二人だけの
駅前のカフェで、私たちは最後の紅茶を飲んでいた。
平日の午後、人影の少ない店内に、ティーカップが触れ合うかすかな音が響く。
「今日で本当に終わりにする?」
あなたがそう言った声は、いつもの優しさが混じっていて、余計に胸が苦しかった。
「うん……」
私は頷くしかなかった。
この数ヶ月間、誰にも知られないように過ごした時間は、幸せで、そして恐ろしくもあった。
二人で秘密を抱えたまま歩く夜道。
指先がふれあうたびに胸が高鳴り、
それでも、背中に罪悪感がまとわりつく。
「ねぇ、最後に一つだけ言ってもいい?」
「…何?」
「俺は、あの夜からずっと——
君といるこの時間が、世界で一番欲しかったものだ」
紅茶の香りに紛れて、あなたの言葉が溶けていく。
本当は私も同じだった。
でも、それを口にしてしまえばきっと戻れなくなるから、
私はただ微笑んだ。
「ありがとう」
外はもう夕暮れで、街のざわめきが遠くに聞こえる。
私たちは立ち上がり、二人だけの秘密の扉をそっと閉じた。
蝉がけたたましく鳴いている。
もうそんな季節なのか…
もうすぐ…
もうすぐ、あなたを失って2年目の夏が来る。
あなたを失った日から私はずっとこの胸に痛みを抱えている。
決して癒されない痛み。
この痛みも失いたくない。
忘れられない。
忘れたくない。
今年もそんな夏になりそうだよ、メイさん。
隠された真実
古びた時計が、午後三時を告げる音を鳴らした。
アンティークショップ「クラルテ」の扉が軋むと、薄暗い店内にわずかな光が差し込む。
「……まだ、ここにあったんだ」
声の主は、二十年ぶりにこの街に戻った葵だった。
彼女は震える指先で、一番奥のガラスケースを撫でる。そこには、小さな銀細工の猫の置物がひっそりと置かれている。
この店には、誰も知らない「秘密」がある。
かつて葵が高校生だった頃、店主の玲司にこう告げられたのだ。
> 「この店にある品は、誰かの“忘れたい記憶”を封じている。
> 買った瞬間に、その記憶があなたのものになる。」
当時の葵はそれを作り話だと笑い飛ばした。だが数日後、玲司が突然姿を消したのだ。
「……玲司さん。あなたも、この猫に記憶を閉じ込めたの?」
葵がそっと猫を手に取ると、まるでそれを待っていたかのように記憶が脳裏に流れ込む。
火事の夜の記憶。
玲司の両親が焼け落ちる家の中に取り残された映像。
助けようとする玲司の腕を、必死に押さえる葵自身の姿。
「……そうだった、私が止めたんだ」
震える声が、埃っぽい空間に吸い込まれていく。
あの夜、玲司は命がけで両親を助けようとした。だが葵が呼んだ消防隊が到着する前に家は崩れ、両親は帰らぬ人となった。玲司はその後、街から姿を消したのだ。
“真実”は、銀の猫に封じられていた。
忘れたいのは、玲司ではなく葵自身だった。
葵はそっと猫を棚に戻す。
今さら彼に謝れるだろうか?それとも、このまま過去に沈めてしまうべきなのか。
背後で風鈴が小さく鳴った。
振り返ると、埃をかぶった「Closed」の札が、まるで玲司の答えを告げるように揺れていた。
風鈴の午後
風が通り抜けるたびに、小さな鈴の音が涼やかに揺れる。
アンティーク調の木枠に吊るされた硝子の風鈴は、淡い水色で、夏の光を反射して小さな虹を作っている。
猫のミヌーは、その音に耳をぴくりと動かすと、また目を閉じて眠りに戻った。
この小さな喫茶室「ネコティーク」は、午前中の賑わいが去り、今は私と風鈴と猫だけの静かな世界だ。
ハーブティーのカップから立ちのぼる香りが、かすかな眠気を誘う。
──遠い日のことを思い出す。
祖母の家の軒先に揺れていた風鈴。
ひと夏ごとに違う音がする気がして、毎年訪れるたびに私はその音に耳を澄ませた。
祖母は「同じ風鈴でも、聴く人の心で音は変わるのよ」と言って笑った。
当時はその意味がよくわからなかった。
…けれど今は少し、わかる気がする。
澄んだ音色の中に、懐かしさや寂しさや、言葉にできない優しさが重なって聞こえるのは、きっと私の心がそう鳴らしているからだ。
窓辺のミヌーがあくびをした。
私はそっと手を伸ばし、風鈴の紐を指先で揺らす。
チリン──
午後の空気に、ほんの少し甘い音が溶けていった。
祖母が言ったように、同じ風鈴でも、この喫茶室で聴く音はまた違う。
だからきっと、この音を聴いた誰かの心にも、ひとつ物語が生まれるのだろう。
次にここを訪れる人には、どんな風鈴の音が聞こえるのだろう。
私はそんな想像をしながら、ハーブティーの最後の一口を味わった。
「流れ星の約束」
夜空を見上げると、無数の星々が瞬いていた。
「もうすぐだよ」
小さな黒猫のルカが、少女の肩にちょこんと乗って囁く。
今日は一年に一度だけ、空に橋が架かる日。
星々は願いを運ぶために、銀の光の道を渡るという。
「ねえルカ、願いって本当に叶うの?」
少女はそっと手を組む。
「叶うかどうかは、きっと願い方次第さ」
ルカは尻尾を揺らしながら答えた。
そのとき、一筋の流れ星が空を駆け抜ける。
少女は瞬間、目を閉じて願った。
“どうか、大切な人の心が笑顔で満たされますように”
星は銀の道を渡り終えると、ひときわ強く輝いて消えた。
そして…
遠く離れた場所で、疲れた顔をしていた人の心に、ふわりと小さなぬくもりが灯る。
ルカがにっこり笑った。
「ほらね。君の願いはちゃんと届いた」
少女の胸にも、星のかけらのような光が宿っていた。
願いとはきっと、自分の心をも優しく照らすものなのだ。