名無

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列車に乗って何処かへ旅行しに行くなんて一体何時ぶりのことであろうか。ぽつりぽつりと点を打つようにしか乗客が座っていない列車に身を委ねて、ゆったりと外の景色を――この地平線にまで広がる美しい海を――眺められるなんて、死んでも良いぐらいの経験である。缶珈琲を片手に少し感傷に浸っては、外を眺める。深い事は考えずに、眼の前の景色とほろ苦い香りを嗜む。それが何よりも至福の時間なのである。また、此れだけでも十二分に満足できるというのに、時間帯が上手く噛み合っていたお陰か、真赤に染まった夕日が沈みゆく絶景さえも見ることが出来ている。昼には誰も寄せ付けないように燦々と大地を照らしている太陽も、時が経てば栄光は朽ちてしまうものなのだろうか。こうやってありありとその姿を直視できてしまっているのは何とも感慨深いものがある。そして、その姿はどうしても年老いた自分とも照らし合わせてしまうのである。若い頃はあまり自由に使える金も時間も無いものの、旅行だけは度々決行していた。しかし、三十を越えた辺りからは世帯と世間を気にしてばかりで、思うように旅は出来ていなかったようにも感じる。
「結局生きてる間は無理だったか」
想えば短い人生だった。まさか六十で癌を患い、そのままぽっくり逝くなんて思いもしなかったのだ。本当は満員電車なんかよりも寂れた列車に乗って旅をしたいと常々考えていたにも関わらず、遂には達成することができなかった。やはり、夢というものはそう簡単には叶わないものなのだろう。行動するならするとして、早くしておくべきだった。後悔先に立たずと云うが、正にその通りだなと思わされる。だが、神か仏か何の仕業かは知らないが、こうやって最期に夢を見させてくれたことには感謝を表したいものだ。終点まで、後どれぐらいだろうか。珈琲を最後まで飲めると良いのだが。

2/29/2024, 2:55:34 PM