"鳥かご"
5年前、俺は医師免許を剥奪された。
言い渡された時は理不尽だと思って怒り狂い、白衣を脱ぎ捨ててCRを出て行ったが、その後俺の力不足で、俺が弱かったせいで引き起こされた悲劇だから、この処分は妥当だと思った。
だが違った。
俺は裏切られたのだ。いや、知らぬ間にアイツの鳥かごの中に囚われて、良いように動かされていた。だが思えばそれ以前から、いや、もっと前から誰かしらの鳥かごの中に囚われ動いていたのかもしれない。
もしそうなのだとしたら、鳥かごの中に居た俺は出口どころか出る方法も知らず、出ようと思う事すら思わなかった、囚われの鳥。
そんな俺は、5年前のあの時、鳥かごが崩れてその後どうすればいいのか飛び立つ事も、飛ぶ事も分からず成り行きで、自分で考え行動したと思っていた、無免許医になった事も株を始めた事も、もしかしたら成り行きだったのかもしれない。再び仮面ライダーになった事も、もしかしたら鳥かごの中にいた時の延長線上かもしれないと思ったら、俺自身が分からなくて怖くて立ち止まりたくなって、もう動けなくなってしまった。
まるで迷子だ。知らない場所で迷子になって、けれど飛び方を知らないからどうする事も出来ずにその場から1歩も動けなくなった、迷い鳥。
そんな俺にアイツらが──多少強引で荒療治だったが──協力する事、相手を信頼する事、そして飛ぶ事を教えてくれた。何でも1人で出来ると思っていた、だが実際は1人で出来る事なんて限界があって、俺1人で十分だと思っていた。それでもアイツらは俺に根気強く色々な事を教えてくれた。教えてくれたのはそれだけじゃない。辛い時は涙を流していい事、迷ったら立ち止まって深呼吸をする事、そして『俺が"今"を大切にして動いてきた事』を。たとえ完璧でなくても、未完成でも、一つ一つの大切な"今"を抱きながら自分で選んで進んできたんだと、気付かせてくれた。そう言って俺に、今度は飛び立つ事を教えてくれた。俺はまだまだ未熟で、大人になっても道に迷って動けなくなっていたけれど、もう違う。迷ってももう怖くない、迷ったら落ち着いて周りを見て動いて道標を俺から見つければいい。それに俺は"今"を大切にずっと生きてきた、何があっても"今"を抱き、"これだ"と迷う事無く突き進む。
もう恐れる事はない。最初は囚われていて、囚われていたものが無くなってどうすればいいのか分からず迷子になっていたけれど、俺はもう自分で飛んで行く事が出来る。迷ったって、深呼吸をして"今"を見て動く事が出来る。そして、周りを見れば"仲間"が、俺に色々な事を教え気付かせてくれた"先導者"がいる。
俺はもう1人じゃない。俺は"今"を抱きながら懸命に、強く気高く咲き誇るように、羽を広げる大空の鳥。
"友情"
他人が見たら、なんて言われるか。
"絆"だったり"共に戦う仲間"だったりが出てくるかもしれない。
全てを引っ括めて言われれば"友情"、かもしれない。実際俺たちそれぞれの武器は、鏡は"剣"で俺は"銃"。
近接武器と遠接武器。俺は鏡の動きやすいように射撃、鏡は俺が万全の状態で攻撃できるように切り開く、いつもの俺たちの連携だ。
初めの頃はそんな戦い方をするどころか、共に戦う事すら不可能なくらいいがみ合っていたが、今ではそんな頃があった事が嘘のよう。
鏡は、外科医なので体力はあるが無駄に体力を使うような戦い方をしていたが、連携して戦うようになってから次の攻撃が早くなっていった。
俺も、近接攻撃は出来るが極力は銃で、というより相手と十分なリーチを取って体制を整えながら戦う方が性に合うので、共闘し始めてから俺が体制を崩す度近くの敵を切ってくれるので正直助かってる。
プライベートでは、ほとんど共通点がない。共通点と言える事は"同じ大学を出ている事"と鏡はまだ現役だが"同じ病院で働いていた事"、この2つだけ。
けれど、俺の性格上鏡くらいの距離感が心地良いと思っている。まぁ最初こそ必要最低限の事しか話しかけてなかったが最近では、院内の中庭に咲いた花だったり、病院近くの公園をナワバリにしている野良猫の話だったりと、全く他愛もない話を切り出してくる事がある。初めは戸惑ったしどう返せばいいか分からなかったが、最近は実はちょっとした楽しみの1つだったりする。だから俺からも、廃病院によく来る野良猫の話だったり、うちの近くの公園に咲いた花の話だったりを"お返しに"とするようにもなったし、周りのちょっとした変化を見つける度に、その事を早く鏡に話したくなる。
だが、1つ気がかりな事がある。それは鏡をよく目で追うようになってきている事と、少し離れただけで鏡の顔が脳裏にちらつく事。これが一体何なのか"知りたい、分かりたい"と思う反面、"知りたくない、気付きたくない"とも思う。矛盾した心がずっとあってモヤモヤしてムズムズする。けれど俺はこの感情を知っている。知っているはずなんだが、この気持ちに名前を付けてしまったら、これまでのお互いがお互いの攻撃をサポートし合う関係も他愛もない事を話し合う関係も、そんな俺たちの"友情"が、壊れてしまうのではないかと思うと、胸が張り裂けそうになって苦しくて辛い。ならこのまま、この気持ちに名前を付けないまま、今までと変わらずに過ごせばいい。別に、全ての感情に"名前"を付けなくていい。そう、それが1番、俺の心を守るための、唯一の方法、だから…。
"花咲いて"
「お。」
聖都大学附属病院の中庭を歩いていると、数日前来た時はまだ蕾だった花が綺麗に咲いていた。
「無事に咲いたんだな。」
「みてぇだな。水滴が付いてっから、水を貰ったばかりか。」
そう言って花に近づき、花の前でしゃがんで咲いた花を見る。
「綺麗な青色だな。」
すぐ斜め上から声がして、驚いて声の方を向くと鏡がいつの間にか隣に立って花を見ていた。
「…あぁ。けど見た事ねぇ花だな。」
スマホを取り出し、検索バーのカメラマークをタップして目の前の、名前の知らない花を撮り画像検索する。
「なんて花だ?」
「"アガパンサス"だってよ。」
──へぇー、こんな花もあんのか。
そう思いながらスマホを仕舞い、目の前のアガパンサスを見る。紫陽花の様に幾つもの小さな花がひと塊になって、花弁はそれぞれ6枚で小さく細長く、鮮やかな青色を纏って咲き誇っていた。
「…可愛くて、綺麗だな。」
ボソリと率直な感想を述べる。小さくも綺麗に咲き誇る姿を見ていると、自然と口角が上がり顔が綻んだ。
──うちでも育てよう、必要なもんとかねぇか調べねぇと。あと帰ったらある程度耕してスペースを作らなきゃな…、種とか苗を買うのはその後だな。
などと思考の海に浸っていると、
「そろそろ昼時だぞ。」
急に声を掛けられた。驚いてスマホを再び取り出して時計を見る、正午近くを表示していた。
「あ…そうだな。昼飯どうすっかなぁ…。」
そう言いながら立ち上がり、昼食を何にするか考える。
「なら一緒にどうだ?」
「え、いいのかよ?」
「あぁ、何が食べたいかリクエストはあるか?」
「は?いや、んな事急に聞かれてもなぁ…。」
「気分でいい。和食か洋食か…、どんな物が食べたい?それに合わせよう。」
「俺に合わせんのかよ。…気分かぁ、それなら──」
2人並んで本日の昼食について話しながら花壇から離れていった。
"もしもタイムマシンがあったら"
「なぁ、もしタイムマシンがあったらどうするんだ?」
「急に何を言い出すかと思えば、貴方にしては珍しくファンタジーな話題だな。」
「こないだ時間潰しに映画館で観たのが、王道のSFでよ。」
「ほう。」
「んで、物語の中で"過去と未来のどちらに行くか"って問いに主人公達が議論するシーンがあってよ、俺ならどっちを選ぶか、あとお前はどっちを選ぶのか気になってよ。」
「貴方でも子どものような、可愛らしい疑問を抱くんだな。」
「うるせぇよ!!…お前ならどっちを選ぶ?」
「そんなの決まっている。」
「そうなのかよ。」
「何を驚いている。聞いてきたのはそっちだろう。」
「いや、お前ならもっとこう…じっくり時間かけて考えそうだな〜って思ってたからよ…ビックリして。」
「そうか。」
「ちなみに、俺ももう決まってっから。」
「そうなのか。なら、一斉に言ってみるか?」
「同じの言う気満々か?」
「当然だ。」
「じゃ、"せーの"っで言うぞ。いいか?」
「あぁ。」
「行くぞ?"せーの"」
「未来」「過去」
「あぁ?」「は?」
「お前"未来"じゃねぇのかよ?」
「貴方こそ"過去"じゃないのか?」
「…。」「…。」
「…まぁいい。何故"未来"を 選んだのか、理由を聞かせろ。」
「あぁ…。理由は簡単だ。俺たちの戦いの遥か先、未来でバグスターウィルスがどうなっているか確かめる為、それだけだ。」
「本当にそうか?」
「どういう意味だ?」
「本当に"それだけ"なのか?貴方の事だ、他に理由があるんだろ。」
「ウッ…、っせぇな、"それだけだ"っつってんだろ。んで、お前はなんだよ?」
「俺は、幼き日の貴方に会いたい。」
「…は?」
「会って、貴方はどんな幼少期を過ごしたのか、貴方を形作った根底を知りたいからだ。」
「は?」
「愛する者のルーツを知りたいと思うのは当然だと思うのだが、貴方は違うのか?」
「い、いやいやいや。別に、そうじゃねぇよ。…ただ。」
「ただ?」
「ガキの頃の俺を誰かに…ましてやお前に知られるなんざ、その…は、恥ずかしいっつか…。」
「そんな愛らしい態度を取る人だ。きっと幼少期はとても可愛らしいだろうと思っているが?」
「は、はぁッッッ!?…て、テメェ一体何言って…」
「まぁ本当の事を話せば、幼い貴方に会って"俺が貴方の未来の花婿だ"と言えば、運命の相手は俺だと信じ込ませる事が出来るだろ。」
「なんて事考えてんだテメェ!!いくらそれが"俺"でも、"ガキ"相手にだぞ!?そもそもお前にまだ会ったこともなけりゃ、名前すら知らねぇんだぞ!!そんな奴の言葉信用するわけねぇだろ!!」
「だが貴方は2人の時は素直だぞ?」
「それとこれとは別だ!!とにかく俺は断固反対だかんな。」
「何故。」
「何故も何もねぇよ。それに"タイムパラドックス"っつー、SFには必ず出てくる命題。言葉くらい知ってんだろ。」
「あぁ、確か…"過去の少しの改変が未来に大きく影響を及ぼす"だったか。」
「まぁそんな感じだ。」
「詳しいな。」
「うるせぇ、観た後に調べたんだよ。」
「…。」
「…な、なんだよ。」
「…なるほどな。」
「あぁ?何が"なるほど"なんだよ。」
「…いや、なんでも無い。気にするな。」
「んな事言われたら気にすんだろうが。…て、おいどこ行きやがる!!」
「御手洗にだ。続きはその後でいいか?」
「ん、まぁいいけどよ。」
「…。」
「…今より大人の飛彩、か…。どんなヤツになってんだろ。」
「ま、肩書きは予想通り、院長の後を次いで新しいここの院長になってんのが先か、今以上に引く手あまたになってんのが先か。いや、アイツの事だ。両方やってそう…。」
「…。」
「その頃には、俺たちの関係、どうなってるんだろう?」
「今と変わらずお付き合いが続いていて、こんな風に喋ってるのかな。」
「いや、もしかしたら法律が変わっていて、同性婚が認められてるかもしれない。もしそうなら、未来の俺がアイツの"妻"で未来のアイツが俺の"旦那"、になるのか?」
「…。」
「"旦那様"。」
「なんだ?」
「ッ…!?お、おま、いつの間に…?」
「数分前くらいに戻って来たんだが、何やらブツブツと独り言を話してたから終わるまで待ってたんだが。」
「うぅ…。」
「"旦那様"、か。」
「ッ…!!」
「良いな、ならば俺は"妻"と呼ぶべきか。」
「〜っ!!や、やめろ!!も、もうこの話は終わりだっ!!」
「何故だ?」
「うるせぇ!!」
「何故そんなに顔が赤い?」
「テメェのせいだろうが!!」
「…フ。」
「んだよ!!」
「俺の"妻"はとても可愛らしいと思ってな。」
「っ…。そ、そんなからかうんなら別れんぞ!?」
「それは困る。悪かった。」
「…思ってねぇだろ。」
「どうすれば許してくれるんだ?」
「うるせぇ、そんぐらい自分で考えやがれ。」
"今1番欲しいもの"
『今日は業務が早く終わった』
『今からそちらに行く』
ベッドの枕の横に置いていたスマホから、アイツからのチャットの通知音が鳴って、メッセージを見て何とか気持ちを抑えて返信する
『わかった』
気圧のせいか、今日はすこぶる体調が悪い。緊急通報に向かって着いてすぐ変身して何とかバグスターを倒せたが、体が思うように動かず頭も上手く回らなくてそのせいで、そこまで苦戦しないバグスターだったのに時間がかかった気がする。その後は誰かが何か言いかけてたが、さすがに立っているのも辛かったので「急用がある」などと言葉を切って、帰ってきて居室に入った途端糸が切れたかのようにベッドに突っ伏して、それからしばらくスマホを枕の横に置いて横になっていた。
2時間くらい経っただろうか、それでも全く良くならず、ずっと辛い状態が続いていた。
───頭が痛い、重い、辛い…。
「───飛彩…。」
ふと何故かアイツの、しかも呼んだことの無い下の名前が口をついた。それに返事をするようにアイツからのチャットの通知音が鳴り、来たのが上のメッセージ。嬉しくて少しばかり返事をするのを忘れてメッセージを見ていたが、何とか気持ちを落ち着かせて返事をした。その後すぐ既読が付いて嬉しくていい歳して柄にもなくはしゃいでしまったが、すぐに我に返る。───まずい。今のままアイツが来たらどう反応されるか。というか、こんなメッセ送ってくるという事は何か用事か?いつも通り振舞ってさっさとアイツの用事を終わらせよう。そしてアイツが帰った後すぐドラッグストア行って頭痛薬買ってこよう。
ある程度の計画を立て、まずはいつも自分のいる診察室に向かおうと上体を少し起こすが、頭が枕から離れた瞬間とてつもない頭痛が襲ってきて思わず顔をしかめた。起き上がる事が出来ず、再び横になる。
───クソッどうすればいい。『急用ができたから無理だ』と、メッセを送るか…。
そう思ってスマホに手を伸ばしたが、遠くで扉が開く音と聞き慣れた足音が聞こえてきた。
───アイツ、もう来たのか!?
あのメッセージと既読から今までの、予想していた時間の間隔の短さに驚く。距離的に恐らく診察室の前か、そこで足音が止まる。いつもそこにいる自分がいないのを確認して、帰っていくかと思ったが更に足音が大きくなり、扉の外から小気味良いノック音が部屋の中に響き、扉越しに
「おい、居るのか?」
と、鏡の声がする。驚きのあまり声を出せずにいると
「…。」
再びノック音が聞こえた。声の代わりに、壁をノック音と同じリズムでノックして入室の許可をする。
───聞こえたか…?
少し心配したがすぐに
「入るぞ。」
と扉が開いた。入ってきて早々、人の顔色を見て眉根を寄せる。
「…やはりな。」
「はぁ?」
"何が「やはり」だ。"と言葉を続けようとしたが、ふと鏡の手元に視線を落とすとビニール袋を持っていた。不透明のため何が入っているのか分からないが飲料は確実に入っている。飲料と、他の何かがビニール袋の中に入っている。するとツカツカと近づいてきて、横の棚の上にビニール袋を中身取り出し置いた。ビニール袋に入っていたのは、ミネラルウォーターと頭痛薬。
───ッ!?なんで…。
それは俺が買いに行こうとしていた、何度か使っていた頭痛薬だった。不思議に思い疑問を口にしようとしたが、声にする前に止めた。
───コイツの事だ、きっとたまたま目に付いただけだ。
そう自分の疑問を片付けた。
「起き上がれるか?」
などと考えていると不意にそう問いかけられ、我に返る。腕に力を込めて再び上体を起こそうとするが、先程と同様に頭が痛み顔をしかめる。それでも今度は無理やり上体を起こそうとすると、鏡が俺の両肩を、そっと掴んで再び横になるように促し、──というより力が強くて、普段ですら片腕で持っていかれたりするくらいなので逆らおうにも逆らえず、その上今は頭痛と重さで力が上手く入らないので──大人しく再び横になる。
とここでオペの後、俺が体調不良なのを察して業務を終わらせた後"うちに来る"なんてメッセージを寄越して、おまけにこっちに来る途中でドラッグストアで必要な物を買って、ここに来た事に気付いた。
するとビニール袋の中にまだ何か入っているのか、カサカサと音がして音の在処を見ると鏡が薬呑器(やくのみき)を手に持っているが目に入ってきた。
───んなもんまで買ってきてやがったのか、用意周到すぎんだろ… 。
ビニール袋をよく見るとまだ何か入っているような膨らみをしていた。恐らくこの体調で物をまともに食ってない──そもそもまともな食事すらない(実際あるのは栄養補助食のブロックとゼリー飲料のみなので正解だが)──と思って軽食も買って来たのだろう。
なんて考えいたら、コポポポと音を立てながら薬呑器にミネラルウォーターを注ぎ、頭痛薬の箱を開けてフィルムを取り出す。更に取り出したフィルムから2錠押して出すと
「ほら、口を開けろ。」
と、1度手のひらに押し出した2錠を摘んで俺に近づけてきた。一瞬恥ずかしくて躊躇ったが命令通りゆっくりと口を開いた。すかさず薬を口の中に入れられ、間髪入れず今度は薬呑器の口を俺の口の中に入れ、水を飲ませててきた。とても恥ずかしくて余計頭が痛くなった気がするが俺の体調を気遣っての事だし、こういう時の鏡は頑固なので素直に聞き入れてされるがままにした方が良い。そうな事を思いながら、口の中に入れられた頭痛薬と水を、コクリ、と飲み下す。喉仏が下がったのを見たのだろう、飲み下した後に鏡が僅かに顎を引く。
「食欲はあるか?ひじき煮を持ってきたんだが。」
と、またビニール袋から今度は小さなタッパーとプラスチック製のスプーンを取り出した。透明なので中身がよく見えるが、レンジで温められたのか中は外との温度差で若干結露が発生している。また素直に、今度は声を出して短く「あぁ。」と答えると「そうか。」と返事をして「借りるぞ。」と言って近くにあった椅子を引き寄せて座り、タッパーの蓋を開ける。ひじき煮の良い匂いが鼻腔をくすぐり、そういえば今朝から何も食べてないなと気付くと急に空腹感が襲ってきた。
すると鏡がタッパーの中のひじき煮をスプーンで掬って
「ほら。」
と、口に近づけられた。2度目だからさすがに躊躇いはなく口を開けたが、やはり恥ずかしい。今度はゆっくりとひじき煮を乗せたスプーンを口の中に入れられ、俺が口を閉じるとスプーンを俺の口の中から引き抜いてひじき煮を舌の上に乗せる。スプーンが完全に引き抜かれて舌の上のひじき煮を咀嚼する。味は甘めでしっかりしていて、人参や油揚げなど味が染みて大豆も味が染みていて且つホクホクで、こんにゃくは歯ごたえがあり、ひじきや蓮根はシャキシャキで美味しい。
「どうだ?」
「ン…。まぁ、悪くねぇよ。」
「そうか。」
するとまたスプーンでひじき煮を掬って俺の口に近づける。また口を開いて、入れられたら口を閉じて、スプーンが完全に引き抜かれたら咀嚼を始めて飲み込む。その繰り返しをしていると鏡が急に「フ。」と笑った。俺は顔をしかめて
「…何笑ってんだよ。」
少しキレ気味に言い放った。
───テメェが頑固で、抵抗すんのがめんどくせぇから素直に聞き入れてやってんのに。
「いや、可笑しくて笑ったのではない。ただ、貴様が他人の言うことを素直に聞いているのが意外だ、と思ったからだ。」
5年前の俺なら、他人の言う事を素直に聞き入れ行動していたが、あの出来事以来誰も信じられなくなって、"素直"なんて言葉とは縁遠い性格になって久しいのに、そんな事を言われたもんだから当てつけのように顔だけそっぽを向いて反論する。
「…フン、気のせいだ。ただテメェ相手に変に抵抗すんのが疲れるだけだ。」
「そうか。」
またそんな相槌を打つと、また掬ったひじき煮を近付けてきて、仕方なく向き直ってまた口を開けて、また繰り返し始める。
しばらく繰り返していると、飲んだ頭痛薬が効いてきたのか少しずつ頭の痛みが収まってきて、また掬って近付けようとしてたのを手のひらを突き出して制止し、上体をゆっくり起こしてる「ん。」と突き出した手のひらを今度は上に向けてスプーンを寄越すよう要求する。するとすんなりとひじき煮を乗せたスプーンを俺に寄越し、更にひじき煮が入ったタッパーを差し出してきたので、もう片方の手で受け取る。それからは自分の手で残りのひじき煮を食べていく。不意に視線を感じ、鏡を見る
「…んだよ、人の顔見て。何か付いてんなら言えよ。」
「…いや、違う。ただ美味しそうに食べるなと思っただけだ。」
───俺そんな風に食ってるか?
不思議に思いながらも、考えるのは無駄だと言わんばかりに
「そうかよ。」
と返事をして食事を再開する。また視線を感じたが今度は気にせず食べ続け、完食する。
「ごちそうさん。待ってろ、今タッパー洗って返すから。」
そう言ってベッドから起き上がろうとすると
「別にいい。それにまだ万全に動けないだろ、無理するな。」
ベッドの上に居ろ、と言わんばかりに制止され、仕方なく体を戻す。
「そろそろ行く。ゆっくり休め。」
そう言って鏡が椅子から立ち上がろうとしたが
「ッ…。」
咄嗟に鏡の腕を掴んで制止させた。
───嫌だ、行かないで。
何て言えばいいのか分からず、ただ無言で鏡の顔を見つめて腕を掴む。鏡は俺の方を見て目を大きく見開いて驚いていたが座り直して、掴まれている腕とはの反対の手で、腕を掴む俺の手を優しく包み込んだ。
「分かった。」
その言葉を聞いて、腕を掴んでいた手を少し緩め、その手をスルスルと下げて
───頼む、こういう時だけはお前を一人占めさせてくれ。
そう思いながら、鏡の指をキュッと握る。伝わったのか
「あぁ、分かった。」
と答える。
「喉は渇いていないか?」
と言ってまだミネラルウォーターがたっぷり入ったペットボトルを差し出してきた。また素直に受け取り、指を握っていた手を一度離して蓋を開けて喉の渇きを潤す。蓋を開けると、先程と同じ方の指を再び握る。
「そんな事をしなくとも、どこにも行かない。」
微笑み、俺を見ながら言う。
「いいだろ別に。どうしようが俺の勝手だろ。」
「…そうだな。」