〈夢を描け〉
『若人よ、大志を抱け。』
なんて言われても、僕にはわからない。
大志ってなに?
若人ってだれ?
それは本当に僕に言ってる?
わからないから無視し続けた。
いつかわかるようになる日を漠然と待ちながら、どんよりとした曇り空を見上げていた。
いつしかポツポツと雨が降り出して、何も見えなくなった。
見えなきゃ困るから、下を向いた。
そのまま歩くことにした。
いつのまにか、大人になっていた。
わたしは思う。
都会の駅の大きな広告に、どこかの国の気球がたくさん浮かぶ風景を見たあのときから、きっと世界の時間は止まってしまったのだ。
わたしだけ取り残されるなんて、そんな寂しいこと言わないでくれ。
あの日抱いた夢が叶わないと知ったのは、たぶん、その翌日だ。いつまでも長々と報われない希望を引きずるなんてミジメだ。
大人になるとは、そういうことなんだ。
わかるかい、だからわたしは君に言いたい。
「夢を描け、若人よ。
それの無意味さを知ったとき、君は真の大人になれるのだから」
春恋
はる子、という子がいた。私は彼女が好きだった。
なんてことない、ふつうの女子高生で、私とは違うグループの子たちとよくつるんでいたけれど、だからといってグループ外の人には無愛想なんてこともなかった。
その高い背が好きだった。
その凜とした眉が好きだった。
その長い手指が好きだった。
彼女の手は、隣のクラスの人の家を燃やした。
ニュースは瞬く間に学校中、街中、国中に広まって、彼女は犯罪者になった。
みんな彼女を避けた。学校に帰ってきたら彼女を、みんな、歓迎しなかった。
私でさえも。
家の裏に、桜が咲いた。風が吹いた。花が散った。
はる子の高い背も、凛々しい眉も、もうあまり思い出せない。
ただ、彼女に恋をしていた、それだけをずっと覚えている。
新しい地図
嚥下する、僕のすべてを。
降下する、すべての僕が。
硬化する、麗しのチーズ、カマンベール。
我慢できる?飲み込まないで。咀嚼して咀嚼して、どろどろに溶けてもまだ喉には通さないで。
気管を塞いで身体に溜まって息ができなくても、
おあずけ。
ね、こんなのはじめてだろう?
安心してね。僕が君に見せてあげるのは、新しい世界の地図だから。
投下する、君にすべてを。
放火する、君のすべてに。
硬貨ひとつ、チーズの中に隠したから。
君はでろでろに溶けた口で笑って、僕を嚥下するだけでいい、麗しの僕のカマンベール。
小さな幸せ
(読み)チイサナ−シアワセ
ここであなたに会えること。
類語→懐かしいあの味
対語→ 「なんだかさみしい」
『わたし辞書』
春爛漫
春爛々、私の心は淡々。
「お久しぶりです」から始まって、何も特別でない挨拶で締めた手紙を投函した。
雨たらたら。あなたのことをただつらつら。
頭に広げたノートに書きつけていたら、きっと今、兼好法師の気持ちがわかる。
風さらさら。あの人の髪がゆらゆら。
軍隊かしらと思うほど規則正しいエスカレーターの列に並んでいたら、ああ、見つけた。
春爛漫、桜満開、未満。
あなたの隣に並んだら、私の心に春がきた。