(…痛)
暗い部屋、一つの灯りの元で、私は鮮やかな赤を見る。太ももに咲いたヒガンバナを。
やっぱり痛い。けれどかさぶたになってしまえば、また種を私は育てる。薬品たっぷりの肥料と、切開のための剃刀を持って。
昔は、転んだだけで痛かった。
血なんか出なくても、ただ、転んだ、それだけで痛くて、声をあげて泣いた。
いつからだろう。痛くても、泣かないようになったのは。声を出さなくなったのは。
肉体を引きずって地面を這いつくばるばかりの日々に、泣きたくなったのは。
皆つらい。しんどい。苦しい。痛い。
だから、皆我慢してるから、私一人ばっかり泣くなんて、そんな恥ずかしくて利己的なこと。
助けて、なんて、そんなこと。
(やっぱ痛いな)
暗い部屋、一つの灯りの元、声を出せない私の代わりに、太ももは静かに泣き叫ぶ。
本当はこんな肉体をぐちゃぐちゃに切り裂いて消えてしまいたいのに。
刃が肉を切る音すら聞こえない。
静寂が部屋の空気を突き刺す。
消えられない痛みを、私は体に刻みつける。
「ばいばーい」
「またね、気をつけてね」
私は一人自転車を押す。あの娘は友達と駅に吸い込まれていく。
彼女が好きだ。
別れ際友達は皆、またね、や、ばいばい、と言う。
けど彼女はそれに、気をつけてね、と付ける。
そんな本当に細やかなことさえ、好きだと思えてしまうのだから恋は盲目だ。
いつか彼女が好きすぎて失明してしまいそうだ。
彼女が好きだ。
複数人で帰っても、たいてい二人ずつに別れて話しながら帰る。これがいつものルーティーン。
私は彼女と話すのが一番好きだった。
聞き上手で返すのも上手い彼女といると、話したいこと伝えたいこと、心の防波堤がいつもより脆くなって、次々と溢れだしてしまう。
くしゃりと笑う顔、声、言葉遣い、仕草、全部全部、丁寧で優しくて好きだった。
美人は声まで綺麗なのか、なんて。たいして可愛くもなくて鼻にかかる声の私は、ただ彼女を羨んで、好いていくばかりだ。
彼女になりたい、とは思わないけど。
そんな彼女と、隣でたくさん話していたい。
「たくさん」は叶わないけど、別れ際話せる時間さえあれば。一抹の寂しさとそれ以上の多幸感を自転車のカゴにつんで、私とあの娘はまたね、を交わす。
数年ぶりに訪れた、インドネシアのバリ島。
夕食帰り、日本より幾分か過ごしやすい夜風に吹かれながら入った店で、とっておきの香水に出会った。
棚いっぱいにところ狭しと並ぶ香水、香水、テスター。あてもなく、パッケージと英単語の羅列を見ているとき、ふと目に留まった。
’lost in tokyo’_東京の迷い子。
’under malibu ocean’_マリブ海の水面下。
そして、’memory of Paris’_「パリの記憶」
私の手に少し香りを纏わせたとき、身体中を爽やかな優しい甘さが吹き抜けて、心が穏やかに凪いだのを、憶えている。
一目惚れといっていいのだろうか。この香りを纏えたら、柔らかな揺蕩いに落ちていける気がした。
森林、山村、海洋、花畑、雑踏、どの言葉にも属せない、なんとなく、私の思い描いていたパリとはイメージが違っていたけど。冷えきった冬の早朝に、バニラの香るベルモットを溶かしたような、優美で爽快な香りだった。
日本に帰ってきた今、あの香りを纏いたいとか思っていたくせに、まだ一度しかこの香水を使えていない。
私はパリの記憶を着付けたところで、誰にも届かない。だから、初めて好きな人に送った手紙に、私の代わりに絡ませた。
きっと香りなど、届いたときには消えていたのでしょう。それでもいいや、と思えた。
いつか彼に直接出会えたときに、残り香として憶えていてくれたら、なんて。
「皆、さよなら」
と言ったとき、上手く笑えていたか分からない。
私なりの笑顔を乗せたつもり。だけどあまりにも寂しくて、別れなんて信じられなくて、ただ、帰りたくなくて。
さよならは笑顔で、なんて漫画の人物にしかできない。だって、もう会えるかも分からないのに笑えるなんて。
好きな人に。
失恋を引き摺りながら人生を歩いて、その先で夏のキャンプに参加した。
そこで出会った彼が、出会ってから、ずっと脳裏に焼き付いていた。
キャンプのリーダー役に、少し不安げな顔をしていた。
小さい子から押し付けられた食事を、「使命感で食べてる感じ」と言って笑って食べていた。
私がこそっと脇に触れたとき信じられないほどびっくりして、そこから擽りが弱いと小さい子たちにばれて、あまりにもひっくりかえって笑うものだから、ダンゴムシとかエビとか呼ばれていた。
寒そうにしているちびっこに自分の上着を着せてあげていた。
食事で押し付けられた揚げ物用のレモンに、なぜだかかぶりついて酸っぱい酸っぱいと言っていた。
目を閉じれば、そんな柔らかくはにかむ彼の姿を思い出す。
最初は興味とかあんまりなかったのに、ただ、同学年だなぁ、としか思わなかったのに、気づけばいつも姿を探していた。好きになったなんて、信じがたかった。
さよならを言う前。
さよならを言いたくなくて、いつもみたいにまた後でって言いたくて、でももう時間はなくて。
さよなら、って、言いたくなかった。
さよならを言ったら、何もかもが終わってしまう気がした。
忘れられてしまう気がした。
覚えていてほしかった。
私のことを。
私の感触ごとを。
「」
彼の名前を呼んだ。
立ち上がってくれた彼に、
ありがとう、と、忘れないで、を伝えたくて、さよなら以外を伝えたくて、覚えていてほしくて、
ただ抱きついた。
「ありがとうね」
言いたかった言葉が喉の奥でつかえる。
「最高のリーダーだったよ」
君は私のヒーローだ、なんてこっぱずかしくて言えないけど。
「かっこよかったぜ!」
またね、って言えたか、もう私が覚えていない。
ただ、私の言葉、私の感触、私のこと、覚えてほしかった。
さよならを言う前に、なるべく全てを伝えてきた。つもりだ。
さよならって言った後で、私は恋心に気づいた。
LINEを送るのは、いつも私から。
時々、こっそり期待する。
誰かから、一件でも、LINEが来てないかなと。
できれば、好きな人から。
期待したとて誰からも来てはいないけど。
会話のように、雑談のように、メッセージが来てほしい。なんて、我が儘だろうかと失笑しながら、それでも想い人からの言葉を待っている。