僕は呆然と立ち尽くしていた。
僕の宝物。
誰にも、特にあなたに見つからないように大事に隠しておいたのに、今や見る影もない。
「やあ。遅かったね」
帰ってきた僕に気づいたあなたが顔を上げ、気のない様子で弄んでいた僕の宝物を放る。
嬉しそうに笑っていたあなたは、僕の異常を見てとると困惑したように少し目を丸くした。
「どうして君は泣いているのかな」
あなたの榛色の瞳が心底不思議そうに僕を観察している。
ああ、ほんとにわからないんだな。
僕は怒りや呆れを通り越して、いっそ哀れに思った。
それと同時に、自分と異なる生き物に対する身がすくむ恐怖を感じた。
「…わからないなら、いいです」
洟を啜って、僕はそう言う他なかった。
一刻も早く、この相容れない存在から離れたかった。
「教えて。どうして泣いているんだい」
「いいです、もう。早く出て行ってください」
「君を知りたいんだ」
知らぬ間に近づいてきたあなたは、僕の頬に手を当てて至近距離から目を合わせた。
僕の一挙手一投足も見逃すまいとしている。
「あなたはかわいそうな人だ」
ほとんど吐息のように漏らした言葉はあなたに届かない。
僕は震える瞼を下ろし、世界を向こうへ押しやった。
やがて、興味を削がれたあなたが離れてゆく。
上等な人の皮を被ったあなたは、遠ざかる足音さえも質が良い。
ドアが閉まって、たっぷり3分経ってから僕は目を開けた。
また涙が頬に幾つも筋をつける。
僕の宝物。
かわいそうに。僕も、あなたも。
ワルツの調べに乗せて、オーガンジーのドレスが揺れる。
暖炉に燃える炎のおかげで、ダンスホールは暖かだ。
1・2・3、1・2・3、ステップを踏む。
リズムに乗って君はくるりと回る。
夢を見てたいの。
目を閉じて君が笑った。
レコードが止まりそうになる度に始めに戻し、僕らは踊り続ける。
濃い霧が立ち込める湖と広がる森が窓から見える。
僕らは踊り続ける。
君の腰に回した腕も、ステップを続ける足も、くたくたに疲れているけど。
君の目が覚めるまで、ワルツは続く。
僕らは踊り続ける。
ずっとこのまま、二人でいたいね、と心底幸せそうにあなたは言った。
あなたが望んだことはすべて、真実になる。
だから僕たちはずっとこのまま、二人でいるんだろうなとぼんやり思った。
あなたの褪せた金色の髪に月光が踊っている。
僕らは真っ黒に染まった体で、まるでこの世に二人きりのように見つめ合った。
頬を撫でるあなたの手が、首に鼻先を擦り寄せるあなたの息遣いが、僕をがんじがらめにしていた人間的なものを一つ一つ引き剥がしていく。
今はすべて見えている。
過去も、未来も、あなたの中の怪物も。
美しかった。
僕は、あなたのくれたすべてを素晴らしいと褒め称えた。
あなたの願いを、現実にしなければ。
僕は揺らめく暗がりの底に潜む永遠へ、一歩を踏み出した。
あなたは笑って僕を抱きしめて、僕の傾きに嬉しそうに従った。
最後に見えたのは、きっとあなたの瞳だった。
はたちの君は、今まさに綻んだマーガレットの花のような風情で微笑んでいた。
君の深い栗色の巻毛は、まろい額に優美にかかり、ミルク色の肌は血の色を透かして頬に健康的な赤みを添えている。
「おめでとう」
そう言うと、君は手に持ったささやかな花束に視線を落として照れた。
伏せた睫毛を瞬く。
「ありがとう。まだあんまり大人になった気がしないな」
冬の陽光が君の髪に反射してきらきらと輝くのを美しいと思った。
まだ育ちゆく途上の君は、若木のように内側からエネルギーを放っている。
そっと君の肩越しに周囲を見れば、若さを振り撒く青年たちがそこかしこにいた。
彼らはみな眩しく光っているが、いちばん美しいのはやっぱり君だと思った。
はたちの君の、その瑞々しいすべては、やがて別の何かに変わってゆくのだろう。
やっとこちらを見た君に微笑み返しながら、始まったばかりの君の人生がこれから描くであろう鮮やかさを想った。
君と一緒にいきたかった。
いきたかった。
体はひどく痛むし、足の感覚はほとんどない。
そんなことはどうでもよかった。
何よりも隣に君がいないことが、ああ、一大事だろう。
ゆっくり筋肉を動かして、横たわったまま首を巡らせる。ようやく見えた反対側にも、やはり君はいなかった。
私を置いて行ったのかい。
それとも私が君を置いて行ったのか。
一人で打ち上げられた事実が、妙な感慨を伴って押し寄せてくる。腹の鈍い痛みは私の心音と重なる。
いつもそうであるように、私は天国から一番遠い場所にいる。
君を探すよ。曇天と波の音が、君の鼓動を隠しても。
これまで何度も邪魔が入って、私の願いは叶わなかった。今回も。
だから、今度こそ、二人でいかなければ。
そうでないと意味がないんだ。
君と一緒にいこう。
それまで、少しだけ待っていて。