「ずっと降ってるね」
「明日も雨だって」
「梅雨入りしたからね」
静かな室内。かすかに届く雨の音。
時折、ページをめくる音、キーボードを叩く音、衣擦れの音、床を擦れる足音、二人の息づかいが響く。
「何か買いに行こうか」
「いいよ。雨だし」
「そう。……コーヒーでも飲む」
「うん」
ケトルに水を注ぎ火にかける。豆を砕いてフィルターに落ちる。お湯を注ぐと芳醇な香りが湧き立つ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
雨音が鳴り続けている。
心地よい静けさが部屋を満たしている。
雨の休日が穏やかに過ぎていく。
施設の最上階で君はじっと空を見ていた。
やっと、辿り着いた。
僕はよろめきながら君の元へと歩を進める。脚が言うことを聞かない。返り血の着いた服がやけに重い。
「何をしている! ここはもうダメだ!」
叫ぶ声が掠れた。君は逆光の中、背を向けたまま言う。
「いい天気だわ」
「見ただろう? 空からおぞましい液体が降り注ぐのを。あれを浴びた奴らはみんな壊れた。人間でなくなるんだ! そのうちここも」
「とっても綺麗」
「……なんだって?」
「紫色の空、黒い太陽、紅い雨。この世界の裏側みたい。いい天気だわ」
君は、何を言ってるんだ?
天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、僕と君が生き延びるために必要な、何よりも優先すべきことで。
「本当に、いい天気だわ」
君は空を見続けている。
ああ、そうか。君はもうすでに……。
僕は君の前に回り込む。
その壊れた瞳に涙が落ちた。
門を出ると、ドドドドッと地響きがした。
見ると、大勢の人が土埃を上げてこっちへ走ってくる。
「え! 何! どういうこと!」
呆然とする私。隣にいた同期が肩を叩く。「走るよ!」
「ちょっと待って! うわああああっ」
みるみる疾走軍団に飲み込まれる。スーツを着たサラリーマンや、ハイヒールの女性、白髪混じりのご老人たちが見事なフォームで私を抜き去っていく。そんな中、髪をなでつけた若い男の人が涼しげに隣へやってきた。
「新入りさん? 最初はしんどいかもしれないけど、慣れたらそうでもないから。頑張って」
「あ、ありがとうございます。……あの、これ、どうして走ってるんですか?」
「うーん。怖い魔物が追ってきてるらしいよ」
「らしい、ですか」
「そう。本当のところはだれもわからない」
その先輩はにこりとする。
「走りたくなければ走らなくていい。魔物に食べられても、魔物を殴り倒しても、飼い慣らしてもいいんだよ。全ては君次第さ。君はどうしたい?」
問われて、私は少し考える。
隣を並走する先輩はどこか楽しそうに見えた。
「とりあえず、走ります!」
「絶対、一緒に合格しようね!」
一点の曇りもない目と目が合った時、私はこの結末を悟っていたのだと思う。あなたは素直で、真っ直ぐで、いつも夢だけを見ていて、挫折とか、不安とか、将来のことで思い詰めたことなんて、きっと一度もないのでしょう。
オーディションの合格発表。呼ばれたのはあなたの番号だけだった。ラストイヤーの私は、もう入ることの許されない部屋を抜け出した。誰とも会いたくなくて、薄暗い廊下を歩いた。家に着くまでは心を殺せるような気がした。
パタパタ駆けてくる足音が聞こえた。
リリ、と私を呼ぶ声。
振り返る勇気なんてなかった。
背中から抱きすくめられた瞬間、あなたの中の喜びと悲しみが押し寄せてきて、こらえていたものが溢れた。
「ごめんね」
その一言だけだったら、私は壊れていただろう。
だけど、あなたは私の耳元で懸命に言葉を紡ぐ。
「私、頑張るから。リリの分まで、頑張るから」
ずっと、あなたが大好きで、大嫌いだった。
それは今も変わらなくて、たぶんこれからも変わらない。
背中越しに感じる親友の温もりを、私は一生忘れない。
放課後。部活前。
私は片想い中の相手に笑いかける。
「もう焼けてるね」
「そうかなぁ」
「あたしより焼けてるって。ほらほら〜」
腕を差し出すと、あなたも腕を伸ばす。
隣に並んで日焼け具合を比べるふり。その筋肉質な腕と私の腕をくっつけて、私はちゃっかり温もりをチャージ。
「俺焼けてきたかも。というか、相変わらず白いなぁ」
「そりゃあ、日焼け対策してますから」
「こうやって見ると、男女の腕って違うもんだな」
「ほんとほんと」
あなたの目がじっと私の腕を見つめている。私はちょっとドキドキしちゃう。少しは意識してくれるといいんだけど、やっぱりわからない。
号令がかかった。今日も練習が始まるらしい。
バイバイ、と私は手を振って友達の方へ戻る。
いつあの腕に絡みついてやろうかな。
炎天下の中、凍りつくあなたを想像して、私は可笑しかった。