『マグカップ』
あなたが手を振り上げた。
あっと思って身をかがめると、あなたの手にあったそれは頭上を飛んで、3メートルほど離れたところに落下した。
がちゃあんというよりは、ごとぅんという音をたて、マグカップはカーペットに転がる。
あなたは目を真っ赤にして、肩で息をして、頬をつやつやと濡らしていた。ふっ、く……という声を喉から漏らし、無傷のマグカップをにらみつけていた。
うう……と顔を歪ませたかと思うと、ぱっと身をひるがえしてリビングを出て行った。
わたしはぼうっと座りこんで、それからマグカップを振り返った。持ち手を左下にして、大人しく床に寝ている。
そっと持ち上げた。
あなたのお気に入りの、白地に黒い線でねこの絵が描かれたマグカップ。土曜日のおやつにはよくコーヒーを淹れて、ミルクもたっぷり注ぐのが習慣だった。
……今日ももしかすると、そうするかもしれない。
そう考えて、マグカップを洗いにキッチンへ向かった。
あろうことか、泡立てたスポンジで飲み口をこすったとき、わたしはマグカップをシンクに落としてしまった。
いつもなら平気な高さなのに、今回ばかりはがちゃあんと派手な音を立てて、ねこのマグは割れてしまった。
「ああ……」
声が喉を伝って這い上がってくる。
「ああ、ごめん、ごめんなさい……」
ねえ、あなた。わたしのかわいい妹。
ごめんね、あなたの痛みに気づけなかった。苦しさを考えていなかった。
わたしは破片を指でつまんで、新聞紙に包んだ。ねこの顔の部分だけきれいに残っている。これだけは捨てられないと思った。
戸棚からわたしのマグカップを取り出す。
インスタントコーヒーの粉を量って、お湯を注いで、ミルクをたっぷりと。
冷めないうちに、妹の部屋に運ぼう。
嫌がるかもしれないけど、抱きしめよう。
あなたが大事だよと、大好きだよと、伝えなくちゃいけない。
『I love』
すきよ。
わたしをなぞるその目が。
すきよ。
わたしを開くその指が。
だいすき。
わたしに心をくれるあなたが。
今、わたしを読んでくれたあなたが
すきよ。
『さらさら』
一昨日ね、スマホ手に持ったまま、駅まで急ぎ足で歩いてたんですよ。
帰宅ラッシュでね、人の波、波、もう大変。
でも次の電車逃したら、帰りのバスがなくなっちゃうからね、がんばって間に合わせないと。
田舎に住むってそーゆーことがヤだよねえ。
そうそう、それでね。
定期ケース出したりしまったり、傘開いたり閉じたり、まあいろいろしてたから、うっかり画面を触っちゃってたんだろうね。
電車に間に合って、ふとスマホみたらタイマーがスタートしてるの。しかもあと40秒ぐらいで鳴っちゃうし。
あわててとめてさ、そしたらタイマーのタイトル?みたいなのも入力しちゃってたみたいで、思わず笑っちゃったよね。
だってこう書いてあったんだよ。
『ささららサラサリラさんラフならららさハラハらぶはらはら ふ』
「これで最後」
終わりにしよう、と言われました。
2年です。一緒に住んでいた期間だけで、2年。交際し始めたのはさらに2年前。
どうして?
他に好きな人でもできた?
尋ねると、
そうじゃなくて
と苦しそうに言うじゃないですか。
そうじゃなくて、もう、好きじゃないんだ
少し寂しくも感じたのですが、こうもはっきり告げられてしまったならば、潮時だということでしょう。
わかった、と答えました。じゃあ最後に、ディナーを食べに行きましょう。
もうこれで最後、これっきりです。
だからもうひとつワガママを言ってみたんです。
ほっぺを指さして、キスしてよって。
罪滅ぼしのつもりか、すぐに優しい唇が頬に触れました。そして妙な顔をしましたね。
ピリリとしたでしょう。でも大丈夫、ふたりおそろいですから。
あなたに毒を盛るのは、これで最後。
わたしが毒を飲んだら、これが最後。
ね、わたしはとっくにあなたのこと、好きじゃなかったんですよ。
〈夢を描け〉
『若人よ、大志を抱け。』
なんて言われても、僕にはわからない。
大志ってなに?
若人ってだれ?
それは本当に僕に言ってる?
わからないから無視し続けた。
いつかわかるようになる日を漠然と待ちながら、どんよりとした曇り空を見上げていた。
いつしかポツポツと雨が降り出して、何も見えなくなった。
見えなきゃ困るから、下を向いた。
そのまま歩くことにした。
いつのまにか、大人になっていた。
わたしは思う。
都会の駅の大きな広告に、どこかの国の気球がたくさん浮かぶ風景を見たあのときから、きっと世界の時間は止まってしまったのだ。
わたしだけ取り残されるなんて、そんな寂しいこと言わないでくれ。
あの日抱いた夢が叶わないと知ったのは、たぶん、その翌日だ。いつまでも長々と報われない希望を引きずるなんてミジメだ。
大人になるとは、そういうことなんだ。
わかるかい、だからわたしは君に言いたい。
「夢を描け、若人よ。
それの無意味さを知ったとき、君は真の大人になれるのだから」