"光と闇の狭間で"
はっきりとした光と闇は稀。
殆どは霧に包まれているようにボヤけてて、色もはっきりとしていない。
けれど、ボヤけて見えるのは俺だけで、他の人にははっきり見えているのかもしれない。
その逆もあるのかもしれない。
もしそうなら、もしかしたら。
自分自身を真実から無意識に隠しているのかもしれない。
なら、ボヤけてはっきりしていないのは、防衛本能が働いているから?
真実を見てしまったら、傷付いてしまうかもしれないから?
こんな俺でも、心のどこかで『傷付きたくない』とか『知りたくない』とか思って、隠したり遠ざけたりして自分の心を守ったりするのか。
腐っても、無意識にでも《自分を守ろう》とする自分がいるのか。
"距離"
「みゃあ!」
居室の扉を開けると、ケージの中の子猫が大きく鳴いて出迎えた。
「おぉ、ただいま。悪い、腹減ったよな?今飯持ってくる」
飛彩に支えられながらケージに近付く。先程までみゃあみゃあ鳴いていたのに急に大人しくなったと思ったら、目線の先は俺ではなく俺を支えながら入ってきた飛彩だった。
──こいつ、興味津々な目で見てる。
飛彩を横目で見ると、こいつも子猫を見ていた。子猫と成人男性が見つめ合っているのは、なんだかシュールな絵面だ。
気付かれないように小さく笑いながらケージの前にしゃがみ、扉を開いて中の皿を取り出す。
「飯作りに行く」と言ってゆっくり立ち上がる。
子猫と見つめ合っていた飛彩は俺の声に我に返ったのだろう。ぱっ、とこちらに顔を向け「あ、あぁ。分かった」と言って再び俺の体に手を添える。
「あ、や…きょ、今日は猫缶にしよう。部屋に何個か買って置いてあんだ」
そう言って飛び退くように離れて戸棚を開き、子猫用の猫缶を一つ取って猫缶の封を開け中身を皿の上に乗せる。柔らかなゼリー状の固形物が、皿の上で蛍光灯の光をてらてらと反射する。
「ほーら、ご飯だぞー」
ケージの中の定位置に猫缶の中身を乗せた皿を置く。
すると子猫は「みゃあん」と一声鳴いて皿の前に行き、はぐはぐと食べ始めた。
「なんか唸りながら食べているが、大丈夫か?」
「あぁ大丈夫、平気だ。子猫にありがちな事らしい。俺も最初は驚いた」
救急に連れて行って検査を受けた後、子猫に初めてご飯をあげると「うみゃうみゃ」言いながら食べ始めて、何か病気なんじゃないかと思い慌てて電話で聞いたら、食べながら鳴くのはいわゆる《子猫のあるある》らしい。
「美味しそうに食べているな」
その言葉に子猫を見る。いつも通りの食べっぷりで、皿の中を見ると、もう半分くらい食べ切っていた。
「そんながっつくなっていつも言ってるだろ。…実は初めてやったんだが、口に合って良かった」
子猫を見やる。
本当に美味しそうに食べている。
すると急に片手で肩を、ぐいっと引き寄せられた。
「っ!?」
驚いて横を見ると、飛彩の端正な顔がすぐ近くにあった。思わず顔を逸らしてしまう。
ばくばくと、心臓がうるさい。痛い。
「みゃあ」
足元から鳴き声がした。驚いて首を動かして目線を下げると、扉を開けっ放しにしていたケージからいつの間にか出てきて、俺の足元に来ていた。
両手で抱き上げ、胸に抱くと喉を鳴らす。
「本当に貴方に懐いているな」
そう言いながら子猫に指を伸ばして頭を撫でる。子猫は嬉しそうに「うみゃあ」と小さく鳴いてみせた。
──良かった。獣医の言った通り、あんまり人見知りしないタイプみたいだ。
実は、居室の扉を開くまで少し心配だった。だから初対面の人間がいても、いつもと変わらぬ子猫の様子を見て安堵に小さく息を吐いた。
──ん?待てよ、この構図…傍から見たら、《親子》じゃ…。
"泣かないで"
「悪ぃな、こんな時間に行っちまって。しかも荷物持ちまでさせちまって……」
今日は物資を取りに行く日で、今朝『夕方頃に行く』と連絡していたが、業務を終えてそろそろ向かおうと支度を始めた時に急患の対応に追われ、着いたのは約束の五十分過ぎ。その上物資が以前より多く、手伝ってもらったが持ち帰るのに一苦労で、帰ってきて診察室に入り、時計を見たら午後八時過ぎだった。
「構わん。今日は業務が早く終わった上、今回は物が多いから俺がかってでる当然の事だ」
と、涼しい顔で言うと「ここでいいか?」とデスクの向かいにある棚の前に立って聞いてきて、俺が「あぁ」と頷くと、持っていた物資を棚の前の床にゆっくり置く。すると両手を差し出してきて『持つか?』とジェスチャーをしてきた。
「いい」
首を横に振って、自分が持っていた物資をデスクの上に置く。息を吐いて飛彩を見る。
──こいつ、俺より多く持ってたってのに、なんでこんな余裕なんだよ……。体力勝負の外科医だからか?
決して歳のせいではない──たったの五歳差だし──。
小さい頃から周りの同年代の同性より非力だった。だからあまり力を必要としない放射線科を選んだ。闇医者になってからも、肉体労働を課せられる場面が殆どなく──力仕事を求められる場面が出てくるかとずっと不安だったが──今に至っている。
だが、ここまで己の非力さに苛立ちを覚える事はなかった。学生の時に何度も受けた体力テスト以上の苛立ちだ。
「なんだ?」
「……別に?」
ふい、とそっぽを向く。本人は『分からない』と言うような顔を浮かべる。
すると廊下の方から声がした。暗い闇が降りている廊下から聞こえる声に肩を大きく跳ねらせ、飛彩の背に隠れる。
「っ……」
飛彩の肩に添えた手が震え、少しでも震えを止めようとして手に力を込める。俺の恐怖心をより強めるように声は絶えず闇の中から聞こえてくる。
「大丈夫だ。俺がいる」
柔らかな声色で俺に声をかける。すると強ばっていた心が弛緩するように少しの余裕が生まれ、手の震えも少し収まった。改めて声をよく聞く。方向は、居室がある方だ。
もう一度耳を傾けると、今度ははっきりと聞こえた。
「みゃあ、みゃあ」
声の主は子猫。大方お腹が空いたのだろう。
「……はぁーっ。…んだよ、脅せやがって……」
強ばっていた心と身体が一気に弛緩して床に座り込む。肉の薄い臀部が鈍い音を立てた。
「大丈夫か?」
急に座り込んだ俺に驚いて、しゃがんで俺と向かい合わせになり顔を覗き込む。
「あ、あぁ……」
緩慢な動きで顔を上げる。飛彩の顔がすぐ近くにあって、どきりと心臓が跳ねる。
すると、急に俺の目元に指を這わせてきた。頭に疑問符を浮かべながら無言になっていると、今度はふわりと優しく抱きしめられ、後頭部を撫でられる。
消毒液の匂いと、少しの汗の匂いが鼻腔をくすぐる。すんすんと鼻から息を吸って、匂いを嗅ぐ。
──俺の好きな匂い。
大きな手に撫でられている部分が暖かくなっていく。
──好きな、大きくて優しい手。
急な弛緩に動けなくなっていた身体が、少しずつ力を取り戻していくのを感じる。
「……動けるか?」
少し体を離して、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「もう平気だ。……ありがと」
先に立ち上がると俺に手を差し出し、その手の上に乗せると支えとなって俺が立ち上がるのを手助けする。
「早く行って飯やらなきゃな」
俺がそう言うと、声の主が子猫であるのを察して「そうだな」と短く相槌を打つ。
「歩けるか?」
「平気。……と、言いたいところだが、まともに歩けそうにねぇ。その……悪い」
「謝るな。それより、対面して大丈夫なのか?」
「あぁ、それは心配ねぇ。この前の検査で正常値だったし。まだワクチンは打ち終わってねぇけど、少人数なら会わせても平気だってよ」
「そうか。今回も健康で良かった」
俺の言葉に、柔らかく暖かな微笑みを浮かべながら安堵する。
「飯があんのは台所だけど、皿はケージの中だ」
「分かった」
そう言って「行こう」と俺に声をかける。だが「ちょっと待て」と止める。一旦飛彩から離れ、少々ふらつきながらもデスクに手をつき、卓上の引き出しに手を伸ばして中から懐中電灯を取り出しスイッチを付けると、再び飛彩の肩に手を添える。支えられながら暗い廊下を歩き居室に向かった。
いつもなら懐中電灯を両手で握りしめ震えながら進む廊下なのに、今日は全く恐怖心も不安感も無かった。
"冬のはじまり"
「う〜寒っ…」
食材の買い出しから帰って、台所の流し台に買ってきた物を置き、自身の手を見る。
指先は赤く、氷のように冷たい。指の関節も、何かに制限されているかのように軋んで動かしづらい。
暖かな息をかけながら、少しでも指がスムーズに動かせるように両手を擦り合わせる。
「う〜…」
ふと、窓の外を見る。白い綿が灰色の曇り空からフワフワと舞い降りている。
「あ…」
初雪だ。
──俺が中に入った時に降り始めたんか?
一旦台所を出て、台所よりも大きな窓がある処置室に行き、窓に近付いて外を見上げる。
雪が舞い踊りながら降ってくる様子はとても幻想的だった。
──まるで、スノードームの中にいるみたい。
ほう、と息を吐く。そして時間を忘れてしばらく、窓の外に見蕩れていた。
「……っ、駄目だ駄目だ。早く買ってきた物仕舞わなきゃ」
頭を振り、いそいそと台所に戻った。その頃にはもう指先は十分に暖まり、関節も思い通りに動かせるようになっていた。
"終わらせないで"
──〜♪…
夕食も、シャワーも済ませた後、フルートを出して軽くワンコーラスを演奏する。
フルートを持ったのは久々だ。最近はやる事が多く、フルートを吹くどころか、触る暇すらなかった。
──良かった。音、最後に吹いた時と変わってない。
息をフルートの中に送り込んで音が出るまで心配していたが、杞憂だった。相変わらず、奏でているこっちがうっとりしてしまう程綺麗で伸びやかな音色。
ここまで触らなかったのは久方ぶりだ。けれど『音色が変わったんじゃないか』という心配は、フルートをもう一度触ったあの時には無かった感情。
──こんな俺でも、まだまだ変われるんだな。
曲の最後の一音を奏でて、フルートを離す。机の上に、開きっぱなしにして置いていたケースの中からクロスを取ろうと手を伸ばした時。
「みゃあ」
ケージの中にいた子猫が、開け放っていた扉から外に出て、足に擦り寄りながら鳴いてきた。
「みゃあん!」
「うおっ」
俺の顔を見上げて一際大きな鳴き声を上げ、驚いて少し身を引く。
──『止めんな』って言ってんのか…?
不思議そうに子猫と目を合わせる。そして数秒後、口角を上げる。
──俺も、吹き足りねぇ。
再びフルートを口に当てて、吹く体勢を作る。
そして、先程とは別の曲を吹く。ワンコーラスだが、軽くではなくしっかりと。そして先程より吹きごたえがある曲を選んだ。
ちらりと横目で子猫を見ると、座ったまま動かず、大人しく聴いている。
──小さくても、綺麗な音は静かに聴きたいんだな。
猫は聴覚が人より優れているから、俺の奏でる音がどう聞こえているのか分からないが、少し嬉しい。
──なら時間が許す限り、たくさん吹いてやる。調子に乗るなんて柄にもないけど、俺だってたまにはいいだろ?
そして本当に、時間が許す限りたくさんの曲を演奏した。
時計を見て、慌ててフルートをケースに仕舞ってベッドの中に滑り込むように入ったのは、それから数時間後の話。