名無

Open App

たった1つの希望が叶うのならば、もう一度彼女に会って話がしたかった。これは僕が大学生になった今でも心に抱える願望だ。そう、僕は心の中に止め処なく溢れる恋情を抑えつけながら、未だ未練がましく理想郷を描いていた。もう過去は戻らないことを知っているにも関わらず。
額縁に飾られた女神のように美しく、バス停の屋根の下で常に可憐な様子で立っていた彼女は、高校二年生の夏の炎天下の最中に消え去った。紛れもないバス運転手の過労による居眠り運転の手によって。本当ならあの日も僕は彼女と一緒に部活へ向かう筈だったんだ。その筈だったのに、運の悪いことに僕はたまたま風邪を引いてしまい、彼女一人がそこへ向かってしまった。そこで何が起きていたかなんて僕は知る由もなくて、大切な人を失くしてしまったことに気付いたのは翌朝のことだった。僕は決して忘れられなかった、いや忘れたくなかった。こうやって五年たった今も、新しく彼女が出来た今も絶対に忘れられずにいる。
だから今日も今日とて、僕はいつものように一輪の花を電柱の脇に供え、想いを馳せていた。そして今丁度、もう十分だと感じた僕は帰るつもりだった。僕が電柱に背を向け、いよいよ一歩を踏み出したその時だ。ひゅいと風が僕を吹き抜けていく。特段珍しくもない普通の風。でも、どうしてか。少し気がかりだった。そこでふと後ろを振り返ると大変驚いた。一輪しか置いてなかったはずの花が何束にもなって、色鮮やかに輝いていたのだ。
意気地無しの僕はこんな光景を見ても、これが真に何を意味するのかは正直確信が持てない。でも、そろそろ気持ちを切り替えるべきなのだということは直感的に察した。
「……ありがと」
そう独り言ちた僕は静かに後を去って行く。閑静な住宅街の中、誰かがその電柱横で微笑んでいるような気がした。

3/2/2024, 7:57:05 PM