今日も日が沈んだ都会は眠らない街へと色を変える。
テーブルの上から大事に乗せてあった煙管を手に取ってベランダへ出る。それなりに賑やかでそれなりにアダルトで。3分もいればその場の雰囲気に酔いしれて気分が最高潮へ達してしまう。我を保つためにも苦味のある空気を吸ってひと息吐く必要があった。
ふと見下ろすと一人スーツをきめた男が目に入る。ホストは色恋営業が禁止されてるらしいけど、姫に打ちのめされたのか商売道具のご尊顔を赤く染めて裏路地から出てきた。
「てめぇで叶わないってわかってて恋したんだろうが。惚れた顔に傷をつけるなんてな…」
ふっと軽く鼻で笑ったものの、人様のいざこざを笑えるほど、自分も偉い人間ではない事、ろくな生活をしてない事は分かりきっていた。
ここまで憧れてやってきたのに、本当に何やってんだか。自分に絶望してもなお、夜のネオンに心躍らせているのは変わらなかった。
煙管を咥えてもう一度思いっきり吸って、愛おしそうにゆっくりと吐いた。苦くて、でも甘ったるいこの街の匂いに比べたらずっと美味しかった。
狭くて暑苦しいのにどこか冷めている寂しい街。空を見上げた時、埋めつくしているのは学生時代に黒板から目を逸らした時に見えた空よりも深く複雑な藍だった。この街に染まりきらない空に腹が立ってたったひと息の煙で濁した。果てしなく遠くてちっぽけな都会の空には届くことは無かったけど少しだけすっきりとした心持ちになった。
もう少しだけ起きていよう。そう決めて少しだけ微笑んだ、そんなとある夏のとある都会の夜のお話。
題材「Midnight Blue」
散る。チル。Chill。音楽を掛け流した部屋が溶けていく。左から右に聴き流してるだけのくせに音にノッてるように体を揺らした。
右手から1本、煙草に見立てたココアシガレットを取り出して咥える。
「人生一度はイキりたい時があるもんだ」
従兄弟の兄さんはそう言って目の前で煙をひとつ、ふーっと吐き出した。別にイキりたい訳じゃなくて、短い人生の中の娯楽に並ぶ楽しみを探してんじゃないの、本当は。ガリッと一口噛み砕いた破片は口の中に広がる。
「甘ったる」
呟いた声は同期した音にかき消された。他の誰もいない狭い自分だけの空間であることを確認してから、ふーっとひと息、大人の真似事をする。
「馬鹿くさ」
また一言呟いて薬の箱をゴミ箱に突っ込んだ。咥えたココアシガレットも机の上に投げつけてベッドに潜り込む。目を閉じるとそのまま深い深い眠りへ落ちた。
憧れであり、心地良いネオン街。子どもは立ち入ることが出来ないようなアダルトな雰囲気と堕落しきった大人達。そんな中で見覚えのある一匹の犬が迷い込んできた。その犬は迷う事なく近づいてくる。
「クロ…もう会えないかと思った」
もっと幼い頃に亡くなった相棒だった。強く強く抱きしめて少しの間だけ涙を流した。泣きやんだ事をしかと確かめるとクロは夜の空へ連れ出してくれた。
外国の洒落たストリートに夜景が輝く都会の穴場。そしてクロと無数の星が散らばる夜空を家の庭で眺めた。いつぶりか思い出せないほどの温もりがまた涙腺を緩ませる。
「このままクロんとこ、連れてってよ」
目頭が熱くなったのが自分でもわかった。時間だ、とでも言うように立ち上がってペロリとひとつ、頬を伝った涙を舐める。クロはそのまま闇夜に姿を消した。
目を覚ますと、いつもの見慣れた天井がぼやけて映った。
「はは………また死ねなかったのか」
一度だけ振り返ったクロは確かに
『まだこちらに来てはいけない』
と語りかけていた。
「もう疲れたんだってば」
呟いた声はまた音にかき消されて、君と飛び立てなかった自分が悔しくてたまらなかった。
題材「君と飛び立つ」
缶チューハイを3本。ストロング缶を1本。なんだか今日はやけに酔いが回るのが早かったらしい。
ふと、少し人肌恋しくなって衝動的に彼に連絡してみようと思った。
『暇してる?』
すぐに打って送信。ネットで知り合った彼は飲み友達で多分それなりに長い付き合いになる。
『暇だよ。どした』
『今飲んでる。付き合って』
それだけ送れば彼から電話がくる。
「もしもし。お疲れ様。俺明日久々の休みだから遅くまでは勘弁してよ」
「アタシ、あともう一本飲んだら終わるから」
「そう言っていつも何回戦してんだよ。いい加減その口癖直せよ笑」
「うるさいなー、いいから付き合え」
深夜零時。私たちは完璧に出来上がっていた。
「サケちゃんさ、彼氏とかいるの?」
「誰がサケちゃんだ!かれしぃ?…知ってどーすんのよぉ」
「良いじゃん、可愛い。俺がそう呼びたいの。気になるじゃん、サケちゃん可愛いからさ」
「ふざけん…」
「うわー、叫ばないで。鼓膜破れちゃう」
「鼓膜でもなんでも破ってやる…なんなのよ、彼氏いる?とか可愛いとか。こんな酒カスじゃなくて好きな子口説いてきなさいよ」
「だから口説いてんだけど」
「そうやってまた嘘つく。嘘はドロボーの始まりなんだよーばぁかばぁか」
「嘘じゃないし、サケちゃんよりバカじゃない」
「なんでそう言い切れるのよ、私はアンタより頭良いのに」
「サケちゃんさ、俺が酔ってるって思ってるでしょ。俺ノンアルだからずっとシラフだよ」
「しんじない!だって…だって」
「どうすれば信じてくれるの?教えてよ、サケちゃん」
「…今から会いに来て直接言って。じゃないと信じられない。前に1回だけ私を送ってくれたでしょ」
「うん、場所はわかってる。ちゃんと起きてろよ」
その後、約束通り彼は私の家に来てくれた。直接告白もしてくれた。そして…そのあとは皆さんのご想像にお任せします。けど、あの時のこと、私はきっと忘れない。忘れたくない。
題材「きっと忘れない」
扉の閉まる音がして俺は目を覚ました。寝ぼけ眼を擦って覗いた時計は深夜2時過ぎを指していた。
「おかえり、母さん」
若々しく着飾って男ウケの良いメイクを施していて、今日もいつものように強く甘い香りを纏っていた。
「あら、起こしちゃった、ごめんね。寝てて良いわよ」
「ううん、大丈夫。母さん、ご飯は?」
「あー…適当に作るから気にしないで」
「いや、俺まだ夏休みだから、俺が作るよ。母さんはゆっくり風呂入ってきなよ」
「そう。助かるわ、じゃ、お言葉に甘えて」
母さんは夜の街で働いていて深夜に帰ってくるのが当たり前だった。男がいない今日みたいなのは珍しくて、そういう時だけは起きて母さんを出迎えた。
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いつの間にか俺は眠りについていて、目を覚ましたのは9時過ぎだった。起きて部屋を出るといつもは寝ているはずの母さんが起きていた。
「おはよ、母さん」
「おはよう。あ、サラダあるから食べなさい。食器今洗っちゃうから」
サラダとはいえ、母さんが作ってくれるのは小さい頃以来で少しだけ胸を踊らせていた。
「今日は朝から起きてんだ」
「そうなのよね。たまには規則正しい生活しなきゃ」
いつもより母さんは上機嫌で嬉しそうだ。久々にゆっくりできるなら母さんとどこかに出かけようか。それとも映画でも借りてきて家で観ようか。なんてつい俺まで浮かれて考えた。
目の前にある色彩豊かなサラダ。ちぎられたレタスにフォークを刺して一口食べる。野菜のみずみずしさなんて感じられない程、その小さな一欠片に強く甘い香水の匂いが染みついていた。
「母さん、このサラ…」
「あぁ、ドレッシング?味付け薄かった?」
「ううん、なんでもない。それより母さん、香水変えた?」
「わかる?そうなのよ、今日は高橋さんとデートなのよ。私も張り切っちゃうわ」
「そう…なんだ」
「あ、いけない。もう時間だからあとは頼むわよ」
「気を付けて行ってきてね」
バタン、とドアの閉まる音がして、また家に1人。取り残されてしまった。残っているサラダを一口、また一口と放り込んでいくうちに少しだけ手が止まった。
泣いてる?君はそう思ったのか。
そうだね、確かに母さんは俺の名前を呼んでくれない。本気で愛した父さんに逃げられたんだから俺が憎くてしょうがないのもわかってる。何度も男を連れてきて何度も傷つけられて、上手くいかないのは俺のせいだって言いたくなるのもわかるんだ。女手一つで俺を育てたっていう肩書きが欲しかったんだろうなってだいたい見当もついてる。母さんはずっと、僕を見てくれないんだ。
うん、でも泣いてないよ。いつか遠い昔に、俺がもっと小さい頃に母さんは言ってくれた。
「アンタは強いよ。私に似て芯を持ってるからね。だからメソメソしてたらダメよ。アンタには父さんと違ってちゃんとした王子様になって欲しいからね」
もう母さんが俺を見てくれなくてもいい。俺が傷ついた母さんの王子様になってあげるから。そう決めたから。
題材「なぜ泣くの?と聞かれたから」
靴を履いてたり裸足だったり。廊下だったり砂浜だったり。状況や場所によって音は異なる。それでも聞こえるモンは聞こえる。
人間の脳は単純でバカだ。すぐに近づいてくる音が誰なのかを分析し始める。だから残されたほんの十数秒を聞き耳立てて無駄に過ごしてる。
くだらね。強がってそんな言葉を吐き捨ててるけど自分だってあの人が来るのを待ってる。
バカでいいって開き直ってももう遅いか。アンタにはもう捨てられた身なんだから。
題材「足音」