世の中には、夏休みの冒険がテーマになっているゲームが多々ある。クリアすれば夏休みが明けるというわけでもない。データを消去して、また始めから遊び直すのもよし、クリア後もやり込み要素があるゲームであれば、引き続きキャラクターを育てるのもよし、というか今のご時世、一通りゲームをやり終えたなー、なんて思っていたら、またストーリーが追加されるなんてこともざらではない。終わらない夏休み、なんて羨ましいのだろうと何度感じたことか。
いつの日か、日記を書くのが趣味だと友達に話したことがある。まじめちゃんか、マメな性格だねーと、多分、褒め言葉として受け取っていいのであろうことをよく言われたものだ。日記を書き始めた、明確なきっかけや理由があるわけではないのだけれど、気がついた時には習慣になっていたわけで。
高校生だった私が書き綴った日記帳を見返してみる。当時の楽しかった日々が脳裏に蘇ってきて、自然と頬が緩むのを感じた。同じ夏は戻っては来ない、でも私の思い出が途切れることはなく、あの日々を過ごしたことは事実として残っている、思い返すことだってできるのだから。それか少しだけ昔に返って、画面に映る主人公と共に、終わらない夏休みの冒険に乗り出すのも悪くはないだろう。そう思った私は日記帳をパタンと閉じて、ゲーム機を取り出しに押し入れへと向かった。
幼い頃、テレビに映る主人公みたいに、空を飛べたらな、なんて思ったことがある。天使が持つ真っ白なつばさでも、ヒーローが纏う大きなマントでも、魔法使いが乗るほうきでもなんでもいい。あの大きな空の中で飛べたら、どれだけ気持ちいいのだろうって。
歳を重ねた今、仮に雨雲や積乱雲の中に突っ込んでしまったら無事では済まないよな、と夢見る子どもとは真反対な、現実を直視する大人への仲間入りをしてしまった。かと言って、小さな自分がかつて、遠くの空へ向かうことを夢想したように、これからも広がる可能性を手繰っていくつもりだ。今はまだ明確に目指すこと、ものを決めているわけではないけれど、果てのない中、歩んでいくのはみんな同じだと思うから。
夏の匂い
果てのない大海原を思わせる、空一面へ広がる灰色の雲を天井に。地面一帯へ向かって降り注ぐ、水晶のようにきらめきながら、植物に恵みを与えるじょうろの役割を果たす雨粒と、多くの足で踏みしめられたであろう土が混ざり合った、私が好きな雨の匂い。私のお気に入りは梅雨の時期。雨の匂いが、揺らぐ波みたいに漂って顕著になる、唯一の期間だから。
雨の匂いが梅雨明けと共に去った日、私は夏の訪れを告げる、新緑の匂いを意識し始めた。雨とは違う独特な、でもどこか爽やかな緑の匂い。季節の、景色の移り変わりを伝え、匂いを感じる楽しみが増えたような気がした。
空はこんなにも青く澄み渡っているのに、私の心の中では、どこか重たさを感じさせる、曇り空が広がっていた。ふと、境界線のない、雄大な海を思わせる空に目が向いた。きれいだな、と感じた。同時に、爽やかな青が眩しくて少しだけ目を細めた。でも不思議と、目を背ける気にはならなかった。
時間が経つに連れて、空は表情を変えていく。朝が近づけば、消え入ってしまいそうなほど爽やかな青を。昼を回れば、ありとあらゆるものを燦々と照りつけてくる太陽の背景として、少し濃度を加えた青を。夕方には、宝石みたい光を放つ落陽に、自ら溶け込もうとするようなオレンジ色を。夜になれば、淡く光を反射する月に、一面に散りばめられてなお、小さな体で発光しようとする星に、寄り添って包み込むような穏やかな紺色を、佇んだ真っ白なカンバスに、鮮やかな色をした絵の具を、重ねるように広げていく。もし絵画であったのならば、その時々で、どこかの誰かが美しいと思った空は、不朽の作品みたいに残ったのかもしれない。でも、同じ空は二度とは来ない。いつの日か、美しいと感じた空は、もう戻っては来ない事実を、私たちは知っているから。
私たちだって同じだ。過去に戻りたくても、戻れはしない。心が常に晴れ渡っているわけでもないし、曇っているわけでもない。雨が降ったとしても、降りっぱなしなんてことは無い。だから今後、私の心が晴れた時、今は停滞してしまっているこの気持ちを忘れたくはない。
スマートフォンを操作して、音楽アプリを開く。普段であれば、ライブラリの中から、その日の気分に合った曲をいくつかピックアップしてファイルを作り、ワイヤレスイヤホンを片耳に装着して、白い三角のマークをタップして、学校に着くまでの間、ファイル内の曲をランダムに流し続けるのが主だ。
だが稀に、一人きりの自室で、形にならない不安や小さな寂しさ抱え込んだ時、共感してくれるような、それでいて慰めてくれるような曲を聴きたくなる時がある。
画面をそっとスクロールして、目的の一曲を見つけ出す。弱々しく再生マークを押すと、激しさはない、どこか消え入ってしまいそうな儚さを伴った歌声、冷たくも痛くはない優しい雨音を想起させるような歌詞、それに物静かなメロディをまとわせた曲が、散らかった部屋みたいにゴチャゴチャしていた心を、少しずつ落ち着かせてくれていた。聴こえてくる言葉の一つ一つは、小さなナイフみたいに感傷中の心に更に切込みを入れてくる。でもそれと同時にボロボロになった心に寄り添いながら、大丈夫だよ、心配ないよと優しく、穏やかに声を掛けてくれているような気がした。