春恋
はる子、という子がいた。私は彼女が好きだった。
なんてことない、ふつうの女子高生で、私とは違うグループの子たちとよくつるんでいたけれど、だからといってグループ外の人には無愛想なんてこともなかった。
その高い背が好きだった。
その凜とした眉が好きだった。
その長い手指が好きだった。
彼女の手は、隣のクラスの人の家を燃やした。
ニュースは瞬く間に学校中、街中、国中に広まって、彼女は犯罪者になった。
みんな彼女を避けた。学校に帰ってきたら彼女を、みんな、歓迎しなかった。
私でさえも。
家の裏に、桜が咲いた。風が吹いた。花が散った。
はる子の高い背も、凛々しい眉も、もうあまり思い出せない。
ただ、彼女に恋をしていた、それだけをずっと覚えている。
新しい地図
嚥下する、僕のすべてを。
降下する、すべての僕が。
硬化する、麗しのチーズ、カマンベール。
我慢できる?飲み込まないで。咀嚼して咀嚼して、どろどろに溶けてもまだ喉には通さないで。
気管を塞いで身体に溜まって息ができなくても、
おあずけ。
ね、こんなのはじめてだろう?
安心してね。僕が君に見せてあげるのは、新しい世界の地図だから。
投下する、君にすべてを。
放火する、君のすべてに。
硬貨ひとつ、チーズの中に隠したから。
君はでろでろに溶けた口で笑って、僕を嚥下するだけでいい、麗しの僕のカマンベール。
小さな幸せ
(読み)チイサナ−シアワセ
ここであなたに会えること。
類語→懐かしいあの味
対語→ 「なんだかさみしい」
『わたし辞書』
春爛漫
春爛々、私の心は淡々。
「お久しぶりです」から始まって、何も特別でない挨拶で締めた手紙を投函した。
雨たらたら。あなたのことをただつらつら。
頭に広げたノートに書きつけていたら、きっと今、兼好法師の気持ちがわかる。
風さらさら。あの人の髪がゆらゆら。
軍隊かしらと思うほど規則正しいエスカレーターの列に並んでいたら、ああ、見つけた。
春爛漫、桜満開、未満。
あなたの隣に並んだら、私の心に春がきた。
記憶
『あなたがいない』、それだけをずっと覚えている。
水面に映った柳の木に誘われて、月の出た夜、川に入った。ネグリジェが水を吸って、肌に張り付くのを感じていた。
もう一歩、もう一歩……。ふくらはぎ、ふともも、腰、胸、肩。歩くごとに、水位は増した。
顎の下まで水に浸かって気がついた。
この川はさほど深くなかったはず。子どもたちがみずあそびをしにやって来るほど穏やかで、今みたいに流れに押されたりしないはず。川辺に柳なんてなかったはず。
はず、はず、筈……、本当は覚えていたはず。
『あなた』なんて、初めからいなかった。
記憶にない川の中を歩き続けて、気がつけば海に出ていた。
月があまりにも輝いているから、夜空の星はおろか、振り返った街の明かりすらも見えなかった。
いや、違う。あれは月じゃない。『あなた』だ。
沖のほうへ歩み進めた。いつしか体は浮き上がり、肩、胸、腰、ふともも、ふくらはぎ、次々と海面から姿を現した。それでも上へ昇っていく。手を、高く伸ばしている。
『あなた』に指が触れた、とたん、とぷん。
指先が崩れて海に落ちた。
もう一度手を伸ばす、触れる、崩れ落ちる。繰り返すうち、とうとう腕がなくなった。
やがてほとんど全てが崩れ落ち、唇だけが残った。『あなた』に口づけし、とぷん、海に沈んだ。
ーーーーそんなあなたの姿を、わたしは眺めていた。
『あなた』なんていないのだと、あの日、わたしはあなたを笑った。
今ならわかる。わたしも『あなた』に会いたい。記憶にない、存在しない『あなた』に。
だから、あなたにお願いします。わたしが『あなた』に会いに行く一部始終を、どうか見守ってほしいのです。そうしてできる限り長く記憶に留めておいてください。
そうすれば、あなたもいずれ『あなた』に会いに、わたしたちと同じことをするでしょうから。