安心と不安連なる日常は、いわゆるアンソロジーから出来ているのである。我らは1日にして、安心と不安を幾度となく経験している。あなたの人生をもし神が決めているのなら、それはアンソロジーではなくただの嫌悪に過ぎないのだ。爪を一枚一枚剥がして行くのとおんなじで安らぎには出会えない。あとに引くような痛みを味わうだけなのだ。我々は文字です。だから私はアンソロジーに生きて行く。
「アンソロジー」
後書き
分かりにくくてすいません。でもあえて言いません。人それぞれの読み取りかたを否定したくないので。
こんな夢を見た、私はウッドチェック刑務所の4棟に収容されたウィルソン・サンキスという28歳の男の身内で、何があったか知らないがそいつが作業中に謝って転落し死んだらしく、「ご親族のかたに死体を引き取って欲しい」と頼まれてきた。私はそいつの身内だった覚えは無いし、自分が今から迎えにいくやつが誰かさえ全く分からなかったが、夢の中では怖いほどなにも考えずすんなりと受け止めた。私は車を三十分ほど走らせ、町から離れた高原に見える黒いか溜まりのようにそびえ立つ刑務所まで向かった。車内のラヂオではサムクックの「ワンダフルワールド」が流れていた。私は車を止め、死人の待つ部屋へ続く裏口まで向かった。外では看守が二人私を待っていて、何を言われたが覚えていないがお悔やみの言葉をもらったと思う。そのまま中に通されシーツが被された死体がポツンとおいてある部屋に入った。その横棚がありその男についての粗末な薄い書類が置かれていた。上に「鑑識結果」と大きく印刷されており、死因の欄には「転落死」と小さな文字で記されている。二枚目のファイル見ると薄い紙束にその男の28年間の記録が残されていた。
ウィルソン・サンキス 1962年4月28日22時12分誕生
1990年4月3日13時45分死没
職業 レンガ職人
罪名 殺人罪
引ったくりに会い取り返すために逃げる犯人にレンガを投げつけたところ頭部に直撃させ死亡させた。その後、近くの沼に遺体を投げ捨て逃走を図った。裁判官はこれを正当防衛と認め減刑。殺人罪と死体遺棄の罪状で1年と3ヶ月の実刑判決をいいわたした。
サンキス家に誕生し、母が12歳のときに交通事故で死去。その後家計の為中学卒業後から就職を希望するがなかなか見つからず親戚の職人のところでレンガ職人として働く。1989年8月26日殺人罪と死体遺棄の容疑で逮捕。1990年4月3日13時45分死没。
それだけだった。このあわれな男の生涯は3ページで終了だった。私は被せてあるシーツをめくりその男と対面した。きれいなまだ死んでいないような真っ白な死体だった。私は刑務所の裏口から飛び出し空を葵で泣いた。歯を食い縛り胸ポケットに手を突っ込むと、煙草が出てきた。私はそれを1本口に加え、大きく吸い込んだ。
私は小学生の頃冒険小説が大好きで、顔をめり込ませるようにして呼んでいた。そしてタイムマシンと言えばH,G ウェルズの小説が有名で、勿論私も読んだ。私が呼んだ物は、そこそこ昔に翻訳されたものだったので、グロテスクな表現が多く読みがいがあった。今はなんでも時代に会わせてしまうので嫌いだ。小説をまだ読んたことのない人が多いと思うので細かい内容は言わないでおくが謎めいた雰囲気があり、読んでいる間私もその世界に入り込んで、タイムトラベラーの主人公気分でドキドキしながら読んでいた。遠い未来にいく話なのでなっとくのいかないことや、失望、驚きが沢山あって感情の宝庫だった。そして、私自信も怖さもありながらタイムマシンで遠い遠い後の世界へ行ってみたいなと思っていた。それが、今はそんなこと1ミリたリとも考えなくなった。何故だろう、私はスマホの前で考えていた。そして「こんな物騒な世界に幸せな未来はないし、見てみたくもなくなってきた。」と言うことだろうと結論を出した。タイムマシンでは、未来の人間かどうかもわからない生き物が過ちを犯しているが、等の現実は「完全な人間」が本にも書きたくないようなとんでもない過ちを犯しているのが日常になっているのだ。どうだろう。まだ弱肉強食でも、得たいの知れない物でも、今の世界よりはいいと思わないだろうか。だがどうしようもない。自分がその日々起こっていることを止めることもできないし、人に止めるよう宣言できるような特別上の地位の人間でもない。それにタイムマシンは小説の話だ。こんなことを考えているうちに、また自分が他の時間へと逃げたくなってくる。もう止めよう。考えないようにしよう。また物騒なニュースが流れてくる朝まで、なるべく考えないようにしよう。でも私は忘れることはできない。どうにもできないが、タイムマシンがあったら過ちを犯す前にそいつらのところに行って行ってやりたい。「今を大切にしろ、後に残るのは罪悪感と絞首刑を待つ自分だけだ。」と。それでも一部の人間はサイコパスという奴らもいるので、その場合は過去に戻り徹底的に始末してやりたい。「人に迷惑をかけるな」本当にその一言しかでない。私はこんなことを書いていて嫌になり、抵当に動画などを見ていた。すると死にたいだとか、ネガティブ発言を歌にのせてアニメにしたりだとか、そんな動画ばかり出てきた。「クソッタレ!!」と思った。内容はどれも親がうざいとか、友達がどうとか、本当の苦しみを経験したことの無い物ばかりで嗚咽まで込み上げてきた。私は今まで友の死や、いじめ、身内内の事件事故など色々経験してきた。動画は大体は小学生から中学生が投稿している。「君たちに人生の何がわかる」そう呟きこのエッセイを投稿した。すると、目の前に黒い塊が出てきたかと思うと、煙をあげ、扉が出てきた。そこから髪を染め上げた私が出てきて。「投稿しない方が良かったのかもよ、あれ」といった。私は目の前にいるもう一人の自分を思い切りぶん殴った。
「タイムトラベル」
後書き
生きてりゃ誰だって辛いことなんてあります。ただ程度の問題なんですよね。近頃の世の中、過敏すぎませんか?というかこれは創作なので一番最初以外はあれですけど、動画のとこほんとに有るんですよね。私は「君たちに人生の何がわかる」って言うのはエールでもあるので取り合えず辛いことがあっても頑張って下さい。拓郎でも聞けば元気でるかもですねw
いつ頃からだろうか。夜に特別感を感じなくなったのは。小学校までは夜中まで起きているのが、校則上悪いことだったゆえにカッこいいと思っていた。夜までおきて、ゲームをしてお菓子を食べたり友達と電話をしたりする。それが特別で最高だった。そして学校で、「何時まで起きていたか」のマウントの取り合いをして勝つと大人っぽいと自分の中で誇っていた。そして大晦日にまで行くと心情はリッチの極みであった。起きていても親には起こられず、笑うとお尻をしばかれる番組を見ていようが、好きなものを食べていようが、ゲームをしていようが、何をしようが自由なのだ。そんなのは10歳前後のガキには、最高級のディナーなんかより百倍も二百倍も上の極楽浄土で、この世の全ての喜びを感じた気がしていた。それがどうだろう。今ではそんなこと当たり前なのだ。逆に友達との間では「どれぐらい早く寝ているか」の話をたまにするし、早く寝ていたら偉いと褒められるぐらいだ。大晦日も勿論特別で楽しいが、前までのように起きていられる喜びは味わわなくなった。勿論大人になっていつまでも起きていることに喜びを感じているのはおかしいのであたりまえなのかもしれないない。だが、夜更かしをするのは健康にいいことではないし子供ながらの喜びを感じられなくなったのは寂しい。まあ、長い間夜更かしは続けているので日々の生活で劇的に眠くなることはほぼなくなったが、本当にそれは大人になったといえるのかどうかわからない。「これは悪いことだ」と思っていてその悪さを楽しんでいた頃と、「悪いことだ」とも思わなくなって、自分の健康などには全く気を遣わず当たり前になってしまっている今と、さほど変わらないのではないか。逆に言えば「悪いことだ」と気がついている昔の方が大人に近付いていたのかもしれない。私は前から「まだ子供だった」とはよく思っていたが「前より子供になっていた」とは考えたこともなかった。「そうか、私は前より子供になっていたのか」そう呟き私は電気の消えたくらい天井をぼうっと見つめた。そうしてしばらくしてからスマホの時間をみる。もう十分遅い時間だ。「これが当たり前になっていたのか。」私はため息をつきながらそういい布団にくるまり瞳を閉じた。「人生はまだこれからだ。特別な夜に感謝しよう。」
「特別な夜に」
夢を見た。私は太平洋のど真ん中で一人泳いでいる。最初は足のつく程の浅い海だったが時間がたつにつれ深く、深くなっていく。海は気持ちが悪いほどに透き通り、海の底に泳いでいる私の影がゆらゆらと揺れているのが見える。その影に隠れて三葉虫が蠢いていて、まとっている甲羅をギラギラと輝かせていた。だがそれは宝石のようにきれいなきらめきではなく、泥水の中でゆらめくビンビールのような異様な輝きだった。ふと足が動かなくなった。さすがに「ヤバい」と思い必死に暴れようとしたが、思いも空しく海の底へ沈んでいってしまった。海の底は暗かったが、相変わらず三葉虫のギラギラした背中は光の柱をつくっていた。私は海底の圧力に負けそうになり地面を這いつくばって進んでいた。どのぐらい経ったのだろう。私は疲れはて食べ物か何か無いかポケットをまさぐってみると、吸うはずの無いタバコとアメリカの国旗が出てきた。取り敢えず私はそれをしまい三葉虫の背中にのってやすむとにした。ギラギラと品の無い光を放つ背中は苔むしていて、硬くツルツルした表面はあまり気持ちのいいものではなかった。私は上に座って先程のタバコをもう一度出し、何を思ったのか三葉虫の日を浴びているところに先の方を向けた。するとジリジリと音を立て火が着いた。海の中にも関わらず着いたのだ。そういえばさっきから長い間沈んでいるが、多少の息苦しさしか感じていない。私はさすがに恐ろしく思えてこの場所から逃げようと試みた。立ち上がって水面に向かって飛び上がるが、あと少しにも及ばず、手を伸ばすことしか出来なかった。足下を見ると瑠璃色の地面にどんどん足がくいこんでいっている。その時に冷たい風が海に吹き混んできて私を凍えさせようとしてきた。その瞬間視界が風と共に流れていき、三葉虫も粉のようになり、暗闇に消えていった。そしてぼうっと目の前の海が消えて、視界が薄くチョウチンアンコウのような明かりの着いた天井に変わった。私は起き上がり、見てみると布団がめくれ足にまとわりつき、床に転げ落ち誇りにまみれたラヂオの裏のツルツルした部分を触っていた。そしてつけっぱなしだったデスクスタンドを顔に浴び、顔に枕を押し付け寝ている。「あぁ、そういうことね」と私は呟き、ベッドに戻って朝までの短い眠りを堪能した。そして私がこれを書いていて2つほど奇妙におもった事がある。というのは夢というものは簡単に忘れるものなはずなのに、自然と私の潜在意識の中に潜り込んでいる事。もう1つは他の事は一致する点が現実で会ったのに、「タバコ」と「アメリカの国旗」に関しては全くもって身に覚えがないということだ。多分私は無意識にどこかでそれを見ていて、感じ取っていたのだろう。それを踏まえて、起きているときよりも、眠っているときの方が感が働くのではないかと私は考えた。それからというもの私は「人間以外でも夢を見るのか?」「人間は生涯でどれ程の夢を見るのか」というように夢について考えるようになった。だが、こ れ以上追求すると眠れなくなってしまう危険もあるし、哲学的になってしまうので、取り敢えずは「睡眠」を心から楽しむことにした。
「Good Night」