なのか

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1/16/2024, 3:30:32 PM

美しい文章というのが、どうも納得いかなかった。誘われて入った文芸部はそれを知っている人間ばかりの集まりだったので、そこに私の居場所はあまりなかった。
とはいえ、その審美眼を育てなければ良い文章は書けない。と顧問の先生が仰っていたので、仕方なく文豪達の真似をしてみたりした。自分でもよく分からぬままに書いた作品が褒められたりして、独り歩きする文章に気持ち悪さを感じた。
ある日のことだった。いつものように物真似の文章を書いていた私に、ある機会が訪れた。放課後、偶然に図書室を訪ねていた同級生に、作品を読ませてくれないかと頼まれたのだ。
その同級生は、名前を琴子といった。肩甲骨の辺りまで伸ばした髪が特徴的で、それ以外にはあまり印象に残らないような人間だった。
自分の作品を読ませるというのは、つまり自分の脳みそを覗かれるようなものなので、私は初め渋い顔をして断っていた。しかしながら、彼女があまりにもしつこいので、一つだけならと了承した。
実を言えば、この時の私は期待に満ち溢れていた。人よりは確実に多くの文を書き、まがりなりにも名文、あるいは美文と呼ばれる類のものを参考にしてきたのだ、素晴らしいと褒めそやされることはなくとも、まずまずの反応が見られるはず。
そんな私を知ってか知らずか、琴子さんは原稿用紙を食い入るように見つめて、一枚、また一枚と読み進めていった。最後の一枚を読み終わるまで、随分と長いことそうしていたように思えたけれど、都合十分ほどの時間しか経っていなかった。
待つのがいたたまれずに、自ら、どうだった? と感想を促した。琴子さんは、悪い意味に捉えないでほしいんだけどと前置きをして、
なんか、空っぽだね。と言った。
その一言で、私が積み重ねていた空虚な自信はジェンガのように崩れていった。
これではいけない。私の中にふつふつと何かが沸き起こった。それは復讐に似た感情であり、過去の自らと決別するための覚悟であった。
それから、私は琴子さんを満足させるだけの文を書こうと躍起になった。目の前の人間一人納得させられずして何が物書きかと自分に言い聞かせながら、書いては読ませ、読ませては書いてを繰り返した。それは小説であったり、詩であったり、ときには戯曲の形式を取ったものもあった。
そうして過ごしていくうち、私は琴子さんがとても美しい人であることに気づいた。文字を追う眼差しも、口許を隠して笑う仕草も、その全てが美しく思えた。メダカを好まぬ人間が鰭の美しさを語れぬように、数理に疎い人間が美しい数式を解けぬように、触れようとしないだけで、美しいとはそこここに眠っているものなのだ。

「これで終わり?」
琴子さんは続きを探すように原稿用紙を蛍光灯にかざした。彼女の奇怪な行動に、図書室の利用者達が遠目からこちらを見ている。
「そんなことやっても続きは出てこないよ」
「これは、新手の告白だったりするの?」
どうだろう。思ったことを連ねただけで、毎度訪れて勝手に読んでいるのは、彼女の責任だ。
「というか、君って一人称『私』だっけ」
「癖が抜けない」
文豪達は、『私』というもう一人の私を持っている。そうやって彼ら彼女らは、自らの美しくない部分を文にしたためて切り離しているのかもしれない。
「言うならちゃんと言ってよ。文じゃ聞いてあげないからね」
琴子さんは原稿用紙を整えてこちらに突き返した。今日もだめだったらしい。
この時間が終わらなければいいのにと安易な表現で気持ちをまとめてから、僕は原稿用紙を折り畳んだ。

1/15/2024, 2:27:27 AM

市立図書館は休館日だった。休館のスケジュールは知っていたので、今日は返却ポストに返しにいくだけのつもりだったけれど、図書館の入口で妙な光景を目にした。
入口に置かれている休館日の看板を、角度を変えてパシャリパシャリとスマホで撮っている女生徒がいた。遠目では制服以外の特徴が分からなかったけれど、近づいてみればなんと、同じクラスの新田さんだった。あまり話したことはないけれど、小中高と同じなので顔は覚えている。
返却ポストも入口の方にある。彼女の行動が終わるまで待とうか迷い、別に気にすることでもないかと構わず向かう。
近づいてくる足音に気づいたのだろう、新田さんはぱっと振り向いてこちらの存在を認識すると、同じクラスの人間だと気づいたのか、なんだか気恥しそうに会釈をしてどこかへと行ってしまった。
返却ポストへ一冊ずつ滑り込ませた後、ふと好奇心にかられて看板を見てみることにした。トランプタワーのような形の看板で、真ん中を支える骨組みを加えると、横から見た時にアルファベットのAに見える。裏面には何もなく、表に大きく休館日と書かれていて、左下辺りに今月の休館日がカレンダーに記されていた。何の変哲もない看板のように思える。少なくとも、写真を撮ろうとは思わない。
看板をじっと見つめる。一瞬、休館日のカレンダーを写真に撮ったのかもしれないと思ったけれど、それなら何度もカメラに収める必要はない。新田さんは角度を変え体勢を変え、何度か撮っていた。
内側に秘密の暗号でもあるのかなとぐっと顔を近づけた時、中からかさかさと大きな蜘蛛が出てきた。辺りに響くような大声を上げて、反射的に身体を反らせる。心臓が口から出てしまうかと本気で思った。
これでは謎解きどころではない。ちょっとしたパニックで真っ白になった頭は、自然と帰宅へシフトしていく。もう帰ろう、変な詮索はよそうと歩き始めると、視界に制服姿が映った。さっきどこかへ行ったはずの新田さんが、何故か遠巻きにこちらを見ていた。
「こんにちは」
二度も目が合って挨拶しないのもなんなので、歩み寄って挨拶をする。新田さんは「こんにちは」とお辞儀をして「あの、何かあったんですか?」と続けた。先程上げた悲鳴が、彼女を呼び寄せたようだ。
「白状すると、新田さんの行動が気になって看板を見てた」
「やっぱり、見られてましたか」
「うん。それで、何で看板の写真撮ってるんだろうって気になって見てたら、蜘蛛が出てきてパニックになっただけだよ」
何とも情けない説明だけど、全て事実である。
新田さんは首を傾げた。ラッキーなことに、彼女は蜘蛛を見ていないのだろう。
「私、看板の写真なんか撮ってないです」
「撮ってたじゃん。スマホで」
新田さんは「あー、なるほどです」と言って、ポケットの中からスマホを取り出して、何やら操作し始めた。
「心の準備、してください」
新田さんが画面をこちらへと向ける。そこに映っていたのは、さっき目が合った蜘蛛だった。身体の仰け反りそうになるのを必死に抑える。
「蜘蛛、好きなの?」
声を何とか絞り出した。新田さんは嬉しそうに「蜘蛛も好きです」と言った。
謎は全て解けた。ついでに寿命も縮んだ気がするので、養生するために早く帰ろう。
「じゃあ、自分こっちだから」
「私もそっちです」
小中が同じなら、校区も同じかと納得する。別にそうする必要はないけれど、何となく連れ立って歩き始める。
「本、好きなんですか?」
「そうだね。人並みに好きだと思う」
「私、本も好きなんです」
それもそうか。わざわざ蜘蛛を撮るために図書館へは足を運ばない。
「小説?」
「はい」
「今まで読んだ中で、一番好きな本は?」
読書をする人間なら百回は聞かれる質問だ。読んだ本で相手を知ろうとするのは、本好きの性だろう。
「私は、『ダレン・シャン』シリーズが好きです」
新田さんはそう言って笑った。オチがついたとでも言いたげな感じだった。
疲れの交じる笑みを浮かべる。自分の好きな本は、また明日学校ででも話そうかと考えながら、良い趣味だねと乾いた賞賛を贈った。

1/12/2024, 4:07:13 PM

助手席からの返事がいつの間にかなくなっていたことに気付いた時、既にユイは眠ってしまっていた。意味もなく流していた『不思議の国のアリス』の音量を下げて、暖房を弱めにかける。
ユイの電話に起こされたのは、夜中の一時を少し過ぎた頃だった。手繰り寄せたスマホをなんとか操作して出た電話の第一声が『車出して。眠れない』だった。彼女は時々、こんな感じで甘えるようになった。
中途半端に眠って重たくなった頭を顔を洗って起こし、見られても大丈夫なくらいの服に着替えて出発する。彼女の家は住宅の並ぶ埋め立て地にあり、到着したのは深夜二時にせまった頃だった。海風の運ぶ底冷えする寒さが、あらゆるものの活動を止めていた。
現在時刻は深夜三時を過ぎたあたりだ。車を出してから一時間弱の間に、ユイは眠ってしまったことになる。眠れないというのは何だったんだと思わなくもないけれど、本当に眠れないよりは全然良いので気にしないことにする。
数回に分けてブレーキをかけ、赤信号で一時停止する。どこに行こうか迷って、ユイの家に引き返すことにした。
低速で道路を独り占めしていると、助手席から物音がした。ちらりと見ると、ユイがゆっくりと目を開いた。
「ごめん、寝てた」
「おはよう」
「ん、おはよ」
ユイは背伸びをして、窓の外をきょろきょろと見回した。
「どこに向かってるの?」
「君の家」
「嫌。まだ帰らない」
嫌と言われてましても。そろそろこっちも眠気に襲われ始めている。他者の命を預かってる身で危険な運転は出来ない。それを説明すると、
「家の駐車場に停めて、一緒に寝たらいいじゃん。部屋から布団持ってくるよ」と言われた。彼女の家族に迷惑がかかるからと、丁重にお断りした。
ユイの家に着いた時には、時刻は四時をまわろうとしていた。彼女が降りやすい様、玄関に助手席を添わせる形で停止すると、エンジンを止めるように促された。
「車中泊はしないぞ」
「それは諦める。その代わり、ちょっとやりたいことがある」
車中泊をしないならとエンジンを止めた。ユイはシートベルトを外して肘掛を上げると、こちらに向かって両手を大きく広げた。
「ぎゅってして」
ため息を一つ吐く。言われるがままに、線の細い彼女の身体を抱きしめてやる。ちょっと胸の詰まるくらいに強く抱きしめられて、それが二分程続いたのち、名残惜しそうに彼女は離れた。
「おやすみ。今日はありがとね」
ドア越しに、ユイは手を振った。
「おやすみ。どうしても眠れなかったら、また電話していいよ」
家に着いたらメッセージ送るからと言い残して、車を発進させる。カーナビに映っているチャプター画面の白ウサギが、全てを見透かしたように、時計を覗き込んで笑った。

1/10/2024, 11:45:50 PM

待ち合わせまで時間があったので持参した文庫本を読み耽っていると、ペちんと額に痛みが走った。電車は既に次の駅へ向かう助走をしていて、目の前には振袖姿のフユカさんが立っていた。
フユカさんの振袖姿を見た時、可愛いとか綺麗とかを思う前に、心臓を何かが這いずるよう様な気持ち悪さに襲われた。それは、日陰の中で燻っていた稚拙な独占欲が、彼女の明るさにあてられて芽吹いた痛みだった。
「どう? 似合うでしょ?」
成人式終わりのフユカさんはそう言って笑った。電車のプラットフォームには、彼女と同じような振袖姿の人がちらほらと見受けられる。楽しそうに袖を振る彼女はとても綺麗だと思ったし、とても似合っていた。だから、とても遠くに感じた。十八歳と二十歳、たかが二年だけど、それは確かな事実だった。自分はまだ大人ではなく、彼女はもう大人になったのだ。
「どうしたの?」
いつもと違う事に気付いたフユカさんが、心配そうにしていた。何を言うべきか考えて、何も言えなくなる。ただ唇を引き結ぶだけの自分が、情けなくて仕方なかった。
電車の利用客達が迷惑そうに避けていく。フユカさんに手を引かれる形で駅から出た。
「言わなきゃ分からないって、いつも君が言ってるでしょ。お姉さんに話してみ?」
駅周辺にある噴水を丸く囲む形で設置されたベンチに腰掛けて、フユカさんはそう言った。喧嘩した時はいつもそう言って話し合っていた。なけなしのプライドと脆弱な信念を天秤にかけて、信念を取った。感じたこと、思ったこと、出来る限り言葉にしていく。フユカさんは、途切れながら吐き出されていくそれらをじっと聞いていた。
「君さ、たまに超可愛い時あるよね。普段は生意気なのに」
「なんですかそれ」
「私はね」フユカさんはそう言って、何もない空をぼんやりと見上げた。
「本読んでる君が嫌いだった。高校の時ね」
初耳だ。
「何を話しても曖昧に返事するだけで、こっちの話全然聞かないし、何時間もずっとそうしてるし」
「すいません」
「何より、自分とは違うって感じるのが、一番嫌だった」
遠くでクラクションが鳴った。雑踏と信号の音が、混ざって消えた。
「本、読んでみようって頑張った時期もあったけどね。全然ダメだった」
「そう、だったんですね」
「そうだよ。」
どこか拗ねたような顔をした後、フユカさんはいたずらっぽく微笑んだ。
「だから、今の情けない君は大好きだよ。私のこと本当に大切なんだなーって思うと、可愛くて仕方ない」
恥ずかしいのと情けないのが、声にならないくらいの吐息になった。
「それで? 私に何か言うことあるんじゃない?」
「本読んでる時、反応薄くてごめんなさい。以後気をつけます」
「他には?」
他にあるらしい。考えても分からなかったので、言えなかったことを言うことにした。
「今日のフユカさんも、綺麗だと思います」
「うん、ありがと」
フユカさんは勢いをつけて立ち上がった。手を繋いでいるので、つられて立ち上がる。上着のポケットに押し込んだ文庫本の重さを、今更のように思い出した。

1/10/2024, 4:10:40 AM

「三日月よりはマウスっぽいけど、パソコンの」
クロワッサンは何語だろうと言うので、フランス語で三日月という意味だよと教えたらこんな風に返ってきた。
「ほら、握るといい感じじゃない?」
遠藤さんは持っていた袋からクロワッサンを取り出して、マウスのように握った。
「手、汚れるよ」
注意しながら、クロワッサンを一つ手に取る。言われてみれば、マウスのように見えなくもない。
「三日月と言えばさ、朝に出てる三日月についてくる星あるよね」
暗くなりかけている空をぼんやりと見ながら、遠藤さんはそう言った。足元の覚束無いのを、やんわりと袖を引っ張る。
遠藤さんの言う星は、きっと金星のことだろう。夕方にも見えることはあるけれど、朝方に見えるのは明けの明星と呼ばれる。見える時に必ず三日月かどうかは、正直知らない。
「ねぇ、話聞いてる?」
「ん、その星は金星だと思うよ」
「ほら、やっぱり聞いてない」
金星に思いを馳せる内に話題は移り変わっていたようだ。歩行者信号のボタンを小指で押す。
「何の話になったっけ」
「占いって信じてる? って話」
占い。あぁ、六占星術から派生したのか。金星人、水星人、エトセトラ。
「占いは、あんまり信じてないかなぁ」
小学生の集団とすれ違いながら、横断歩道を渡る。
「星座占いとかも?」
「星座占いとかも」
がさがさと袋を漁る。クロワッサンはあと一個だった。
「これラストだ」
「えー、私も食べたい」
どちらが食べるか、星座占いで決めることにした。
「私五位だった、かに座。あんたは、うわ、うお座一位じゃん」
「いぇーい」
出来るだけ均等になるよう、半分にして渡す。
「くれるのかよ」
「今日は運がいいらしいからね。お裾分け」
「鼻につくなぁ」
遠藤さんはそう言って笑った。
「あ、三日月。ラッキーだね」
遠藤さんは空に浮かぶ三日月を指さした。三日月というよりは半月に近い。何がラッキーなのかは分からなかったけれど、とりあえず頷いておく。
「遠藤さんは、占いとか信じてるの?」
「結構信じてる」
「そうなんだ」
「うん、都合の良いやつだけ信じるの。これ占いのポイント」
何て都合の良い考えだろう。上手い付き合い方だ。
「都合のいいって、例えば?」
遠藤さんは「聞きたい?」と何故か勿体ぶった。
「凄い聞きたいかと言われると分かんない」
「食いついてよ」
言いたいみたいなので、聞いてあげることにした。
「かに座とうお座はね、相性良いの。都合いいでしょ?」
確かに、それは都合の良い考えだ。
「なんか、星座占いを信じてみたくなったかも」
「なにそれ、意味分かんない」
どちらともなく笑って、暗くなってきた住宅街に忍び笑いが響く。隣にいる遠藤さんの表情を、三日月は照らしてくれなかった。

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