【何もいらない】
「八月、某、月明かり」byヨルシカ
「無色の世界」
結局わたしはあのままだった。
何ひとつ変わっちゃいなかった。
変わったふりをしていた。必死で演じているだけだった。
後ろからの足音やしゃべり声が、何度も何度もわたしを追い越していく。
片方の紐がちぎれたランチバッグを握りしめている。
えも言われぬ大きなものに対面した幼児のようだ。これでは後退だ。
何を? どこを? いまさら?
わたしはとっくに後ずさっていたのでは?
ぼとり。ランチバッグがアスファルトに落ちた。硬い、地面に。
もう片方の紐ももちぎれていた。
その瞬間、わたしのなかでも何かが切れた。
思いついた友人に電話をかけた。出なかった。
今は歯医者にいるのだという。
電話が繋がったとして、どうすればよかっただろう。どうせ何も変わらない。変えられるはずがない、わたしがわたしである限り。
ほんのかすかな奇跡を求めて歩みが速くなった。鈍い脚の筋肉が懸命に伸縮する。
エスカレーターを上って駅のホームに着いたとき、ほんのかすかな奇跡は訪れなかった。
黙って足元の番号に並び、電車を待つ。下まぶたがカサついている。
お腹がすいた。
『幸せとは』
え?幸せがなんたるか分かんねえって?
あたしに教えてほしいだって?
バッカだねえお前さん。
そんなの人に教わるモンじゃねえよ。自分で気づくモンなんだよ。
なんか食って、美味いと思ったことはあるか?
誰かと会って嬉しいと思ったことはあるか?
空を見上げて、その高さを感じたことは?
それだけじゃねえ。
壁にコンセントがあること、スイッチひとつで電気がつくこと、蛇口ひねれば水が出ること。
なんだって「幸せ」さ。あとはお前さんが気づくだけだ。
いずれ分かる。ああこの世に生まれてよかったと、天を仰ぐ日がやって来るさ。
……あン?あたしの幸せ?んなモン決まってるだろ。
お前さんに会えたことだよ。
『君が紡ぐ歌』
浅い呼吸がきこえる。一定のリズムで、低く、高く。
うなされるように、君はかすかな声をもらした。うっすらと目を開く。
目が合うと、僕はその頬をはりついた髪をつまんだ。
「まだお眠りよ。夜は長い」
君はまた目を瞑った。枕元に座る僕の袖を握って、くいくいと引っ張る。
「はいはい。まったく、君もまだまだ子どもなんだから」
冷やかして笑いながら、僕は喉をひらいた。息を吸う。肺に眠る五線譜にトーン記号をおいて、僕は歌い始めた。
君のための子守唄。
僕だけが歌える子守唄。
それはいつか波音に溶けてしまうだろう。
君はこの歌を忘れて、必要としなくなるだろう。
だけど君が望むなら、僕はいつだって同じ歌を奏でてみせよう。
ずっと変わらない愛しさを込めて。
君の寝息がきこえる。呼吸は深くなって、ひたいに浮いていた汗も乾いていた。
僕はそっとそばを離れ、開け放たれた窓に腰かけた。
月が呼ぶ。風にのる。
穏やかな寝顔を振り返って、その呼吸に耳をすます。
これが君の紡ぐ歌。僕だけの宝物。
「おやすみ、いとしの我が子」
ひと吹きの風が、窓枠になびくカーテンを揺らした。
君の部屋にはもう誰もいない。
ただかすかに残る子守唄と、君の歌がきこえるだけ。
秋の訪れ
(読み)アキ-ノ-オトズレ
(意味)ほら、そこの街灯が灯ること。
類語……金木犀の香り
対語……ひと筋の汗