アイスコーヒーを買った。コンビニのボタン一つで抽出されるお手軽なドリップコーヒーではなく、スーパーに安価で売られている氷なしのペットボトルのコーヒーでもなく、専門店の一杯ワンコインのものを。へこまないカップに淹れられたアイスコーヒーはなんだか特別な感じがした。一口飲んでみる。熱で溶ける飴玉のみたいに、コーヒーの濃い風味が少しずつ舌の上で広がっていく。甘味を食べて頬が落ちそうになるのとはまた違う、目が覚めるような美味しさが口の中を静かに通り過ぎ去っていった。カップの中から現れた氷は、細かく砕かれた小さなあられではなく、磨き上げられて透き通った水晶のような姿をしていて、カップを取り囲うように浮かび上がった結露は真冬の霜みたいで、今まさに飲んでいるアイスコーヒーが芸術品みたいに輝いて見えた。
歩いてどれくらいの時間が経ったのだろうか。気が付いたらアイスコーヒーを全て飲み干してしまっていた。美味しい時間は刹那に過ぎ去ってしまうものだと改めて感じた。私の気持ちを代弁するかのように、手に持っているカップはだらだらと汗をかいていた。
正しいルールってなんなんだろう。正直な話、個人によって正しさとか、守るべきルールだとかは変わってくるじゃあないか。国によって禁止されているものと禁止されていないものとの差があるみたいに。さまざまな意見でありふれた世の中の正解って果たしてあるんだろうか?
死期が近い人間の傍に降り立って最期を看取った後に魂を回収する、この一連の流れが死神の仕事。必ずしも黒いローブをはおり、三日月型の鎌を手に持っているわけではなく、姿形は変幻自在。幼いこどもの姿で活動するやつとか、なんなら愛くるしい犬猫の姿でこの世に来るやつだっている。とは言っても必ずしも人前で姿を現し、正体を明かすわけではなく、基本的に人の目には映ることなく淡々と仕事をこなすのみ。なお、例外として稀に死を迎える少し前に俺たち、死神の姿を認識する人間もいる。
俺の目の前で清潔そうなベッドに身を預けている人の良さそうな老婦人、彼女は例外に当てはまる人間らしい。
「あなたはだぁれ?どちら様かしら?」
「死神。」
「ああ、迷子になってしまったわけではないのね。...お迎えに来てくれたのかしら。」
彼女は俺を怖がるわけでもなく寂しげな、それでいてどこか安心したような返事をした。
「怖くないので?」
「ええ、ちっとも怖くはないわ。早く連れて行ってくれるのであれば、それほど嬉しいことはないわ。」
「...もう一度くらい、子どもとかお孫さんの顔とか、せめて友だちや同級生、なんなら知り合いとかご近所さんの顔を見たいとかあるんじゃあ。」
不思議そうな表情を向けられた。そりゃそうだよな。死神だっていう男がなんで自分のことを気遣うようなことを言うのだろうって、言葉にされなくともなんとなく思っていることが分かる。彼女は小さな笑みを携えながら、しかし寂しそうな声色で、
「...悲しそうな顔は見たくないもの。どうせならこう、嬉しそうな顔とか満面の笑みを目に焼き付けた後に、お別れを告げる前にひっそりと息を引き取りたいわ。」
体も思うように動かないからね、と付け足して俺のことを真っ直ぐと見据えた。
「それにあの子たちの顔を見ることはできたわ。しかもとびきりの笑顔をよ。また会いに来るからねって約束が果たせないのは、心苦しいけれど。それでもいい終わり方でしょう?」
だからお願いね、と俺の目を見て告げた後に眠るように安らかな目を閉じた。
生気のない色をした、でも満足気な微笑をたたえた顔だった。
平日は同じ時間に起床、夜になれば就寝。毎日同じくらいの時間、間隔を空けて朝食、昼食、夕食を摂り、稀に間食を挟む。何か大きな変化があるわけでもない、いたって普通の日常。非現実的な何かが怒ることを期待しつつも、事故や事件、災害などはお断りしたいと願う今日この頃。どこもかしこもずっと平和かと問われれば答えは否だ。平和な日々に浸かって時間が溶けゆくままに怠惰に過ごす自分と、貧困や周りの環境、果てには戦争の最中でもがき苦しむ人だっている。私はいつまで変わらないことを信じていられるのだろうか。今この瞬間ですら、いつもの日常が壊れない保証なんざどこにもないのに。
愛と平和は同時に成り立つものなのだろうか。平和のために知らない誰かの愛を殺し、愛のためにどこかの平和を侵すこともあるのに。