大好きな君へ告白したいと思ったことは一度も無かった。でも、僕は君のことがどうしようもなく好きだった。中学の頃はおどおどしてた癖に、高校では明るく気丈に振る舞おうと張り切っていたところとか、ふとした拍子に空を見上げて想い嘆いている様子だとか、そんな些細な所作一つ一つが可愛らしくて好きだった。幼馴染なのに、僕に対してどこか素っ気なくあしらう感じに話してくれる君が好きだったし、僕が告白を匂わせてみたときに目に見えるほどに動揺して、顔を赤らめてくれる君も好きだった。そう、僕は君のことが好きだった。
……だから、泣かないでくれよ、なあ。まさか僕の葬式でこんなに号泣してくれる程に僕を想ってくれていたなんて思いもしなかった。いや、君も僕のことを好いてくれていたことには薄々勘づいていた。だけど、君は令嬢で家に束縛されていたし、周囲からの期待も大きかった。それに引き換え僕の家は貧乏極まりないし、僕自身も特技に秀でていた訳ではなかった。どうしようもなかったなんて言い方は言い訳にしかならないけど、こんな僕が君に告白するなんて身の程知らずだとしか思えなくてしょうがなくって。ずっと告白できなかったんだ。
僕は絶えず棺桶の上で君へ謝罪していたが、君は決してこちらを向いてくれはしない。こんなことをしたって、僕が目の前の君から目を逸らしたことの贖罪にはならないことを僕は知っている。それどころか、余計に無惨な結末が露呈するだけだ。それでも、僕は悔やみに悔やみきれないでいた。
ひとしきり泣いた後、君がうつむきながら歩いて行くのを見ていながら、僕は掛けてあげられる言葉を何も持ち合わせていなかった。
雛祭りの時期になると必ずと云ってもいい程、思い出すことがある。私は熱いお茶を飲みながら、そんな他愛もない昔の出来事を回想していた。
それはまだ娘が三歳だった頃。例年通り雛人形を茶の間に飾っていた時の事だった。私がせっせと掃除やら洗濯だったりをしている間、普段なら娘は何かしらで暇を潰そうとするのだけれど、何故かその日は人形の前で何もせずにぺたんと座っていた。何か手にしている訳でもなく、娘はそれらをただじっと眺めているだけ。その上、一時間近くもそこで座っているものだから、流石に気になって喋りかけてみることにした。
「ねえ、何してるの?」
すると、娘はぽかんとした顔で、さぞかし不思議そうに答えてくれた。
「この子とお話してるの!」
最初はなんだ、単なる人形遊びかと安心したが、よくよく考えれば疑問に思うこともあった。喋り声が一切聴こえなかったということや、娘は人形遊びをあまり好んでいなかったこと。挙げればキリはなかった。だけど、その瞬間に限って云えば、まあそういうこともあるのだろうと納得しかけていて、別に気に留める程でもないなとも思っていた。その次の言葉で私がびっくりさせられるまでは。
「『あなたのお姉さん』だって言ってるよ!」
そう爛漫に語り出した娘は髪の長い雛人形の方ばかり見ていた。ありきたりな話だ。娘は私が流産したことなんて知るはずもないのに、本来そこにいるべきはずの姉の存在を知っていた。たったそれだけの話だ。だが、妙に私の頭にこびりついて離れなかった。
あれから二十数年。もう娘も大きくなって孫を連れてくるようになった。すっかり様子の変わってしまった居間の端っこで、娘に似たその可愛い女の子が、あの時と同じようにぼーっと雛人形を眺めているのが、私には何処か可笑しくて堪らなかった。もしかしたら、顔も知らないあの娘は今でも私達を守っているのかもしれない。そんな風に思える今日一日だった。
たった1つの希望が叶うのならば、もう一度彼女に会って話がしたかった。これは僕が大学生になった今でも心に抱える願望だ。そう、僕は心の中に止め処なく溢れる恋情を抑えつけながら、未だ未練がましく理想郷を描いていた。もう過去は戻らないことを知っているにも関わらず。
額縁に飾られた女神のように美しく、バス停の屋根の下で常に可憐な様子で立っていた彼女は、高校二年生の夏の炎天下の最中に消え去った。紛れもないバス運転手の過労による居眠り運転の手によって。本当ならあの日も僕は彼女と一緒に部活へ向かう筈だったんだ。その筈だったのに、運の悪いことに僕はたまたま風邪を引いてしまい、彼女一人がそこへ向かってしまった。そこで何が起きていたかなんて僕は知る由もなくて、大切な人を失くしてしまったことに気付いたのは翌朝のことだった。僕は決して忘れられなかった、いや忘れたくなかった。こうやって五年たった今も、新しく彼女が出来た今も絶対に忘れられずにいる。
だから今日も今日とて、僕はいつものように一輪の花を電柱の脇に供え、想いを馳せていた。そして今丁度、もう十分だと感じた僕は帰るつもりだった。僕が電柱に背を向け、いよいよ一歩を踏み出したその時だ。ひゅいと風が僕を吹き抜けていく。特段珍しくもない普通の風。でも、どうしてか。少し気がかりだった。そこでふと後ろを振り返ると大変驚いた。一輪しか置いてなかったはずの花が何束にもなって、色鮮やかに輝いていたのだ。
意気地無しの僕はこんな光景を見ても、これが真に何を意味するのかは正直確信が持てない。でも、そろそろ気持ちを切り替えるべきなのだということは直感的に察した。
「……ありがと」
そう独り言ちた僕は静かに後を去って行く。閑静な住宅街の中、誰かがその電柱横で微笑んでいるような気がした。
欲望の化身と出逢うのは此れが初めてのことであった。昼間なのに暗い自室で、私の袴姿をじろじろと嘗め尽くすかのように眺めるその巨大な目玉と黒く濁った巨体は、ルドンの作品を彷彿とさせる不気味さを有している。しかも、そんなのがベッドからにょきにょきと生えてくるもんだから、悍ましいことこの上ない。そんな恐ろしい風貌をした悪魔は私に口を利く訳でもなく、ただじっと私を見つめていた。そこで私は、嗚呼こいつも同類なのだと気づき、それと同時にこいつは私の渇望の権化なのかと悟った。踏台の上で首にロープを引っ掛けようとしている私にとって、この光景は非常に心揺さぶれるものだったのだろう。何故か突然気持ちは醒めていた。私にとって、この世を去りたい理由なんていくらでもある。だが、別にそれをするのは今じゃなくても良いのかもしれない。そういう風に思考転換することが幸いにも可能だったのだ。何処か異常化していた私が正気を取り戻した時には、既に私は紐を切り捨てていて、辺り一面にはいつも通りの自室が広がっていた。
そして、そこには余りある静寂しか残っていなかった。
列車に乗って何処かへ旅行しに行くなんて一体何時ぶりのことであろうか。ぽつりぽつりと点を打つようにしか乗客が座っていない列車に身を委ねて、ゆったりと外の景色を――この地平線にまで広がる美しい海を――眺められるなんて、死んでも良いぐらいの経験である。缶珈琲を片手に少し感傷に浸っては、外を眺める。深い事は考えずに、眼の前の景色とほろ苦い香りを嗜む。それが何よりも至福の時間なのである。また、此れだけでも十二分に満足できるというのに、時間帯が上手く噛み合っていたお陰か、真赤に染まった夕日が沈みゆく絶景さえも見ることが出来ている。昼には誰も寄せ付けないように燦々と大地を照らしている太陽も、時が経てば栄光は朽ちてしまうものなのだろうか。こうやってありありとその姿を直視できてしまっているのは何とも感慨深いものがある。そして、その姿はどうしても年老いた自分とも照らし合わせてしまうのである。若い頃はあまり自由に使える金も時間も無いものの、旅行だけは度々決行していた。しかし、三十を越えた辺りからは世帯と世間を気にしてばかりで、思うように旅は出来ていなかったようにも感じる。
「結局生きてる間は無理だったか」
想えば短い人生だった。まさか六十で癌を患い、そのままぽっくり逝くなんて思いもしなかったのだ。本当は満員電車なんかよりも寂れた列車に乗って旅をしたいと常々考えていたにも関わらず、遂には達成することができなかった。やはり、夢というものはそう簡単には叶わないものなのだろう。行動するならするとして、早くしておくべきだった。後悔先に立たずと云うが、正にその通りだなと思わされる。だが、神か仏か何の仕業かは知らないが、こうやって最期に夢を見させてくれたことには感謝を表したいものだ。終点まで、後どれぐらいだろうか。珈琲を最後まで飲めると良いのだが。