椋 ーmukuー

Open App
5/5/2026, 4:32:07 AM

目を閉じる。耳を澄ます。喧騒の中に自分がいる事を再確認する。
都会に来るとやはり胸が高鳴る。密集した住宅街と田舎じゃ考えられない速度で横切る列車。空気こそ美味しくないものの、この生ぬるい気体で酔えるほど、私は気に入っていたのかもしれない。

比べるものじゃないけれど、家庭環境が良くない自分は早く家を出たいと思っている。できるなら溢れんばかりの人混みに紛れて誰にも気付かれない所まで逃げたいと。兄さんも姉さんも考える事は同じだった。だから今、こうして姉さんは都会へ旅立つ。兄さんはとっくの昔に家を出た。残っているのは自分だけ。唯一本音をぶつけ合える兄弟という存在が集まる事も滅多になく、姉さんの引越しを口実に久々に待ち合わせをした。

自分達を繋いでいるのは血だけじゃない。目に見えない何かが存在していて、待ちわびた再会を心から喜んだ。話に花を咲かせ、夜を更かした。

日が昇り、朝が来たことを悟った。また元の日常に戻る。それだけのこと。互いが互いに健闘を祈り、兄さんと姉さんは自由な日々に帰って行った。

目を閉じる。耳を澄ます。再び目を開けたそこに憧れた土地は無く、聞こえてくるのは暴言と悪口と批判だけだった。

解放されるまで、残り2年の砂時計。

題材「耳を澄ます」

4/20/2026, 11:12:32 PM

雨が降って、花が散って、踏み潰されて、風によって地面から運ばれた香り。その飾らないサクラの匂いにようやく春が来たのだと実感した。

何もいらないけれど、早くこんな日々から開放されたい。

平凡な日に平凡な愚痴を1つ零す。

題材「何もいらない」

4/17/2026, 11:46:37 PM

何年前かの今頃はもう少し咲いてたかも。随分前にも感じられる微かな記憶を頼りに歩く桜道。

おはよ。と短く一言挨拶してから5cmほど空けて隣に座る彼。そのわずかな距離がもどかしくて私は更に端に寄る。特別話すような事もないしいつものように20分ほど電車に揺られた。

「俺さ、新しい通学路開拓したんだー」

自転車登校のくせに私の隣で自転車を押す彼は優しいのかなんなのか。

「あっそ、チャリ通なんだから先に行ってていーよ」

「うーわ、つれねー。いーから一緒に行くぞ」

電車とは違って静まり返った早朝の街は私たちの声がよく響く。始発だと登校する学生も多くはない。他愛もない話であーでもないこーでもないと言い合っては近づいて離れてを繰り返した。
学生ながら曖昧に濁した私たちの関係。はっきり言葉にしたことはないけれど、友達の域を少しだけ行ったり来たりしている。

「ここ、左だから」

「あーはいはい。あ、見て見て、鳥さん鳥さん!」

「川で休む鳥に興奮するなんてガキかよ笑」

「成人してないから私たちはガキだよ、バーカ」

どついてやったはいいけれど、その反動か、また少しだけ離れて歩いた。
坂道に差し掛かると、少し奥に踏切があって、まるでジブリの世界に迷い込んだようなレトロだけど心躍るような雰囲気が漂っていた。満開を迎え、少しずつ散り始めた桜が目に入ると私は思わず走り出した。

「おい、転ぶなよ!」

そんな声も聞こえまいと遮断機の手前まで一気に走った。息が切れても楽しくて私はつい笑みを零した。

「こっち見て」

そう言われて振り返ると、彼は確かに私を捉えてシャッターを切った。満足気にスマホを眺めて私を愛おしそうに見つめる瞳に少しだけ目を逸らしてしまった。

「あのさ、俺たち…」

「そういえば!彼女とデートでも行って来なよ?アンタの可愛い彼女は寂しそうにしてるんだからさー」

彼は少しだけ困ったような顔をしてポケットにスマホをしまった。彼の中の特別でありたかったから写真を消してとは言えなかった。それでも私たちはこの一線を越えてはいけない関係だった。

何年前かに親友の彼氏と歩いた坂道。先日の雨のせいか、あの頃よりは花も落ち、真っ黒な地面からコケの匂いが上ってくる。消せなかった思い出と彼の連絡先。越えられなかったあの境界線も花のように散ってしまえば、なんて今でもなおたまに思い出すのである。

題材「桜散る」

3/20/2026, 8:51:29 PM

夢見が良い訳でも悪い訳でもなかった。ただ、なんとなく予感だけがあったんだよ、自分の中に。

死にたいとか消えたいとか自分で思うことはあっても、生きる事を本当に諦める人間なんて存在しないと思っていた。そういう一時的な意思とは裏腹に身体は生きたいと抗うものだから。
ある日、その生きる事を諦めた人間が、私の前に現れた。それが、父方のじいちゃんだった。じいちゃんは一緒に暮らしていたけれど、年明けに転んで入院する事になった。

「家さ帰りてぇ。美味いメシが食いてぇ」

って、じいちゃんが言っていた。骨折した骨が治ってこれからリハビリを重ねて退院して、また日常が戻ってくる。考えるのも理想を並べるのも簡単だった。でも現実はうまくはいかない。じいちゃんはリハビリをするどころか刺している点滴すらも抜いて家へ帰る家へ帰ると別人のように暴れ出したらしかった。

「看護師さんの言うことちゃんと聞いでな、リハビリして家さ戻ろうなぁ」

ばあちゃんはそんなじいちゃんも見捨てずに必死に声をかけていた。毎日毎日病院へ通ってじいちゃんが息子の名前、孫の名前を忘れても、ばあちゃんに強く怒ってもずっとずっと全部受け止めていた。いつかまた家に帰ってくる日を願って。

深夜2:00。春も近づいてきているというのに異常な寒さでなんとなく目を覚ました。珍しく雪がしんしんと降り積もっている。なんとなくだった嫌な予感が的中して、母がじいちゃんが亡くなった事を伝えに来た。

3時間半睡眠はさすがに体にこたえた。頭だって働きやしない。それでも居間を片付けて今出来ることを淡々とこなした。しばらくすると目を腫らした父やばあちゃんがやって来て、それからまもなくじいちゃんが帰ってきた。ひと段落つくと、親族だけの空間で線香をあげて挨拶をした。

「じい、おめが飲みてがった酒っこでも飲ませるがぁ…おめが食いてがった刺身も切ってやるねぇ」

父はそう言って刺身を切った後、じいちゃんの口に脱脂綿をつめてじいちゃんが大好きだった缶ビールと日本酒をちびりちびり飲ませてやった。

「やっと家さ、帰って来れだのぉ。良がった良がった…おかえりんしゃい、じい」

ばあちゃんがどこか力なく笑った。
じいちゃんの顔を見て、みんなが思い出話を語って、笑って、泣いて、泣きじゃくった。

自分は、世話になったじいちゃんの顔を見る勇気がなかった。まだまだ未熟で子どもな自分は死を受け入れることが出来なかった。顔を見ず、涙せず。人として薄情で逃げる事しかできないのだと自嘲した。これで最後なのに、どうしてもどうしても、自分は弱虫で何も出来なかった。

ばあちゃんが自分と姉を呼び止めて、昔の話と入院中の話をしてくれた。お茶を淹れるのが上手くて千利休と呼ばれていたこと、伊勢エビが食べたいって言っていたこと。病室でじいちゃんが深夜に起きて座って窓の外を眺めていたこと、孫である自分たちの名前を何度も呼んでいたこと、実は1度だけ意識不明になっていたこと。

「じいはなぁ、今までも沢山死にかげだんだぁ。んだども、神様がじいを救ってけだねぇ。今回も神様が助けでけると思ってだども、じいももう十分だって思ったんだべのぉ」

ばあちゃんがしみじみと語った。姉は泣き出し、私は黙って話を聞いていた。何も出来ない自分にどうしようもなく腹が立って、それなのにいっちょまえに心に穴が空いた感覚を覚えた。確かにあった存在がじわじわと消えていくような気がした。

夢ならば早く覚めてくれ。冗談にしては度が過ぎてる。じいちゃんはきっとこれから回復していくはずなんだ。返してくれ、じいちゃんを返してくれ、神様。頑固で我儘で意地っ張りだったけどそれでもみんなじいちゃんの事が好きだった、大好きだった。何かの間違いだから…じいちゃんはまだ生きてるから…頼むから嘘だって言ってくれ。

熱いコーヒーをひと口啜った。心なしか味はしなかったけれど、込み上げた何かが一筋、頬を伝ってカップへ溶けていった。

題材「夢が覚める前に」

3/10/2026, 8:47:06 AM

悔いても悔いても戻ることの無い日。
時が止まれと言わんばかりに愛おしく思えた日。
希望も意味も消えたと思った日。

今思えばやっぱり色々あったんだと思う。どんな日でもどんな時間だって1秒も無駄じゃなかった。価値が確かにそこにあって、今生きているこの瞬間でさえ愛おしい。

後悔したって嘆いたっていい。
自分の人生なんだから、思いっきり好きに生きてみればいいんじゃない?

題材「過ぎ去った日々」

Next