椋 ーmukuー

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扉の閉まる音がして俺は目を覚ました。寝ぼけ眼を擦って覗いた時計は深夜2時過ぎを指していた。

「おかえり、母さん」

若々しく着飾って男ウケの良いメイクを施していて、今日もいつものように強く甘い香りを纏っていた。

「あら、起こしちゃった、ごめんね。寝てて良いわよ」

「ううん、大丈夫。母さん、ご飯は?」

「あー…適当に作るから気にしないで」

「いや、俺まだ夏休みだから、俺が作るよ。母さんはゆっくり風呂入ってきなよ」

「そう。助かるわ、じゃ、お言葉に甘えて」

母さんは夜の街で働いていて深夜に帰ってくるのが当たり前だった。男がいない今日みたいなのは珍しくて、そういう時だけは起きて母さんを出迎えた。

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いつの間にか俺は眠りについていて、目を覚ましたのは9時過ぎだった。起きて部屋を出るといつもは寝ているはずの母さんが起きていた。

「おはよ、母さん」

「おはよう。あ、サラダあるから食べなさい。食器今洗っちゃうから」

サラダとはいえ、母さんが作ってくれるのは小さい頃以来で少しだけ胸を踊らせていた。

「今日は朝から起きてんだ」

「そうなのよね。たまには規則正しい生活しなきゃ」

いつもより母さんは上機嫌で嬉しそうだ。久々にゆっくりできるなら母さんとどこかに出かけようか。それとも映画でも借りてきて家で観ようか。なんてつい俺まで浮かれて考えた。
目の前にある色彩豊かなサラダ。ちぎられたレタスにフォークを刺して一口食べる。野菜のみずみずしさなんて感じられない程、その小さな一欠片に強く甘い香水の匂いが染みついていた。

「母さん、このサラ…」

「あぁ、ドレッシング?味付け薄かった?」

「ううん、なんでもない。それより母さん、香水変えた?」

「わかる?そうなのよ、今日は高橋さんとデートなのよ。私も張り切っちゃうわ」

「そう…なんだ」

「あ、いけない。もう時間だからあとは頼むわよ」

「気を付けて行ってきてね」

バタン、とドアの閉まる音がして、また家に1人。取り残されてしまった。残っているサラダを一口、また一口と放り込んでいくうちに少しだけ手が止まった。

泣いてる?君はそう思ったのか。
そうだね、確かに母さんは俺の名前を呼んでくれない。本気で愛した父さんに逃げられたんだから俺が憎くてしょうがないのもわかってる。何度も男を連れてきて何度も傷つけられて、上手くいかないのは俺のせいだって言いたくなるのもわかるんだ。女手一つで俺を育てたっていう肩書きが欲しかったんだろうなってだいたい見当もついてる。母さんはずっと、僕を見てくれないんだ。

うん、でも泣いてないよ。いつか遠い昔に、俺がもっと小さい頃に母さんは言ってくれた。

「アンタは強いよ。私に似て芯を持ってるからね。だからメソメソしてたらダメよ。アンタには父さんと違ってちゃんとした王子様になって欲しいからね」

もう母さんが俺を見てくれなくてもいい。俺が傷ついた母さんの王子様になってあげるから。そう決めたから。

題材「なぜ泣くの?と聞かれたから」

8/20/2025, 4:52:07 AM