"春爛漫"
公園の前を通るルートで散歩していると、公園に植えられている桜の木の枝に沢山の桜が咲いていた。
近くの花壇に植えられている花達はまだ咲いていないが、蕾が膨らんでいるのを見るに、花開くのはもうすぐだろう。
あと数日すれば、この公園は花でいっぱいになる。
毎年春になると、この公園に沢山の花が咲き乱れる。その景色と空気が好き。
春の風に揺れる花々も、春の風に運ばれてくる花の香りも好き。
ハナにも、その景色を見せてあげたい。この公園に咲く花の香りを堪能させたい。
だが、猫に近付けてはいけない花があるらしく、何が駄目なのか調べてからでないと、ハナを連れてこの道を通る事はできない。
帰ったら、しっかり調べよう。
"誰よりも、ずっと"
早朝の散歩。今日は一人。
手術後という事で、興奮して傷口が開いたりしてはいけないと思い、二、三日は一人で散歩する事にした。
「……」
静かだ。
早朝の住宅街が静かなのは当たり前だ。聞こえてくるのは木の葉が擦れる音と雀のさえずりくらい。ハナと散歩し始める前はこれが当たり前だった。
ハナがいないだけでこんなにも静かなのかと、少し寂しく思いながら、ちょうど折り返しの所に来た。
戻るか、と身を翻す。
「大我」
「お」
向こうから、スーツ姿の青年──飛彩が片手に鞄を持ちながら歩いてきた。「おはよう」「はよ」と挨拶を交わして、横並びになって歩き出す。
「一人か」
「念の為二、三日安静」
「そうか」
主語が無くとも成り立つ会話を交わしながら、一人ともすれ違わない住宅街を歩いていく。
「なんでここに来てんだ?」
「ハナの様子を見に行くように頼まれた」
誰が頼んだのか、容易に想像がついて「あぁ……」と声を漏らす。
時間にすれば一分程だろうか、お互い無言で歩く。
聞こえてくるのは、お互いの靴音と、木の葉が擦れる音、雀の鳴き声。
何の会話もしていないのに、ただ横並びで歩いているだけで心が満たされていく。
ふと飛彩の顔を見る。少し顔を顰めて口を開き、静寂を切った。
「徹夜してねぇだろうな?」
驚いた顔で「は?」と小さく漏らしながらこちらを向いた。
「惚けんじゃねぇ」
そう言うと目の下を指さして、更に言葉を続ける。
「隠してんだろうが、薄く塗りつぶしてるだけで隠しきれてねぇぞ」
「隠せていないのか?」
「よく見たら薄ーく隈が見える」
すると懐から、小さなスティック型の物を取り出し、差し出してきた。
「塗ってくれないか。自分ではよく分からない」
そう言われて差し出された物を手に取る。渡されたのは化粧品で、【コンシーラー】と書かれていた。
「全く、慣れねぇもんで隠そうとすっから……」
呆れながら蓋を開けて「こっち向け」と指示すると、静かに瞼を閉じて端正な顔を間近に向けてきた。そうするように指示したが、ドキリと心臓が跳ね、身体も小さく跳ねた。
どう付けるのか分からないが、自然な感じに隠せればいいかと、点を打つように重ねて、指の腹で優しく伸ばしてなるべく自然に、違和感がないように馴染ませる。
こんくらいか、と離れてコンシーラーの蓋を閉める。
「多分上手く隠せたと思う」
ほらよ、とコンシーラーを差し出す。すると「ありがとう」と言いながら受け取り、懐に仕舞った。
「ちゃんと鏡見ながらやったか?」
煽るように言うと、「済まない」と小さく謝った。
「あれで俺を誤魔化せると思ったら大間違いだかんな。……何年傍で顔見てきたと思ってんだよ」
文句を言ってやる。後者は小声で尻すぼみになった。
すると、形の整った綺麗な唇が弧を描いた。
「そうだな。ありがとう」
またドキリと心臓が跳ねる。
医院が見えてきたので、小走りで裏口に向かい、扉の鍵をシリンダー錠に刺して回す。ガチャリ、と錠が外れる音が聞こえると、取っ手を回して扉を開く。
「おら、入るんなら早く入れ」
慌てるように早口で言う。少し声が裏返ったが気にしないフリをする。
「お邪魔します」
そう言うと近付き中に入る。入ったのを確認して扉を閉めた。
"これからも、ずっと"
居室に入ると、「ふぅ」と一息吐く。
「帰ってきましたよー」
ベッドの上に、そっとキャリーケースを置いて蓋を開ける。
「みゃあ」
ぴょこ、と顔を出して返事をした。
「お疲れ様。よく頑張ったな」
そう言っておやつを手に取って一粒差し出すと、また「みゃあ」と鳴いた。
今日はハナの避妊手術の日だった。手術予定日を決めた時にも伝えたが、開院前に病院に連れて行き、昼休憩の時迎えに行くと伝えてハナを預けた。
獣医に預けて行く時、「みゃおーん、みゃおーん」と鳴き続けてきて後ろ髪を引かれる思いだった。多分『いやー!』と人間の子どものように駄々を捏ねていたんだと思う。
だから昼休憩に入ってすぐ、早足で迎えに行った。
迎えに行くと、──獣医曰く三十分程前に麻酔から目覚めたはずなのに──キャリーケースの中で気持ち良さそうに眠っていて、拍子抜けして膝から崩れ落ちそうになった。
獣医が「こりゃ大物になりそうだ」とクスクス笑っていた。
──こんな感じの性格してる人間が周りに数人いるってのに、勘弁してくれ。似ないでくれ。
気持ち良さそうに寝続けているハナを見下ろしながら思った。
差し出したおやつを、ぱくり、と食べて美味しそうに咀嚼する。
嚥下したのを見て、二粒目を出す。
口を開いたので放り込んで、ゆっくり咀嚼。
飲み込んだのを見て、三粒目を出して、ハナの口に入れる。
手術を頑張った労いと、今日は運動はできないので、運動後にあげているのと同じ三粒。
「みゃあん」
鳴きながら首を伸ばして、俺の顔に頬擦りする。驚いて「うお」と声を漏らすと、今度は口角を舐めてきて「やめろ」とくぐもった笑いが混じった声を漏らす。
そっと引き離し、優しく頭を撫でる。
「……本当にお疲れ様」
喉を鳴らす。手を離すと身体を丸くして、また寝始めた。
「ゆっくりお眠り」
椅子の背もたれにかけていたストールをハナの身体の上にかけて、居室を出て扉を閉める。閉める直前、眠るハナに、そっと笑いかけた。
「俺も頑張らないとな」
少し伸びをして、「まずは昼飯食わなきゃ」と昼食を食べに戻った。
"沈む夕日"
買い物を終え、パンパンに膨らんだ大きなマイバッグを片手にスーパーの外へ出る。
空を見上げると、店に入る前より空の橙が色濃くなっており、日もだいぶ低い位置にあった。
──思ったより時間食ったな……。早く帰って持ち場に戻らないと。
こちらは個人病院で、院内の医師も自分一人。その為どこかで食材や日用品の買い出しをしなくてはならない。
週に一回ほどのペースで『買い出しに行きたいから二時間程受け入れ頼む』と依頼をして最寄りのスーパーへ出ている。そうしなければ日常生活を送る事さえ困難だし、周りも理解しており快く承諾してくれる。
だが、なるべく早く終えて帰る事に越したことはない。
『二時間と言わずゆっくり買い出しに行って来い』と言われているが、甘えていられない。
一人と子猫一匹暮らしの為買う量は少ない。二時間で充分。それ以上ゆっくりなどしていられない。
医院までの道を早足で歩いていく。
──早く、一分でも一秒でも早く。
"君の目を見つめると"
「大我」
名前を呼び、目を合わせ、髪を撫でるように指で梳く。
恥ずかしさからだろう。始めは強ばらせるが、数十秒ほど見つめていると、いつも強気で鋭い目が、とろり、と解ける。
そして、ゆっくり瞼を閉じる。
了承の合図だ。
一連の表情があどけなく、可愛い。
可愛さを噛み締めながら顔を近づけて、小さく薄い唇にゆっくり口付ける。
綺麗だな、と長い睫毛を見ていると、ゆっくり瞼が開かれ、また目が合う。
綺麗に澄む大きな目に、自身の目が映る。
目の奥は何かを欲している。
顔を離して親指で柔らかな唇を、ふにふに、と触って囁くように優しく尋ねる。
「行くか?」
「……ん」
何処か、など聞かずに頷く。
ほんのり赤く色付く頬が、白い肌に良く映える。声も、少し熱を帯びた声色になっている。
本当に可愛い。
キスの度に、この幼さに自身より五つ歳上だという事を忘れてしまう。
緩慢な動きで身を翻すと、袖口を申し訳程度に摘んできた。
今回も我慢できるのか否か、いつも自身の理性との戦いだ。
「みゃあん」
いつの間にか足元に来ていた子猫──ハナがこちらを見上げて鳴いてきた。『何処に行くの?』といったところだろうか。
大我の背に腕を回し、腰を抱いて目配せをする。
済まない、またお前のご主人様を独り占めさせてもらう。
俺の意図を汲んだのか、ハナは緩慢に翻して診察室に入っていった。
「お前、猫相手に牽制すんなよ……」
恥ずかしそうに声を潜めながら指摘する。
「つい、な」
それより、と、男性にしては細すぎる上に、肌が白く時折儚げな雰囲気を纏うせいで、少しでも力を入れてしまえば簡単に折れてしまいそうな身体。腰に回している手に、そぉ、っと力を入れる。
ぴくり、と身体が小さく跳ねる。
袖口を摘んでいた手を離し、俺の腕に自分の腕を絡ませる。
ちらり、と大我の顔を見る。
同じタイミングで大我もこちらに視線を向ける。
その目は『早く行こう』と言っているように感じた。
ぐ、と自身の喉から、息を詰まらせたような小さな音が鳴る。
果たして俺は無事理性を保ち、明日に響かぬよう自身をセーブできるのか。