"幸せに"
映画館からの帰りに、ハナを迎えに行った時に聞いてきた。
結果は異常無し、予定通り来週に行うと言われたので安堵し、帰って居室のカレンダーにボールペンで【ハナの避妊手術】と書き記した。
その下に【朝ごはんあげない】【水は朝八時半に取り上げる】と付記事項も書いた。
全身麻酔を使う手術の為、人間と同じように手術前十二時間以上──当日午前零時以降の絶食、水は当日の朝九時以降の絶飲となる。だから間違えて朝ご飯をあげてしまわないようにメモしておく。
書き終えてボールペンをペン立てに戻す。
ふと、ハナを獣医からキャリーケースごと受け取った時の事を思い出した。
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礼を言って帰ろうとした時肩を叩かれ、耳打ちで「デートどうでした?」と聞かれた。
驚いて変な声が漏れた。
計画を立てた後、獣医に検査後少し預かってもらえないか相談していたのだが、そんな事一言も言っていなかった。ただ少し預かってもらっていいか聞いただけだ。
ただ、迎えに行った時飛彩と一緒だったので変に勘ぐった可能性はある。けど、だからって『デート』はいくらなんでも飛躍しすぎだろう。
まぁ、聞かれた時の俺の反応が図星である事を語っていたので反論はできず「ま……まぁ」的なくぐもった回答をした。
これで獣医にまで関係がバレてしまった。別に隠している訳ではないが。
答えた後「お幸せに」と耳打ちされ、背を押された。
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思い出すだけでも、頬が熱を持っていくのが分かる。
あの後「何かあったのか?」と聞いてきて「なんでもねぇ」と我ながらぶっきらぼうに答えたが「そうか」と頷いて、その先は聞かれなかったが、あの時の俺は顔が赤かくなっていたと思う。
聞かれたくない事、詮索されたくない事は少し気にかけて軽く聞いて来るだけで、それ以上は聞いてこない所も好きな所。
ある程度は推測されただろうが。
「みゃあん」
いつの間にか足元に来ていたハナの鳴き声で、はたと我に返る。
「あぁ悪ぃ、今昼飯持ってくっからちょっと待ってろ」
ハナに声をかけると、その場から逃げるように早足で部屋を出た。
"何気ないふり"
非番、俺は午後休みで、この日は久しぶりに映画を観ようと計画を立てており、駅近くの映画館に来ている。
ちなみにハナは術前検査で動物病院に数時間預ける事になっていた為、検査が終わるまでの時間潰しも兼ねている。
観る映画は計画を立てている時に映画館のホームページの上映作品を見ながら、チャットで二人で決めて──飛彩はネットに疎い為──俺がネット予約した。
「開場時間まであと二十分か」
発券機から予約した二人分のチケットを発券して、チケットに記されている開場時間と、腕時計が示している時間を見比べて呟く。
「サンキュ」
差し出された一枚を受け取り、念の為自分のスマホの時計を見る。やはり二十分後に開場となっている。
「飲み物は?」
「なんでもいい」
分かった、と言ってカウンターへと向かって行った。近くの椅子に腰を下ろすと、俺の座った椅子の目の前に大きなモニターがあり、そのモニターから今後上映する作品の予告映像が流れている。
──丁度いい、これを見ながら戻ってくるのを待とう。
今はサスペンス系の作品の予告映像が流れている。ベタなストーリーだな、と見るのを止めて視線を逸らす。数秒後、音がピタリと止んだ。
──予告映像が終わったのか。次はどんなやつだ?
再びモニターに目をやると、暗闇の画面から不穏な音楽が流れてきた。
どんな作品かすぐに分かった。
それと同時に後悔した。
視線を逸らしてすぐに席を立って飛彩の元に行けば良かった。
とりあえず視覚からの情報を遮断する為に、目を固く瞑る。
恐怖を焚き付ける台詞、そこに畳み掛けるようなBGMと効果音。
聴覚からのあまりの恐怖に耳を塞いだ。
「大我?」
降ってきた俺の名を呼ぶ声に目を開いて顔を上げ、耳を塞いでいた手を離す。両手に飲み物を持った飛彩が立っていた。横目でモニターを見ると、いつの間にかあの予告映像は終わっていて、別の予告映像が流れていた。
「大丈夫か?」
「あ?何が」
「顔色が悪い」
「別に?映像の光のせいだろ」
別に、の所で声が裏返ったが気にせず言葉を続けた。
「なら良いが、無理するな」
飲み物を差し出す。飲み物を受け取ると立ち上がって「いくらだった?」と聞く。
「いや、いい。チケットを買ってくれた礼だ」
まだ時間があるから座ってろ、と俺が座ってた椅子の隣に腰を下ろした。それに倣って、先程まで座っていた椅子に再び腰を下ろす。
すると飛彩の手が伸びて、俺の背をさすってきた。
「やめろ、人見てんだろ」
「どうって事ない。他人が何か言ってきたら、俺が何とかする」
そう言って手を止めずに優しく背を撫で続ける。
その手の暖かさと優しさに、先程まで強ばっていた心が解れていく。
「……ありがと」
小さく呟くように言うと、何も言わずに頷いた。
「ポップコーンも買ってきた」
「……後で食う」
落ち着いてきたのでストローに口をつけて、貰った飲み物を吸い上げて口に含む。
中身はオレンジジュースだろうか。懐かしさを感じる爽やかな甘さが広がった。小さく喉を鳴らして飲み込む。
するとチケットに記されている作品の上映スクリーンが開場したと知らせる場内アナウンスが流れた。
「立てるか?」
「平気だっつってんだろ」
ゆっくり立ち上がり、チケットとオレンジジュースを手に、お互いの隣を歩きながら上映スクリーンへと向かった。
"ハッピーエンド"
ただのハッピーエンドなんて無い。
そんなのは、おとぎ話や童話のご都合展開からのご都合な終わり方でしか見た事ない。
しばしの別れがあって、少しのしんみりと共に終わるものと、一応終わりだがなんらかの課題が残っているものしか知らない。
"見つめられると"
二人きり、特にそういう雰囲気の時に、至近距離で見つめてくる。
それが合図のように急に目の色を変えて。
至近距離でそんな目を向けてこられると、胸の鼓動がとても煩い。
この鼓動が伝わってしまうんじゃないかと恥ずかしさに目を逸らしたくなる。
けど鼻先数センチで捕らえられては、たとえ逸らせても逃れられる訳が無い。眼力にまた引き付けられて、再び目を合わせてしまう。
嫌、という訳では無い。
向けられる目が好きで、向けてきた時に流れる沈黙の空気も好きで、その先が分かっていて満更でもないから、無理矢理振りほどく事はしない。
そして『あぁ、やっぱり好きだな』と再認識する。
"My Heart"
たまに、ハナが俺の心を代弁してるんじゃないかって思う時がある。
俺が少し不機嫌なのを隠していると、ハナが目に見えて不機嫌になる。
猫は気まぐれだし全部ではないが、そんな風に俺の心とリンクしている時が多い。
やはり音に敏感だからだろうか。
心の状態を僅かな声色の変化で感じ取っているのだろうか。
どんなに偽っても、ハナがいれば無駄に終わる。
ちょっと止めてほしい。できれば置物のようにじっとしていてほしい。