つぶて

Open App
6/17/2023, 6:39:15 AM

 恋愛成就ののぼりを見た君は複雑な表情を浮かべた。二人で神社なんて初めてのことだった。戸惑いを隠せない君を盗み見するのはちょっと楽しい。僕が神社に行こうと言ったのが意外だったとか、今の関係に何か不満があるのかとか、すごく悩んでいる。何度も躊躇った挙句、口を開いたのは拝殿に到着しようという頃だ。「……神様にお願いする前に、まず私に言って欲しいんだけど」
 僕は小さく笑った。率直な言葉が君らしいと思った。
「わかってるよ。これはお礼参り」
「お礼参り?」
「1年前、君と出会えるようここでお願いしたからね」
「……そういうのは先に言って」
 叩こうとする君の手をひょいと避けて、僕は手を合わせる。パタパタと足音が隣に並ぶ。1年前と違うのは、隣に君が立っていることだ。
 僕は心の中で感謝し、末永い未来を誓う。

6/15/2023, 2:29:56 PM

 好きな本には思い出が宿っている。
 その本を読んでいた頃の記憶。友達に「そんな本、どうやって見つけるん?」と聞かれたとか、教科書とノートの間に挟んで廊下を歩いたとか、とても些細なことだ。年末にリビングの絨毯に寝転がって読んだ、なんて記憶もある。小説の内容とは全く関係ないのに、物語を思い出すと一緒になって浮かんでくる。大好きな本に失恋の記憶が混じってたりするのが玉に瑕だけれど、僕は本を懐かしむのも好きだ。
 などと言い訳をしながら、僕は本棚を見上げている。冬休みに入ったと思ったらもう年末だ。本棚の掃除は一向に終わる気配がない。
「いい加減、掃除しなさい! 捨てるわよ!」
僕は飛び上がる。思い出を捨てられたらたまったものじゃない。あくせく片付けながら、今年も好きな本が増えたな、と思う。

6/14/2023, 1:58:35 PM

 明け方の空は、泣き笑いともつかない曖昧な色をしていた。降りそうで降らない。晴れるかと思えば、いつ崩れてもおかしくない。苦しそうだ。吐き出したいのに吐き出せない。ギリギリの均衡を保ったまま、いつか晴れるだろうと我慢し続けている。たぶん、今の私そのものだ。
 不安で眠れなかった昨日の夜。自分を見失いそうになって、明日こそはと思いながら必死に目を閉じ続けていた。だけど、いざ朝になってみればこの空模様だ。朝から元気に挨拶して、一日を頑張ろうなんて気持ちは、今や暗い雲に覆われ始めている。
 この空に向かって全部叫んでしまえたらいい。何もかも、全部雨に流してしまえば、きっと少しは軽くなるなるはずだ。プライドも、外聞も、何もかも捨ててしまえばいい。
 なのに、私には聞こえるのだ。どこからともなく。私を睨みつけて、降るな、降るな、と牽制する声が。

6/13/2023, 1:46:35 PM

 その女性はいつも雨の日にやって来た。
ショートボブの黒髪にあどけなさを残した女の子。窓際の席に腰を下ろすと、いつも決まってカプチーノを注文する。バッグから文庫本を取り出し、雨に溶け込んだように読書をする。客の少ない店内で、ページをめくる小さな手が麗しかった。
 カプチーノがお好きなんですか、と尋ねたのはいつだっただろうか。雨の日はカプチーノが飲みたくなるんです、と言った彼女は、と歌った方がいるんです、と付け足して微笑んだ。大人びているようで、無邪気なようで、不思議な魅力のある人だと思ったものだ。
 七月になった。いよいよ夏の気配を感じる。職場である喫茶店への道を歩きながら、そういえば紫陽花を見なくなったな、と考えた。

6/12/2023, 2:12:28 PM

 その男は好き嫌いが激しかった。食は偏り、遊びは変わらず、人付き合いは限定されていた。偏狭な自分に嫌気がさし、男は一念発起、好き嫌いをなくすことを心に決める。様々なものを食べ、いろいろな遊びをし、人を選ばず交流した。血の滲むようなの努力の末、男は無我の境地に達する。すなわち、どんな事も好きでも嫌いでもないと感じられる領域に己を置くことに成功したのだ。
 好き嫌いをなくした男は、世の中がつまらないものだと気付いた。特に好きになれるものが無かったからだ。

Next