"泣かないで"
「悪ぃな、こんな時間に行っちまって。しかも荷物持ちまでさせちまって……」
今日は物資を取りに行く日で、今朝『夕方頃に行く』と連絡していたが、業務を終えてそろそろ向かおうと支度を始めた時に急患の対応に追われ、着いたのは約束の五十分過ぎ。その上物資が以前より多く、手伝ってもらったが持ち帰るのに一苦労で、帰ってきて診察室に入り、時計を見たら午後八時過ぎだった。
「構わん。今日は業務が早く終わった上、今回は物が多いから俺がかってでる当然の事だ」
と、涼しい顔で言うと「ここでいいか?」とデスクの向かいにある棚の前に立って聞いてきて、俺が「あぁ」と頷くと、持っていた物資を棚の前の床にゆっくり置く。すると両手を差し出してきて『持つか?』とジェスチャーをしてきた。
「いい」
首を横に振って、自分が持っていた物資をデスクの上に置く。息を吐いて飛彩を見る。
──こいつ、俺より多く持ってたってのに、なんでこんな余裕なんだよ……。体力勝負の外科医だからか?
決して歳のせいではない──たったの五歳差だし──。
小さい頃から周りの同年代の同性より非力だった。だからあまり力を必要としない放射線科を選んだ。闇医者になってからも、肉体労働を課せられる場面が殆どなく──力仕事を求められる場面が出てくるかとずっと不安だったが──今に至っている。
だが、ここまで己の非力さに苛立ちを覚える事はなかった。学生の時に何度も受けた体力テスト以上の苛立ちだ。
「なんだ?」
「……別に?」
ふい、とそっぽを向く。本人は『分からない』と言うような顔を浮かべる。
すると廊下の方から声がした。暗い闇が降りている廊下から聞こえる声に肩を大きく跳ねらせ、飛彩の背に隠れる。
「っ……」
飛彩の肩に添えた手が震え、少しでも震えを止めようとして手に力を込める。俺の恐怖心をより強めるように声は絶えず闇の中から聞こえてくる。
「大丈夫だ。俺がいる」
柔らかな声色で俺に声をかける。すると強ばっていた心が弛緩するように少しの余裕が生まれ、手の震えも少し収まった。改めて声をよく聞く。方向は、居室がある方だ。
もう一度耳を傾けると、今度ははっきりと聞こえた。
「みゃあ、みゃあ」
声の主は子猫。大方お腹が空いたのだろう。
「……はぁーっ。…んだよ、脅せやがって……」
強ばっていた心と身体が一気に弛緩して床に座り込む。肉の薄い臀部が鈍い音を立てた。
「大丈夫か?」
急に座り込んだ俺に驚いて、しゃがんで俺と向かい合わせになり顔を覗き込む。
「あ、あぁ……」
緩慢な動きで顔を上げる。飛彩の顔がすぐ近くにあって、どきりと心臓が跳ねる。
すると、急に俺の目元に指を這わせてきた。頭に疑問符を浮かべながら無言になっていると、今度はふわりと優しく抱きしめられ、後頭部を撫でられる。
消毒液の匂いと、少しの汗の匂いが鼻腔をくすぐる。すんすんと鼻から息を吸って、匂いを嗅ぐ。
──俺の好きな匂い。
大きな手に撫でられている部分が暖かくなっていく。
──好きな、大きくて優しい手。
急な弛緩に動けなくなっていた身体が、少しずつ力を取り戻していくのを感じる。
「……動けるか?」
少し体を離して、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「もう平気だ。……ありがと」
先に立ち上がると俺に手を差し出し、その手の上に乗せると支えとなって俺が立ち上がるのを手助けする。
「早く行って飯やらなきゃな」
俺がそう言うと、声の主が子猫であるのを察して「そうだな」と短く相槌を打つ。
「歩けるか?」
「平気。……と、言いたいところだが、まともに歩けそうにねぇ。その……悪い」
「謝るな。それより、対面して大丈夫なのか?」
「あぁ、それは心配ねぇ。この前の検査で正常値だったし。まだワクチンは打ち終わってねぇけど、少人数なら会わせても平気だってよ」
「そうか。今回も健康で良かった」
俺の言葉に、柔らかく暖かな微笑みを浮かべながら安堵する。
「飯があんのは台所だけど、皿はケージの中だ」
「分かった」
そう言って「行こう」と俺に声をかける。だが「ちょっと待て」と止める。一旦飛彩から離れ、少々ふらつきながらもデスクに手をつき、卓上の引き出しに手を伸ばして中から懐中電灯を取り出しスイッチを付けると、再び飛彩の肩に手を添える。支えられながら暗い廊下を歩き居室に向かった。
いつもなら懐中電灯を両手で握りしめ震えながら進む廊下なのに、今日は全く恐怖心も不安感も無かった。
11/30/2023, 1:22:27 PM