かいものが触れた。

手のひら。

その温もりが背骨をなでるように横断する。耳元に布の動く音がする。後頭部にもう片手が添えられる。それから−−−。
いつもかすかに感じていた柔軟剤の香りが、今、こんなに近くに。
私の腰に触れる手に力がこもった。額にワイシャツの感覚がする。頬に鼓動が聴こえている。私に合わせて身体を丸めた先生の、震えるような息が首にかかる。
わけがわからないまま、私は言われた通りじっと目をつぶっていた。

どれくらいそのままでいたのか。それほど長くなかったのは確かだ、次の電車のアナウンスでそれまでの温もりは私を離れたから。
汗をかきそうなほど熱かった身体を、風が冷ましていく。
「もうええよ、目開けて」
ゆっくりまぶたをあげると、ちょうど電車が流れ来たところだった。
「あ、あのっ、先」
「先に乗り。わたしは1本遅いのに乗るから」
背中を押されて乗ると、間もなく電車のドアは閉じてしまった。
ホームを振り返る。先生は片手で額を押さえて下を向いたまま、私を見なかった。


                  『彼女と先生』

10/7/2024, 1:24:34 AM

過ぎた日を想う


「彼氏ほし〜!」
「な!このままやとクリスマスぼっちやん」
「いやあ、男なんて大したことないって」
なんて、よその学生たちが盛り上がる声が聞こえてきた。
わたしにはどうでもいいことだ。彼女たちに恋人ができようが、わたしはただかわいい生徒たちが幸せになってくれれば。彼らのパートナーがちゃんとした人であれば。
……彼女は、もしかして恋人ができたりしているのだろうか。

「あなたさあ」
夕食後、洗い物をしていると妻に呼ばれた。
「ん、なに?」
「……あんまこんなこと言いたくないけど」
妻は洗濯物を畳む手を止めない。わたしのほうを見ずに話を続ける。
「あの子は今どうなの?」
「あの子?」
「あなたが肩入れしてた子。去年、担任してた、……親御さん亡くしたっていう女の子」
「ああ」
泡を落とした皿を水切りかごに並べていく。
「福井ね」
「そう、その子」
妻が立ち上がった。タオルを腕に抱えて洗面所へ向かう。
戻ってきてから、わたしは鍋を洗う手を止めた。きちんと話しておきたい。そう思って口を開くと
「あのね」
妻が制した。
「私が言いたいのはもっと単純なことなの。あなたは教師でしょってこと」
わたしの手からスポンジを取って、洗い物を始める。
「私のことは気にせずに、あの子の支えになってあげなよって話。ただし」
勢いよく泡を洗い飛ばす。わたしを振り返り、にこっとする。
「犯罪だけはせんといてよ。息子もいるねんから」
さ、お風呂入ろと脱衣所へ行く妻の後ろ姿を、黙って見送るしか出来なかった。

わたしは教師だ。夫でも父親でもある。彼女の視線に気がついても、どれだけ抱きしめて慰めてやりたくても、それを許さないのは世間だけじゃない。
そのはずだった。
彼女の背中に触れた温度、わたしの胸に感じた呼吸、それは日々のように過ぎ去ってはくれない。だから想えない。
わたしは彼女を「思って」いる。「想え」るのは過ぎた日々だけだから。



                  『彼女と先生』

10/5/2024, 12:59:14 AM

「踊りませんか?」


すき。色素の薄い目が。
すき。振り返るときの横顔が。
すき。どこまでも優しいその声が。

夢を見たんです。
小さいけれど美しい広間に、いろいろな洋服をまとった人々が集まっていました。私はいつもの制服を着て、スーツに身を固めたあなたを見つけました。
最初のダンスが始まりました。今夜の主役のふたりが、とても幸せそうに手を取り合って踊っていました。それはまるで時の流れがゆったりとしたように見えたのです。
2曲目になると、みんなそれぞれがパートナーを探して踊り始めました。私は煌びやかな人々を眺めながら、あなたのことも見つめていました。あなたはひとり、ごちそうが並んだテーブルの後ろに立って、私と同じように広間の真ん中に視線を向けていました。
シャンデリアの光を受けたその瞳があまりにも綺麗で、思わず見入っていると、あなたがこちらを向きました。
あたかもロマンス映画のワンシーンのように、周りの音が消えました。人々もなくなりました。私が一歩踏み出すと、あなたもこちらに足を出すのです。
やがてふたりは10センチの距離まで近づきました。あなたは背が高いから、それとも私の背が低いから、私は首を伸ばしてあなたを見上げました。あなたの髪が額に触れて、少しくすぐったくなりました。
「あなたの」
勇気を出して言葉を絞りました。
「最後のダンス、くださいませんか」
あなたの息が鼻先にかかりました。あなたは困った顔をして首を振りました。制服のスカートを指差していました。
あっと気がついて、私は化粧室に飛び込みました。確かにこれじゃいけません。きちんとドレスに着替えなくては。
私のドレスは、白いレースに桃色の刺繍がある膝丈のものでした。髪も1度ほどいて、かわいくなるよう結び直しました。
化粧室を出てあなたを探すと、あなたはバルコニーへ出ていくところでした。追いかけて手を伸ばしましたが、すんでのところで声をかけるのをやめました。
あなたはひとりではなかったのです。深い紅色のドレスをまとった方と一緒にいらっしゃるのです。
私は自分のドレスとその方とを見比べました。私のはかわいらしいけれども、幼稚でした。あの方のは単調だけれども上品でした。
私は苦しくなって、けれどそこから逃げるのもなんだか癪で、カーテンに隠れて様子を見ていました。
あなたは膝を折りました。右手をすらりと差し出して、その方に頭を下げました。
「わたしと踊りましょう」
とたん私の目に溢れたそれはどんな感情だったのでしょうか。あなたの相手はすでにいたのです。私はそれを知っていたはずだったのに。

帰り際、あなたは柱の影にしゃがみ込んだ私を見つけました。
「気つけて帰りや」
紅いドレスの方も心配してくださいました。

どこまでも優しいその声が好き。
こちらを振り向く横顔が好き。
あの方を見つめるその目が好き。

誰も去ったダンスホールに、私はつぶやきました。
「一緒に−−−−せんか?」



                  『彼女と先生』

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