眩い光の星を天才の星だというものがいた。
誰もが天才になりたくて眩い星を目指した。
天才の星は誰より優れていると皆から尊敬された。
しかしある星がいった。
「あの星の方が色が違って天才的に綺麗だ」
大衆の反応はというと
「あの星は全然眩くない。だから天才じゃないし、綺麗でもない」
そう大衆は言って見向きもされない赤い星。
赤い星はどうして自分は眩い光ではないのかと落ち込んだ。
赤い星が綺麗だと言った星がある事を言った。
「天才とは結局、大衆の人気者なんだ。何かに秀でているのは実は天才だけじゃない。だから誰かにとってあなたはすごく綺麗にうつる。私が貴方を天才的に綺麗だと思うのは間違っていない」
赤い星は大空を見上げた。眩い光だけじゃなく大きな大空の星達を見た。確かに眩い光は目に入ったが青い星や小さな星も今日は綺麗に見えた。
どの星達も眩い星より劣っているようにはみえなかった。でもやっぱり眩い光は今日も美しい
ひたすら走った。
真夜中は暗くて、朝は明るかった。
メロスのように走った。
走った先には自分の努力があった。
空に向かって走ったんだ。
たった一人で走ったんだ。
もうあの頃には戻れない。
1度立ち止まって空の色を確認すると
綺麗だと思った。
その瞬間走り方なんて忘れた。
受験が終わって空を見上げて
もう1回走らなければならなくなった。
もう先に進んだ人達は見えない。
歩いていけば後ろから来るやつに追いつかれる。
歩いてもいい、必死でやってんだ。
大丈夫、空はまだ続いてる。
空に向かって
絶対できる。
そんな言葉が怖くなったのは色んな人と関わってからだ。
スポーツをした時、才能に叶わないことを知る。努力で勝ると思って努力しても結局は質と量。
質と量は環境が整えてくれる。
生きていくのも現実をしらされるのも怖い。
いつも何かに怯えて暮らしている。
何かに本気で感動する気がしない。何かに本気で挑戦している気がしない。
どうしてそこまで努力ができるのか、他人が怖い。
どうして見たかった景色を見れているのか、羨ましい。
才能がないのは誰のせいなのだろう。
どうやったらあそこまでいけるのだろう。
自分と決定的に違う何かを他人は持っている気がする
努力とは残酷な言葉だったと改めて分かる。
それが現実でそれを無理矢理正当化しているのが現実だ。
諦めずに成功した人間こそ「才能」の固まりである。
才能のある人の合言葉は「努力」である。
これは才能がないからこそわかる言葉であると思う。
衣替えの時期にクローゼットをあけると思い出の小さい服があった。
あの頃は本気で夢は叶うって思ってたんだよな。
今から思えば悪くないのかもしれない。たとえ叶わない夢でも。あの時は周りが信じさせてくれていたんだって。どんな歌詞にも夢は叶うという曲を小さい子に届けてくれた。今の子供は大人の嫌な部分を知る機会がネットによって多いけどそれがない時代はきっともう来ない。
周りがキラキラして大人になりたいって思わせてくれたのは小さい頃に見たアニメや番組。それが心を震わせてくれていたんだな。
何気なく見ていたアニメも努力して頑張ればきっと夢は叶うって応援してくれていた。それって凄くありがたいことで素晴らしいことなんだ。
夢は叶うなんて信じられない大人になってしまった今。
楽しいって思える未来じゃなかったよ。大金持ちなんかなれなかったし運命の人なんて出会えてないよ。夢だって努力しても叶わない事だっていっぱいあった。
今にも倒れそうで辛くて吐きそう。しんどい!辛い!もういなくなってしまった方が楽だ!こんな世の中生きていたくない!夢なんて何も叶わないかったよ!
心の底から叫んでやってやるよ!!
過去も今も未来も大好きだ。
ふとこの教室から消えてしまいたいなんて思ってしまった。
もし、この教室から私が抜けたら。
給食当番は今よりはやくなる。私は不器用だし
あと係は1人少なくなる。
最近ドラマを見たからこんなこと考えてるのかも。
親友が蘇る話。でも最終的に帰ってくんない?ってみんなが言う。確かにいなくなって不幸になった。日常が楽しくなくなった。
その二年後に帰ってきた親友。楽しく遊ぶ日々。
「でもそれはもう日常では無い」
2年後の日常に慣れてしまった。だから今は親友がいるのが非日常なのだった。
いる方が違和感があります。なんて死んだ時に皮肉な話だな。
でも、放課後の窓に自分の姿がうつった時にすでにそれを理解していた気がしたんだよ。それが皮肉でも同じ気持ちと言えるかもしれない。ここにうつる自分は今を生きている。それはもう過去の日常が繰り返すことは無い。
だからどんなに辛くてもどんなにしんどくても今を生きているというのは大事なことだと思った。過去ばかりに目を向けるのは今を生きていることとは違う。
過去は割と引きずらないほうが楽しいのかも。
別に今を生きていさえいればいい気がするんだよね。呼吸さえしていれば少なくともこの窓に私はうつりつづける。
もし私が死んだらこの放課後の景色を見ることはできないかもしれない。
それだけで呼吸する意味はある。
放課後は色んなことを考える時間がある。この記憶は死んだ後も覚えていたい。仏壇にはセーラー服姿の若い頃の写真も飾ってもらうことにしよう。確かに窓にうつっていた自分と放課後のカネの音が記憶とともに思い出せるように。
呼吸しとけば人生なんとかなる。遺影をみてババアなんて言わせんぞ…。