「タイムマシーンがあるなら、過去と未来、どっちに行きたい?」
ぼくは本を読むきみに尋ねた。
きみは目を上げずに、けれどページをめくる手を止めて答える。
「過去かな」
「どうして?」
「なんとなく、未来は知りたくないから」
ほんとになんとなく、という風に見える。
ぼくはきみの肩を見つめた。
「ふうん。ぼくは未来に行きたい」
「どうして?」
「大人になったきみに、会いに行きたいんだ」
大人になったきみは、きっと背が高くなってるだろう。
小さなぼくをみて笑うかもしれない。
そう考えるとおかしくなった。
すると、きみがゆっくり顔を上げ、青い目を瞬かせた。
「もう少し待てば、会えるさ。その頃にはきみも大人になってるけど」
「そうだね、確かに」
やっぱりきみは賢い。
ぼくには思いつかなかったことを、いつも簡単に言う。
「そしたら今が過去になるのさ」
「じゃあ未来のきみの方は願いを叶えてるのか」
ぼくははっと思い至って言った。
きみが大人になっても過去に行きたいなら、過去である今にいるきみがその願いを叶えているってことか。
……なんだかこんがらかってきた。
「きみ、たまに小難しいことを言うよな」
青い目を細めて、きみが笑う。
未来のきみも、たぶんおんなじ笑顔をするだろう。
僕の願いも今、叶った。
このまま海の底に、この身も心も沈めてしまおうと思った。
僕らの幸せは出口のない不幸だ。
これが、僕が裏切ったすべてに対するせめてもの誠意だと思った。
同時に、僕は変わってしまった自分を受け入れてゆける気がしなかった。
「波の底にも、都はありますから」
「君らしいね」
ああ、幸せだ。
あなたもそうでしょう。
僕はたぶん笑っている。
ようやくあなたを理解できた感動と絶望が体を突き動かす。
「あなたと僕は出会うべきじゃなかった」
「後悔してるかい」
「…ええ。いやと言うほど」
「私はしていないよ。来世でも」
これだからあなたが嫌なんだ。
僕は痛む身体で、反吐が出そうな微笑みを浮かべるあなたを強く抱き締めた。
ようやくあなたのことだけを考えることができる。
足は既に大地を踏み越えていた。
閉ざされた日記が頭の中にある。
君といた数年間を書きつけた日記だ。
君がいなくなった日に、僕は鍵をかけて記憶の奥にそれをしまった。
右耳が熱い。
君の最後の囁きが吹き込まれたのを、耳は憶えている。
日記に閉じ込めきれない君の痕跡は、僕の身体中に散らばっている。
星空。カフェラテ。スイートピー。
君の好きなもの全て、僕の好きな君の全て。
日記の文字は増えていく。
鍵も開けないままに。
僕が君を思い出す度に。
木枯らしがコートの裾をはためかせる。
僕は襟元をかき合わせた。
冷え込む冬の朝は、いつもより静かだ。
今日はずいぶん早くに目が覚めてしまった。
まだ慣れないこの街を昼中に歩くのは気が進まない。
しかし、早朝ならば人も少ないだろうと実に3ヶ月振りの散歩に繰り出したのだ。
あなたを起こさぬようにそっとドアを閉め、市場のある方角へ。
帰りがけに焼きたてのパンでも買って帰ろうか。
寝静まる市場をぐるりと回り、活気溢れる日中の様子を想像する。想像は得意だ。
パン屋に辿り着く。
ちょうど開いたばかりのようだ。
あなたは何のパンが好きかな。
特に好みを持たない僕の選択は、必然的にあなたの好みになる。
記念すべき住民とのファーストコンタクトをパン屋の主人と済ませ、僕はほかほかの紙袋を手に家路を急ぐ。
普通に、つまり怪しくない感じで、僕は振る舞えていただろうかと不安になった。
あまり特別な印象を残したくはない。
やっと家に続く小道に帰りつき、僕は少し安心した。
ドアを開け、ただいま、と呟いて、その言葉の懐かしさに驚く。
リビングに足を踏み入れれば、コーヒーの香りが僕を包み込んだ。
「おかえり。散歩はどうだったかな」
キッチンで微笑むあなたに笑顔を返して、紙袋を渡した。
結局店主におすすめを詰め合わせてもらった中身は、あなたのお眼鏡にかなうだろうか。
「バゲットとクロワッサンか。いいチョイスだ」
どうやら当たりを引き当てたみたいだ。
あなたの上機嫌を背中で聞きながら、冷えたコートを壁に掛ける。
僕の世界は再び広がる予感を見せていた。
この世界は君に優しくない。
優しい君は、棘だらけの世界を抱きしめる。
ヤマアラシを裸で抱きしめるようなものだ。
自分の流した涙に溺れそうになって、必死に不規則な呼吸をしている。
贖罪する罪人のように。
子を無くした母親のように。
私は君の両目を手で覆う。
瞼の下で忙しなく動く眼球が君の動揺を伝えてくる。
君がすべてを捨てられないのなら、私が君から奪ってあげよう。
君に見せたい、美しいものがある。
君も美しいと思ってくれるだろうか。
波音が響く。
足元は断崖絶壁。
君の涙が作った海は、悲しみと諦めの色をしている。
優しい君を、優しくない私が抱きしめる。
もう世界を見つめない君の瞳は、今は私の理想を映していた。