つぶて

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5/4/2024, 5:59:58 PM

耳を澄ますと

乾いた喉を潤して、ごそごそと寝床に潜り込んだ。
少し目が覚めたか。
腕を伸ばして時計を手に取る。まだ五時過ぎだ。起きるには早いが眠る必要もない。今日は日曜日で、予定も特にない。
真新しい木目調の天井をじっと見つめていた。柄が見分けられるということは、もう夜が明け始めているのだろう。
胸に手を当てる。不思議と心穏やかだった。
少し前まで、こうして眺める天井は白くて近かった。すぐそばに窓があって、徐々に明るくなる窓が怖くて仕方がなかった。上手くいかないことばかりの日々。焦り、悩み、自分を責め、眠れないまま迎える朝日は刺すような眩しさで、私の心をボロボロにした。
私は、変わったのだろうか。
耳を澄ますと、小さな寝息が聞こえた。
寝返りを打つと、私にとって特別な人が目を閉じていた。その口元を見つめ、お前はお前のままでいいと言ってくれた声を思い出す。嬉しくなって、悪戯気分で唇を合わせる。反応がないのが、かえって気恥ずかしかった。
恋人の左腕を抱いて目を閉じる。今朝はもう眠れない気がしたけれど、それでもいいと思った。

5/3/2024, 7:14:24 PM

二人だけの秘密

卒業証書を手に訪ねた部室は静かで、どこか殺風景に感じた。くだらないことで笑い合っていたこの場所は、今日から過去のものになる。なぜか距離感を覚えて壁に手を触れると、そこに染み込んだ景色のいくつもが思い浮かんでくる気がした。
「まったく、ガラクタばっかりね」
部室の奥から前部長が呆れた様子で言った。
「ほとんどは男子でしょ? 持ち込んだものはちゃんと持ち帰るように。寄付はなしってルールだからね」
いつもは騒がしい同期たちも、今日に限ってはしおらしい。なんだかんだ言いながらも、大人しく部室を片づける。そんな中、何人かが部室の机を見ていた。
「どした?」
「いや、新しそうな落書き。451ってなんだろうってさ」
視線の先には何かで削ったような痕があった。確かに451と読める。
「さあな。たしか、紙が燃える温度だったか」
きょとんとしている面子をおいて、俺はその場を離れる。視線を感じて目を向けると、前部長と目が合った。そっと視線を逸らす。互いに頬が緩むのを堪えているとわかった。
何してるの、と聞いたあいつの声が蘇る。451の傷を彫っていた時の視界と、肩に寄りかかるあいつの体温。二人の選手番号、41と11の積を刻んだあの日、子どもっぽいねと笑ったあいつの本心を知った。
部室の外、後輩たちの姿が見えた。それから、あの傷が繰り返し誰かの話題になることを思った。
「先輩! 思ったより嬉しそうですね」
「うるせーよ。そんなことより写真撮るぞ」
柄にもなくはしゃぎながら、今日という日がまだ残っていることが素直に嬉しかった。

5/2/2024, 5:50:54 PM

優しくしないで

最初に思い浮かんだのは、一人前の膳だった。
一汁三菜の並んだ鮮やかな膳。仄かな食と畳の香りが入り混じり、安寧という静かな時に身を置く。厳重に警護された居城。足元に立ち並ぶ家々を思い、その食卓の様とを比べない日はなかった。
俺は、恵みなど要らない。
幼い頃から幾度となく考えた。柔らかな衣、恵まれた食、安全な寝床。何もかもを与えられてきた俺は、その一切を切り捨てたいと願った。だがそれは決して許されなかった。
俺は領主の息子として、この国を継ぐために生まれた。民衆が、家臣が、俺を崇敬し、俺を守ってきたのは、俺に未来を懸けていたからだ。その恵みを拒絶することは、己の存在全てを否定することだ。だから俺は享受した。領主としての責務を果たすことと引き換えに、俺は恵みの全てを受け取ってきた。
目を開ける。見慣れた天守閣が俺の決意を待っていた。
「あとは頼んだぞ」
「なりません! 我々は大国相手に十分な戦果を__」
「だからこそだ。お前らの力は知れた。従えば殺されはしない」
「し、しかし!」
「もういい。これが時の流れというものだ」
悔恨に染まった家臣たちを見ると、一層心は鎮まった。
「俺に情けは要らない。大事なのは民の命だ。一人でも多く、なんとしてでも生き延びろ」
刀を構え、己の腹を貫いた。
薄れる意識の中、体から何かが溢れていくのを感じた。民から授かった祈りに違いないと思った。
それはとても温かかった。

5/1/2024, 6:20:15 PM

カラフル

「私はどうしても行きたいの」
半ば怒り口調で主張され、俺は早々に折れた。口喧嘩は嫌いだった。疲れるだけで何も得られない。だいたい、口から生まれたような彼女に俺は勝てない。
投げやりな気持ちで『美術展』の建物へ入る。想像より高い入場料に一瞬足が止まったが、すでに彼女は先導切って角を曲がっていた。
内心で息をついて後を追う。じっと絵に見入る彼女の澄んだ瞳を見ると、つくづく合わないなと思った。
趣味も、性格も、まるで合わない。遊び先も違えば、感性も違う。違うどころか対照的だと思う。感情的で芸術肌で繊細な彼女と、慎重派で合理主義でずぼらな俺。正反対の俺たちは、はたして釣り合っているのだろうか。
「次こっちだって」
小声で彼女が袖を引く。俺はよそ見をしていたらしい。
「あとで気に入った作品教えてね」
耳打ちされ、仕方なく意識を戻す。
色を題材にした現代的な作品が並んでいた。グラデーションが美しいもの、淡白な色使いのもの、カラフルなもの。確かに、どれも見事な作品ばかりだった。
そのなかで、一際目を惹くものがあった。
荒々しい色使いの絵だった。強烈な印象を与えるのに、なぜかバランスの取れた美しさと安心感を感じさせた。
「これ、補色の使い方がいいよね」
「補色か。なるほど」
「真反対の色どうし、やっぱりパワー出るよね」
隣に並んだ彼女は、私も好き、と楽しそうに付け足した。

4/30/2024, 6:33:53 PM

楽園

二十年に及ぶ探究の果て、私はついに楽園を見つけた。
それは我が家に存在した。場所は玄関から南へ3m、西へ50cmの地点、柔らかな二枚の物体、俗にお布団と呼ばれるものの狭間に、それはあった。だが、楽園は常にそこにあるわけではなかった。発見が遅れたのはこのためだ。楽園に身を委ねるためにはいくつもの所作法が必要だったのだ。
まずは食事である。来たる寝落ちという礼式を乗り越えるために行う。献立はなんでもよいが、幸福度を高めるためハンバーグかオムライスが望ましい。次に入浴である。耳の裏までしっかり洗わなければならない。続いて歯磨きだ。フロスを全ての歯間に通さなくては歯磨きといえない。
これらを踏まえ、ようやく寝室への立ち入りが許される。予め、布団の四隅が整っていることを確認し、お供えものとなる一冊の本とコップ一杯の水を枕元に置く。
そして身を投じる。楽園モード!と高らかに詠唱した後、滑り込むように侵入する。侵入は競泳選手またはウルトラマンを理想とする。腕と脚を直線上になるように意識し、布団の根本から一呼吸のうちに潜り込む。
最後に読書を始める。この時、スマホの目覚ましをセットしてはいけない。ここが肝心であり、最も重要なポイントとなる。楽園に時は必要ないのだ。時間という呪われた固定観念から解放されることで、楽園は完全となるのだ。
さて、ここまで書いて実際にやってみたのだが、布団に頭隠して尻隠さず状態になりとても恥ずかしかった。

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