『マグカップ』
あなたが手を振り上げた。
あっと思って身をかがめると、あなたの手にあったそれは頭上を飛んで、3メートルほど離れたところに落下した。
がちゃあんというよりは、ごとぅんという音をたて、マグカップはカーペットに転がる。
あなたは目を真っ赤にして、肩で息をして、頬をつやつやと濡らしていた。ふっ、く……という声を喉から漏らし、無傷のマグカップをにらみつけていた。
うう……と顔を歪ませたかと思うと、ぱっと身をひるがえしてリビングを出て行った。
わたしはぼうっと座りこんで、それからマグカップを振り返った。持ち手を左下にして、大人しく床に寝ている。
そっと持ち上げた。
あなたのお気に入りの、白地に黒い線でねこの絵が描かれたマグカップ。土曜日のおやつにはよくコーヒーを淹れて、ミルクもたっぷり注ぐのが習慣だった。
……今日ももしかすると、そうするかもしれない。
そう考えて、マグカップを洗いにキッチンへ向かった。
あろうことか、泡立てたスポンジで飲み口をこすったとき、わたしはマグカップをシンクに落としてしまった。
いつもなら平気な高さなのに、今回ばかりはがちゃあんと派手な音を立てて、ねこのマグは割れてしまった。
「ああ……」
声が喉を伝って這い上がってくる。
「ああ、ごめん、ごめんなさい……」
ねえ、あなた。わたしのかわいい妹。
ごめんね、あなたの痛みに気づけなかった。苦しさを考えていなかった。
わたしは破片を指でつまんで、新聞紙に包んだ。ねこの顔の部分だけきれいに残っている。これだけは捨てられないと思った。
戸棚からわたしのマグカップを取り出す。
インスタントコーヒーの粉を量って、お湯を注いで、ミルクをたっぷりと。
冷めないうちに、妹の部屋に運ぼう。
嫌がるかもしれないけど、抱きしめよう。
あなたが大事だよと、大好きだよと、伝えなくちゃいけない。
6/15/2025, 11:03:30 AM