"星空の下で"
「みゃあ」
段々と暖かくなってきて、ハナも自由な時に院内を歩き回るようにもなってきた。
そして今夜は天気が良い。気分転換にハナを連れて夜の散歩に出た──と言っても夜はまだ少し寒いのでパーカーを羽織って中に入れて胸の位置で顔を出させている──。
「おぉ……」
空を見上げると、夜空に淡い光を纏う月が浮かび、一等星と思しき星が数個散らばっていた。その美しさに、歓喜の声を漏らす。
「みゃあ」
急にハナが身を乗り出し、パーカーの中をモゾモゾと動きだした。
「あっ、おい!……っと、と……危ねぇだろ」
腕の中から零れ落ちそうになるが、既(すんで)のところでハナの身体を捕らえて再び腕の中に収めて、パーカーのファスナーを少し上げる。
「みゃあ」
「お前なぁ……。外歩きてぇんだろうけど、出る時に『まだ寒いから駄目』っつったろ」
「みぃん」
少し語気強めに叱ると、しゅん、と顔を俯かせる。
「分かればいい」
大人しく入ってろ、と続けてお詫びの意も込めて頭を撫でる。
「もう少し歩くか」
「みゃん」
ハナの返事を聞いて、夜の住宅街を再び歩き始めた。
"それでいい"
昼過ぎ、春物の靴を買いに来た。
既に選んで会計を済ませたらしい飛彩が歩いてくる。
「まだ悩んでいるのか?」
「ん……」
正直、サイズがある物ならどれでもいい。だがこの棚にある靴全て、サイズがある。
もういっそ指差しで選ぶか。どれにしようかな神様の……。
「これはどうだ?いつも履いている物と似たデザインで良いと思うが」
真ん中の段の、俺の右側に鎮座していた靴を手に取って提案してくる。
確かに今履いている靴と似たデザインで、履きやすそうだ。それに、近くに置いてある靴達と比べて軽そうでもある。
「じゃあそれで」
しゃがんで飛彩が手に取った靴と同じ番号の、自身に合うサイズが記された箱を手に取って立ち上がる。
「……本当にそれでいいのか」
訝しげな顔を向けて聞いてきた。
「どういう意味だ」
「そのままの意味だ。貴方はこだわりとか、重要視する所とか無いのか」
「ねぇ。『これがいいな』って選んでも、サイズが無きゃ意味ねぇだろ」
「確かにそうか」
俺の言葉に頷きながら、小さく呟く。
足のサイズと身長は比例している。
身長が平均より高いので、見本としてディスプレイされている物はまず小さくて合わない。
なので、気になるデザインの物を見つけてもすぐには手に取らず、棚の下に積まれている箱から合うサイズの物を探さなければならない。
だが、平均より大きなサイズは無い場合が多く、 探す手間がとてもかかる。
だから、こだわりなど無い方がいい。
「この棚にある靴は全部サイズがある。だから迷ってたんだよ」
そこにお前が提案してきた、と続けると、少し俯かせていた顔を上げてこちらを向き、俺が手に持っている箱を一瞥する。
「なら、本当にこれでいいんだな?」
「あぁ」
お前が選んでくれた物だし、とギリギリ聞こえていないであろう声量で言うと、ここで待ってろ、とレジへ向かい会計を済ませ、靴が入った袋を片手に戻る。
「……では、帰ろう」
「だな。他にこれといった用事はねぇし」
緩慢な動きで店の外に出て、ゆっくりと街の中を歩いた。
"一つだけ"
ここ最近のハナの運動量を見るに、やはり朝昼晩のドライフードだけでは足りない。
そこで、運動の後におやつを食べさせる事にした。
この前見つけた、ドラッグストアのペットフードコーナーに置いてあった鶏ささ身を、今朝買ってきた。
一つ一つが親指の爪と同じサイズの錠剤みたいな形をしている。あげるのも保存も簡単そうだ。
早速お気に入りの猫じゃらしで遊んだ後に、袋から一粒取り出して差し出してみる。
最初は不思議がって匂いを入念に嗅いで、食べ物だと認識してようやく口を開けて食べた。
「みゃあん」
美味しそうな顔で咀嚼をすると、『もっと』と言わんばかりの声色で鳴いた。
「美味しいか」
また一粒取り出してハナの前に差し出すと、今度はすぐに食らいついた。本当に気に入ってくれたようだ。
「みゃあ、みゃあん」
「あと一つだけだぞ」
これ以上は夜ご飯食べられなくなるぞ、と言って最後の一粒を出すと、やはり美味しそうに食べて嚥下した。
先程の言葉を理解しているのか、催促はしてこない。
「お前本当賢いな」
よしよし、と頭を撫でる。
「さて、また行ってくるな」
ハナをベッドの上に乗せてストールで包むと「みゃん」と鳴いて身体を丸めた。お昼寝の体制だ。
「……行ってきます」
囁くように小声で言うと、足音を立てないように、そおっと居室を出て診察室に戻った。
"大切なもの"
当たり前なんて無い。
だから、その時の想いや言葉を忘れないように、いつでも思い出せるように。
心の宝箱に仕舞って、抱きしめて。
そして、目の前の《大切》を守りながら、今日を生きていく。
"エイプリルフール"
「自分、千年以上生きたバイクなんだよねぇ」
「………………」
十秒程の沈黙の後(のち)、大きな溜め息を吐く。
吐き切った後、今日が《あの日》である事を思い出す。
またこの日を迎えるとは。
「何そのデッカい溜め息」
「呆れてんだよ。……ったく、いい歳した大人がくだらねぇイベント事に乗っかってんじゃねぇよ。しかもガキみてぇな嘘だし」
「一言どころか二言も三言も余計。日付感覚狂ってないかな〜、って心配したのに」
「狂ってねぇよ。誰があいつの日付感覚整えてると思ってんだよ」
前を横切って背負っていた空のリュックを、部屋の中央に鎮座するテーブルに置く。
「大我来てたんだ!」
ポッピーピポパポが何処からかワープして現れた。驚いて半歩後ずさる。
「あ、ごめん……」
「別にいい」
「そういえば、ハナちゃん元気?」
と柵の傍に積んでいた物資を次々とテーブルの上に置いていく。
「あぁ。聞いてると思うけど、検査は異常無しで予定通り来週。まぁ、手術日より前に発情の兆候が出たら手術が前倒しになるし、油断できねぇけど」
ハナの近況を話しながら、リュックの中に物資を入れていく。全て入れ終わると「助かった」と言ってファスナーを閉める。
「これ、後であいつらと食え」
「お、センセーのクッキー。今回も大袋だねぇ」
「こんくらい作った方が息抜きになんだよ」
そう言うと、「そろそろ行く」とリュックを背負う。
「もう行っちゃうの?」
「予定はねぇけど、これ以上いる意味ねぇし」
「そういえば、あともうちょいでこっち来るって言ってたなぁ」
ぴたり、と思わず身体の動きを止める。どうせ嘘だろうと一瞬考えたが、傍の椅子を引いて腰を下ろし、リュックを膝の上に乗せる。
「分かりやすいねぇ」
「うるせぇ」
「ハナの検査終わるまで、どっかでデートして時間潰してたんでしょ」
ぎくり
「未だによくデートするし、やってるし」
にやにや笑い、後半ムカつく言い方でこちらを見ながら言ってきた。
「うるせぇ!」
動揺で声が裏返る。
顔も動揺で真っ赤になっているだろう。
そんな俺を見ながら、熱々だねぇ、とコーヒーを啜る。
「騒がしいぞ」
背後からの声に、ピクリ、と肩が跳ねる。
「お疲れー」
「お疲れさん」
振り返って、声がした方に顔を向ける。
「来ていたのか」
予想通りの人物が立っていた。
「あぁ、もう少ししたら帰るとこ」
そう言うと向かいに座るレーザーが小声で、本当かなぁ?、などと言ってきたので、うっせぇ、とこちらも小声で返した。
「今回もクッキーを焼いてきたのか」
テーブルの上の、クッキーが入った大きな袋を見ながら俺の隣に座る。
「お皿持ってきたよ」
そう言って皿をテーブルの中央に置くと袋を開けて、クッキーを皿の上に出した。
「おいおい、まさかもう食う気なのか?本人いる前で食うな。せめてエグゼイドが来てからにしろ」
「いいじゃん。糖分補給だよ糖分補給」
「コーヒーに砂糖ドバドバ入れてるやつが何言ってんだか。糖尿病になっても知んねぇぞ」
「ちゃんと消費してますー」
「はっ、どうだか」
すると、さく、という音が二つ聞こえた。音の在処を辿って顔を向ける。
「やっぱり大我のクッキー美味しー」
ポッピーピポパポの言葉に、ブレイブが頷く。
「あ、ずるーい」
「『ずるい』って、ガキかよ」
さっきの嘘といい、と続けると、うるさいでーす、と言いながら一枚を摘み、一口齧る。
「ん、やっぱ美味い」
「お前ら、エグゼイドの分も残しとけよ」
「バターの量を減らしたか?」
「あぁ、減らした分牛乳増やした」
「飛彩凄ーい」
「言われてみれば確かに、風味がちょっと違う」
クッキーの、さく、という音が鳴り響く室内。リュックを手に持って立ち上がる。
「流石にこれ以上はハナがギャーギャー騒ぎそうだし、そろそろ行くわ」
そう言いながらリュックを背負い、エレベーターへと歩いていく。
「クッキーあんがとさん」
「ハナちゃんによろしくね」
「また遊びに来てやってくれ。あいつ体力お化けでいつも有り余ってっから」
そう言うと、うん!、と頷いた。
「またな」
「あぁ、また」
ブレイブと言葉を交わし、エレベーターに乗り込んでボタンを操作すると扉がゆっくり閉まり、小さな稼働音と共に上昇を始める。
「……やっぱ鋭いな、あいつ」
小さく呟くと、ふわりと口角が上がるのを感じた。