寿ん

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7/16/2025, 11:47:03 AM

『真昼の夢』


夢を見ていた。
わたしは彼女の横を歩いていた。

桜が咲いた川辺を、ゆっくりと、何も言わずに。

いつのまにかわたしは、彼女の手を握っていた。彼女は何の反応も示さない。ただじっと、前の一点のみを見つめている。
わたしのことさえも見えていないように。

夢だとわかっていた。
彼女が、こんな近くにいるはずがないのだから。

だから腕をつかんで、引き寄せた。

されるがままに、彼女はわたしにもたれかかった。マネキンのように、手応えはまるでなかった。

プラスチックの頬に唇をつけた。
誰のものでもない耳にひと言、ささやいた。

この瞬間だけ、彼女はわたしのものになった。

わたしは自身がケモノと化す前に、彼女から手を離した。スーツのポケットのなかで、スマホが着信音に震えていた。


目を開けると、そこはいつもの道の上だった。
ランドセルを背負った子どもたちが、午前授業の開放感を全身で表しながら追い越していく。

こんな真っ昼間に、道の真ん中で、わたしは幻覚でも見ていたのか。

わたしは歩きだす。夢の中の彼女と同じように、ただ前一点のみを見つめて。
わたしより頭ひとつぶん背の低い彼女を、探してしまわないように。

6/15/2025, 11:03:30 AM

『マグカップ』


あなたが手を振り上げた。

あっと思って身をかがめると、あなたの手にあったそれは頭上を飛んで、3メートルほど離れたところに落下した。
がちゃあんというよりは、ごとぅんという音をたて、マグカップはカーペットに転がる。

あなたは目を真っ赤にして、肩で息をして、頬をつやつやと濡らしていた。ふっ、く……という声を喉から漏らし、無傷のマグカップをにらみつけていた。

うう……と顔を歪ませたかと思うと、ぱっと身をひるがえしてリビングを出て行った。

わたしはぼうっと座りこんで、それからマグカップを振り返った。持ち手を左下にして、大人しく床に寝ている。

そっと持ち上げた。
あなたのお気に入りの、白地に黒い線でねこの絵が描かれたマグカップ。土曜日のおやつにはよくコーヒーを淹れて、ミルクもたっぷり注ぐのが習慣だった。

……今日ももしかすると、そうするかもしれない。
そう考えて、マグカップを洗いにキッチンへ向かった。

あろうことか、泡立てたスポンジで飲み口をこすったとき、わたしはマグカップをシンクに落としてしまった。

いつもなら平気な高さなのに、今回ばかりはがちゃあんと派手な音を立てて、ねこのマグは割れてしまった。

「ああ……」
声が喉を伝って這い上がってくる。
「ああ、ごめん、ごめんなさい……」

ねえ、あなた。わたしのかわいい妹。
ごめんね、あなたの痛みに気づけなかった。苦しさを考えていなかった。

わたしは破片を指でつまんで、新聞紙に包んだ。ねこの顔の部分だけきれいに残っている。これだけは捨てられないと思った。

戸棚からわたしのマグカップを取り出す。
インスタントコーヒーの粉を量って、お湯を注いで、ミルクをたっぷりと。
冷めないうちに、妹の部屋に運ぼう。
嫌がるかもしれないけど、抱きしめよう。

あなたが大事だよと、大好きだよと、伝えなくちゃいけない。

6/13/2025, 4:45:41 AM

『I love』


すきよ。
わたしをなぞるその目が。

すきよ。
わたしを開くその指が。

だいすき。
わたしに心をくれるあなたが。

今、わたしを読んでくれたあなたが
すきよ。

5/28/2025, 10:29:25 AM

『さらさら』


一昨日ね、スマホ手に持ったまま、駅まで急ぎ足で歩いてたんですよ。

帰宅ラッシュでね、人の波、波、もう大変。

でも次の電車逃したら、帰りのバスがなくなっちゃうからね、がんばって間に合わせないと。
田舎に住むってそーゆーことがヤだよねえ。

そうそう、それでね。
定期ケース出したりしまったり、傘開いたり閉じたり、まあいろいろしてたから、うっかり画面を触っちゃってたんだろうね。

電車に間に合って、ふとスマホみたらタイマーがスタートしてるの。しかもあと40秒ぐらいで鳴っちゃうし。

あわててとめてさ、そしたらタイマーのタイトル?みたいなのも入力しちゃってたみたいで、思わず笑っちゃったよね。
だってこう書いてあったんだよ。

『ささららサラサリラさんラフならららさハラハらぶはらはら ふ』

5/27/2025, 10:13:45 AM

「これで最後」


終わりにしよう、と言われました。
2年です。一緒に住んでいた期間だけで、2年。交際し始めたのはさらに2年前。


どうして?
他に好きな人でもできた?


尋ねると、


そうじゃなくて


と苦しそうに言うじゃないですか。


そうじゃなくて、もう、好きじゃないんだ


少し寂しくも感じたのですが、こうもはっきり告げられてしまったならば、潮時だということでしょう。
わかった、と答えました。じゃあ最後に、ディナーを食べに行きましょう。


もうこれで最後、これっきりです。
だからもうひとつワガママを言ってみたんです。
ほっぺを指さして、キスしてよって。


罪滅ぼしのつもりか、すぐに優しい唇が頬に触れました。そして妙な顔をしましたね。


ピリリとしたでしょう。でも大丈夫、ふたりおそろいですから。


あなたに毒を盛るのは、これで最後。
わたしが毒を飲んだら、これが最後。


ね、わたしはとっくにあなたのこと、好きじゃなかったんですよ。

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