「なんだ、また戻ってきたのか」
夢のなか、獏が顔を上げた。……
人の悪夢を食べる獏。
中国では、熊の体に象の鼻、虎の脚を持つキメラだったという。それも昔のこと、近頃は手のひらサイズのタイプがもてはやされていて、友だちの獏もみんなかわいらしい小動物だった。
けれど私の獏は人間の姿をしている。
……私は強くなった。だから訣別した。なのにどうして。
「相変わらず惨めったらしく泣いてるんだな。また上履きを隠されたのか。教科書を捨てられたのか」
「もうそんな歳じゃない」
獏は口の端を上げた。
「営業のオオミヤさんに二股かけられたのか。同期のサトウに責任をなすりつけられたのか。気分屋の上司に一日中振り回されるのもあるな」
「……ほっといてよ」
問いただすのもばからしい。どうせ全部お見通しなんだろう。
「来いよ。全部喰ってやるから」
「私の夢は不味いんじゃなかったの」
「そうだよ。もっと美人ならともかく、おまえの泣き顔なんか見られたもんじゃない。つまり、好きなだけ垂れ流せばいいってことだ」
ひとの神経を逆なでするやつ。
でも、そう言って手招きする獏は優しいのかもしれないと初めて思った。優しい慰めを言わないだけ優しいのかもしれない。
ぽんぽんと背中をさすられてどうしようもなく縋りつきそうになる。
「もう夢は見たくない」
獏は「そうか」とだけ返した。
その指が首にかかるのを感じる。
今夜は深く眠れそうだ。
(夢が醒める前に)
月夜といえばツキヨタケ。
毒の強さではドクツルタケやタマゴテングタケなんかの「猛毒御三家」に及ばないながらも、毎年のきのこ中毒事件の原因菌としてはぶっちぎりのトップを行く毒きのこ。
『今昔物語集』にて憎い相手に盛った「和太利(わたり)」も、これじゃないかと言われているそうな。
この説話集には他にも、尼さんたちが踊り狂うほどおいしい舞茸の話や、谷底に落ちても怪我そっちのけで平茸を取ってくる男の話など、きのこにまつわるエピソードが数多く収められている。みんなどんだけきのこ好きだったん。
と言いつつ私も好きなほうで、なかでも平茸は鍋に欠かせません。
淡いグレーとベージュの中間色、ニュアンスカラーとかくすみカラーとでも言うのか、なんとも上品な色。ほどよい弾力と、淡白で主張しない味。なにより、きのこ特有の匂いがそれほどしないところ。つまり、きのこだけどキノコキノコしてないのだ。鍋だけと言わずほんと重宝する。
でも悲しいかな、うちの近所のスーパーにはまず置いていない(霜降りひらたけとやらはあるけど、なんか口に合わなかった)。しかたなくいつも、ちょっと離れた直売所まで買いに行く。
よその地域では普通に売ってるのかな。だとしたら羨ましい。
ところで夢野久作の作品に『きのこ会議』という短編がある。ドグラ・マグラだの少女地獄だのを書いたのと同じ作者とは思えないくらいのどかな一編(とはいえだいぶシニカル)だけど、とにかくさまざまなきのこが登場してくるので名前を見るだけで面白い。なにより、きのこたちが繰り広げた会議の結末。毒きのこたちにとってはこれぞ不条理の極み、かもしれない。
似た話だと阿川弘之さんの『鱸とおこぜ』も好きな作品だ。
そしてこれにイラストレーターのヒグチユウコさんが挿し絵を描いた。「CIRCUS」展での描き下ろしだ。あまりの美しさにすっかりファンになって、美術館をあとにするのがなんとも名残惜しく、ショップでTシャツやらペンケースやらを買い込んだ。予算オーバーしたので画集は泣く泣く諦めたけれど、やっぱりもう一度見たくて本屋に行った。
無事購入してわくわくしながらページをめくると、あれ、イソップ物語の『卑怯な蝙蝠』? ……なんと、『きのこ会議』は会場限定版にしか収録されていなかったのだ。
がっくり肩を落としたのだった。
なんて不条理、いや理不尽。と言ったら、逆恨みだろうか?
(不条理)
※出だしでわかる通り、「月夜」のお題のとき書きそびれたのを手直し。
実は最初に浮かんだのは大江健三郎の『人間の羊』なんだけど、読み返す気力がわかなかった。
未読の方、興味があればどうぞ。
つねづね思っていることなんだけど、怖がりな人向けのホラー映画を作ってほしい。
怖いシーンが近づいたら小さくテロップが出るの。
「※10秒後に窓の外に女の顔が映ります」とか。
「※このあと大きな音がします」とか。
そしたらもっとリラックスして映画鑑賞できると思うんだけどなあ。
……ホラーじゃなくなるか。
(怖がり)
雨上がりの道はそこここに水溜まりをこさえて迂闊な人間を待ちかまえている。真っ白いスニーカーに派手な染みを作った私は恨めしい気持ちで横の連れを見上げた。
「なんでちっとも泥はねしてないの?」
「逆になんでそんなに泥はねするんだ」
心底呆れたような声にぐうの音も出ない。
「マモルが車道側歩いてくれないからじゃん。レディファーストって言葉知らないの?」
「平等主義なもんで」
口の減らないやつ。幼稚園以来の腐れ縁だけど、変わったのは背丈と声だけなんじゃないかってくらい、昔のままだ。
でもここのところ輪をかけてぶっきらぼうになった気がする。
「そういえばなんでいつも私の右側歩くの?」
マモルはちらっと視線を寄越し、さあな、とそっけなく呟いた。私は小石を蹴飛ばして勝手に続ける。
「私知ってるよ。男が右側を歩くのは利き手を空けておきたいから。無意識に女性を守ろうとしてるんだって」
「くだらね」
「あと人間の顔は左半分が優しくて右半分が凛々しいから、優しい方の顔を見せたいとか。あとね、利き手と反対側を歩かれると不快で意識しちゃうから、狙ってる男がいるなら左側を歩いて――あれ?」
話してるうちにわからなくなってきた。不快に思われたらだめじゃない?
首をひねっていると、いきなりやつが前に立ちふさがった。唇がぶつかるような距離でまじまじと見つめられて息が止まる。
「な、なに」
「いや、あんま凛々しくないなと思って」
どっちかっつーとマヌケ面。目のあいだ離れてるし。
呆気にとられる私をよそにさっさと行ってしまう。
その後頭部めがけ、勢いよくスニーカーを投げつけた。
(ずっと隣で)
迷走しすぎ。
今日3月13日は、ナチス=ドイツによるオーストリア併合の日。
(侵攻や宣言のタイミングで12日または14日とされることもありますが)
ドイツのお隣でドイツ語を話すけれど、ドイツ人より歩くのが遅くて、音楽とリンツァートルテを愛する優雅な国……なんて、ずいぶんとお気楽なイメージをながいこと持っていた。
ときに、ミュンヘンに移り住む前のヒトラーが故国オーストリアで画家を志していたというのは有名な話だ。
彼の絵を評価することは難しい。良いとも好きともうまいとも言えない。そこには絵がどうこうよりも、作品を肯定して、彼のなしたことも肯定したように思われてはたまらない、という危機感が大いに働いている。
ヒトラーがウィーンで絵はがきを描き続けていたら、第二次世界大戦は起きなかっただろうか。
いま、彼が1914年に描いた「ミュンヘンのアルター・ホーフ中庭」を見ながらこれを書いている。
夕暮れ。ライラック色の空と、苔むした古い宮殿。タレットの屋根の影が中庭にやわらかく伸びている。時が止まったように静謐な眺め。
ここには確かに、ミュンヘンの平穏な日常が切り取られているのに。
(愛と平和/平穏な日常)