『真昼の夢』
夢を見ていた。
わたしは彼女の横を歩いていた。
桜が咲いた川辺を、ゆっくりと、何も言わずに。
いつのまにかわたしは、彼女の手を握っていた。彼女は何の反応も示さない。ただじっと、前の一点のみを見つめている。
わたしのことさえも見えていないように。
夢だとわかっていた。
彼女が、こんな近くにいるはずがないのだから。
だから腕をつかんで、引き寄せた。
されるがままに、彼女はわたしにもたれかかった。マネキンのように、手応えはまるでなかった。
プラスチックの頬に唇をつけた。
誰のものでもない耳にひと言、ささやいた。
この瞬間だけ、彼女はわたしのものになった。
わたしは自身がケモノと化す前に、彼女から手を離した。スーツのポケットのなかで、スマホが着信音に震えていた。
目を開けると、そこはいつもの道の上だった。
ランドセルを背負った子どもたちが、午前授業の開放感を全身で表しながら追い越していく。
こんな真っ昼間に、道の真ん中で、わたしは幻覚でも見ていたのか。
わたしは歩きだす。夢の中の彼女と同じように、ただ前一点のみを見つめて。
わたしより頭ひとつぶん背の低い彼女を、探してしまわないように。
『マグカップ』
あなたが手を振り上げた。
あっと思って身をかがめると、あなたの手にあったそれは頭上を飛んで、3メートルほど離れたところに落下した。
がちゃあんというよりは、ごとぅんという音をたて、マグカップはカーペットに転がる。
あなたは目を真っ赤にして、肩で息をして、頬をつやつやと濡らしていた。ふっ、く……という声を喉から漏らし、無傷のマグカップをにらみつけていた。
うう……と顔を歪ませたかと思うと、ぱっと身をひるがえしてリビングを出て行った。
わたしはぼうっと座りこんで、それからマグカップを振り返った。持ち手を左下にして、大人しく床に寝ている。
そっと持ち上げた。
あなたのお気に入りの、白地に黒い線でねこの絵が描かれたマグカップ。土曜日のおやつにはよくコーヒーを淹れて、ミルクもたっぷり注ぐのが習慣だった。
……今日ももしかすると、そうするかもしれない。
そう考えて、マグカップを洗いにキッチンへ向かった。
あろうことか、泡立てたスポンジで飲み口をこすったとき、わたしはマグカップをシンクに落としてしまった。
いつもなら平気な高さなのに、今回ばかりはがちゃあんと派手な音を立てて、ねこのマグは割れてしまった。
「ああ……」
声が喉を伝って這い上がってくる。
「ああ、ごめん、ごめんなさい……」
ねえ、あなた。わたしのかわいい妹。
ごめんね、あなたの痛みに気づけなかった。苦しさを考えていなかった。
わたしは破片を指でつまんで、新聞紙に包んだ。ねこの顔の部分だけきれいに残っている。これだけは捨てられないと思った。
戸棚からわたしのマグカップを取り出す。
インスタントコーヒーの粉を量って、お湯を注いで、ミルクをたっぷりと。
冷めないうちに、妹の部屋に運ぼう。
嫌がるかもしれないけど、抱きしめよう。
あなたが大事だよと、大好きだよと、伝えなくちゃいけない。
『I love』
すきよ。
わたしをなぞるその目が。
すきよ。
わたしを開くその指が。
だいすき。
わたしに心をくれるあなたが。
今、わたしを読んでくれたあなたが
すきよ。
『さらさら』
一昨日ね、スマホ手に持ったまま、駅まで急ぎ足で歩いてたんですよ。
帰宅ラッシュでね、人の波、波、もう大変。
でも次の電車逃したら、帰りのバスがなくなっちゃうからね、がんばって間に合わせないと。
田舎に住むってそーゆーことがヤだよねえ。
そうそう、それでね。
定期ケース出したりしまったり、傘開いたり閉じたり、まあいろいろしてたから、うっかり画面を触っちゃってたんだろうね。
電車に間に合って、ふとスマホみたらタイマーがスタートしてるの。しかもあと40秒ぐらいで鳴っちゃうし。
あわててとめてさ、そしたらタイマーのタイトル?みたいなのも入力しちゃってたみたいで、思わず笑っちゃったよね。
だってこう書いてあったんだよ。
『ささららサラサリラさんラフならららさハラハらぶはらはら ふ』
「これで最後」
終わりにしよう、と言われました。
2年です。一緒に住んでいた期間だけで、2年。交際し始めたのはさらに2年前。
どうして?
他に好きな人でもできた?
尋ねると、
そうじゃなくて
と苦しそうに言うじゃないですか。
そうじゃなくて、もう、好きじゃないんだ
少し寂しくも感じたのですが、こうもはっきり告げられてしまったならば、潮時だということでしょう。
わかった、と答えました。じゃあ最後に、ディナーを食べに行きましょう。
もうこれで最後、これっきりです。
だからもうひとつワガママを言ってみたんです。
ほっぺを指さして、キスしてよって。
罪滅ぼしのつもりか、すぐに優しい唇が頬に触れました。そして妙な顔をしましたね。
ピリリとしたでしょう。でも大丈夫、ふたりおそろいですから。
あなたに毒を盛るのは、これで最後。
わたしが毒を飲んだら、これが最後。
ね、わたしはとっくにあなたのこと、好きじゃなかったんですよ。