忘れたくても忘れられない
職場で出会ったある女性の先輩が気になっていた。艶やかな髪にかすかな香水を纏った上品な人で、話すと柔らかい印象を与える。たびたび仕事を共にするようになると、向こうからも積極的に話しかけてくれ、二つ年上であることもわかった。単純な僕は、次第にその先輩に惹かれるようになった。
そんなある日、先輩とともに別の部署を訪ねることになった。扉を叩くと、どうぞと招かれたのち、靴を履き替えるよう指示された。二人で各々靴を脱ぐ。自然と先輩の靴下が露わになった。なんの変哲もない仕事用の黒の靴下だった。ただ、十ある足の指のうち、七の指が「こんにちは」していた。
僕は出向いた部署でテキパキと仕事をこなした。なるべく何も考えないようにした。なぜ穴だらけの靴下を履いているのか、という野暮な疑問はできる限り頭から消し去った。帰り際、靴を履き替える際は自分の足先だけを見るように努めた。
一旦、忘れよう。
自宅の天井に宣言し、僕はゆっくり眠ることにした。
やわらかな光
炎というものは不思議と見ていて飽きない。暖炉の中でパチパチと音を立てて薪を食べていく炎は、美しい未知の生物のようでもある。水族館の水槽を鑑賞しているような気分とも言えるが、その色は実に対照的で、柔らかい。
炎が小さくなると、手が自然に動く。薪を掴み、ぽいっと投げ入れる。そうしなければならないわけでも、そうしたいわけでもないのに、勝手に手が動くのだ。面白いほど、この行為がやめられない。
たぶん、本能なのだ。人間の遺伝子に刻まれた本能が、私に薪をくべさせる。それは火を繋ぐ行為であり、何かが終わることを厭う行為でもある。
思えば、私たちは何かが終わること、途切れることが苦手だ。習慣が途切れたり、番組が打ち切られたりするといたたまれなくなる。それは長いものに限らず、小説や漫画の終わり、ユーチューブの動画の終わりもそう。終わるのがイヤで、つい次を探してしまう。もしかすると、それは本能的な行為なのかもしれない。私の手が自然と薪をくべてしまうように、何かが終わることを嫌がる性質が、私たちの中にはあるかもしれない。
やわらかな光を見ながら、私はそんなことを考えた。
鋭い眼差し
「あいつ、ほんとに大丈夫か?」
「大丈夫だと思いたいけど……」
茂みから二人して教室の中を窺っていた。窓の内側では、馴染みのアイツが追試験を受けている。先日の期末試験で欠点を取ったがための蛇足イベント。今日合格点を取らなければ夏休みの補習が確定。3人での夏の計画は延期、場合によっては中止になる。
「集中力ねぇな、おい」
ぼやく友達の先で、アイツは呑気な顔でシャーペンをくるくる回している。時折、解答用紙に何かを書き込んではいるが、果たして真剣に解いているのかどうか。
「でも、いつもあんな感じじゃない?」
「まぁたしかに。ある意味で順調といえるか」
普段から能天気で、ふざけるために生きているようなやつなのだ。姿勢を正して、まじめ腐って勉強している方が怖い。
と思った矢先、アイツの目が鋭くなった。じっと解答用紙を睨みつけ、何かを熟考し始める。シャーペンを顎に当てて眉間に皺を寄せる。完全に自分の世界に没頭していた。やがて解答欄に何かを書き込むと、満足そうな表情で一つ頷いた。
「あ、あれは……」
「まさか……」
僕たちは揃って肩を落とした。
あれは、いいボケを思いついた時の顔だ。
高く高く
世の中、確率なんてものは存在しない。1%で当たるものも、一回で当たることがあれば、一万回引いて当たらないこともある。確率は引くか否かの判断基準でしかなく、結果は引いてみるまでわからない。
暗闇の部屋で一人、排出率1%の文字を見つめていた。今日から始まったソシャゲのイベント。画面でポーズを取るキャラの笑顔はあまりにも眩しい。
俺は落ち着いていた。1%。100回引けば当たると思いがちだが、100回引いて当たる確率は約63%だ。100回引いても引けない確率はその逆の37%。引けないこともジュウブン考えられる。だが、その63%や37%という値も結果を保証するものではない。俺は確率を心得ている。
まずは10連。……むろん、当たらない。大丈夫だ、問題ない。予定通りといえるだろう。そう簡単に引いては経済が成り立たない。ここで大事なのは、この結果は次の結果に何も影響しないということだ。外れたから次は当たりやすい、と考えるのは間違っている。何回外そうが、次に当たる確率は変わらない。
つまりだ。最初に引くという選択をした以上、2回目以降も引くしかないのだ。途中で引かないと判断するなら、最初から引くべきではない。それが正しい確率の解釈だ。
大丈夫だ。俺は落ち着いている。
大丈夫だ……。大丈夫だ……。
放課後
グラウンドの隅に蛙がいた。先程から身動き一つしない。何かを待っているのか、はたまた次の行動を考えているのか、その細い目から読み取ることはできない。
ランニングウェアの女子たちが姿を見せた。大半は練習メニューを持っている方へ寄っていく。が、うち何人かは俺らの方へやってきて声をかけた。
「先輩たち、学年集会終わらないんだって」
「まじか。しばらく練習始まらんな」
「何の話してたの?」
「いや、こいつが水族館行きたいとか言い出してさー」
「あ、最近できたとこ? いいよね、行きたいよねー」
結局、その場の男女数人どうしで遊びに行くことになる。俺はまんざらでもなかったが、隣で楽しそうにしているあの子を見ていると、二人で誘いたかったなという欲が出る。もちろん、この場で言えたものじゃない。学校ではいつだって周囲の目がある。二人きりになるタイミングなんて、そうそうないものだ。
楽しみだね、と話が続く。俺は上機嫌の男どもに話を任せて、またグランドの隅を見やった。やはり蛙はまだそこにいた。相変わらずじっとしたままだ。少し変化を期待した自分を意識した。
「何見てんの?」
あの子が尋ねたので、俺は視線を戻す。
「いや別に。そのシューズいいな。買った?」
「そうなの! いいでしょ」
その時、号令がかかった。場は解散になり、今日も練習が始まる。
何かが変わりそうで変わらない、いつもの放課後。