猫背の犬

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7/16/2023, 3:18:21 AM

「君が好きだよ」
この状況で真贋を見極めることなんて不可能ではないだろうかと、ふと思う。口ではいくらでも方便を紡ぐことはできる。しかし、その左手にあるものはどうすることもできないだろう。
「どうしたら信じてもらえるかな」
薬指にはめられた銀色の輪っかを光らせながら信じてほしいなんて言うのは正気の沙汰とは思えない。この人は本当に気が触れてしまっているのではないか。肥大する邪推に促され、僕は少し意地悪をしてみたくなった。
「あんたの言動にはどれもこれも信憑性がないよね。信じほしいって言うならさ、それ外せないの?」
僕の問いかけをはぐらかすように微笑み、やり過ごそうとする。僕はそれを赦さない。もうその手には乗ってやらない。あんたの思う通りに事が進むなんて思わないほしい。あんたの望むのは、ひとつも与えてやらない。あんただって僕の望むものをひとつもくれないんだからお互い様だろう。今だってそうだ。その指輪外せずに居るじゃないか。もう僕を試したりしないで。それから、僕を恨んだりしないで。僕もあんたを恨んだりしないから。
「もうやめしない? こんなくだらない駆け引きをいつまでも続けていたって不毛だよ」
伝えたいもののすべてを飲み込み続け、妥協して手に入れた幸せなんて会得にならない。
「……え?」
「終わりにしよう。元々進展の望めない関係だったろ。僕たちは。あんたも然るべき場所があるんだから留まっておくべきだよ。二兎を追う者は一兎をも得ずって言うだろ」
「本当に言ってる?」
「関係を築くのはさ、火照った身体を冷たい海水で癒すのとは訳が違うんだよ。後悔してるの? ならその後悔を一生抱き続けてよ。僕を軽んじたあんたが悪い」
「そう、だね」
またそうやって笑うのか。赦せない。絶対に赦すことなんてできない。煮え切らない態度をとり続けるあんたが大嫌い。僕を選んでくれないあんたなんて大嫌い。なのに、僕の頭はあんたのことでいっぱいだなんて、理不尽だ。やめろ。もう、やめてくれ。あんたは僕の抱える苦しみがどれほどのものか知らないだろうし、知ることもないだろう。教えたことも、教えることも、ないだろうから。だけど、それでいい。別に。知らなくていい。あんたは何も知らないままでいい。こんな鬱陶しいものは僕の中だけに留めておく方がいいに決まっている。治らないとわかっている疫病を感染させて連鎖させるなんて地獄絵図を描く必要はない。
始まりがあったかどうかさえ、危うい関係は終わりを告げた。透きとおった青に、夏の雲が広がる空。坂の上の蜃気楼をすり抜けていく寂しげな背中。呼び止めることはしない。最後の最後まで指先すら触れることができなかった。
「僕もさ、あんたのこと好きだよ。……ううん、好きだった」
聞こえない。届かない。紡いだ言葉は虚構に溶けて、なかったことになる。
 僕のせいで苦しむあんたは気持ち悪い。だから、とっとと忘れてよ。僕のことなんて。終わりにしよう、終わりに。もう見えなくなったあんたの背中を目掛けて、そんな想いを胸の中で綴る。

7/14/2023, 9:02:03 AM


ぬるま湯の心地良さを手放すことができずにどこか欠落した日々をだらしなく続けてしまったせいで、生きる明瞭さを失った。いやきっとそれだけではない。一体どれほどのものを犠牲にしたのだろう。気づけば、普通にできていたことすらできなくなってしまっていた。周りを見渡せば、劣等に苛まれる。そこでやっと気づいた。僕は良いように扱われていただけだと。あの子もあの人も僕に対してあたたかな感情を持ち合わせてなんかいないのに、何度も愛を囁いて、束の間の優越を僕に与えた。すべては僕を陥れるための甘い罠だったのだ。弱る僕を見て楽しんでいたんだろう。絶望と劣等に苛まれる殺伐とした日々に生かされているだけの空っぽなクラゲになるくらいなら、なにも気づくことができないただの阿呆で居る方が数億倍マシだった。僕はどうしていつもこうなんだろう。誰かの手のひらで転がされることしかできない。馬鹿にされ、笑われることしかできない。なんて滑稽なのだろう。そういえば、名前も知らない誰かが僕を指さして「お前は生まれながら道化師だ」って声高らかに笑っていた。それならあの子がくれた言葉はなんだったんだ。あの人の温もりはなんだったんだ。あの子やあの人の涙はなんだったんだ。美しい花のような笑顔でさえも僕を面白くも哀しい道化師にするためだけに魅せたものだったというのか。ともすれば、なにを真実と捉えて生きるべきなのか僕にはもうわからない。与えられた気になって悦んだ価値はすぐに取れる鱗だった。それに気づかず、浸っていた優越もニセモノ。無価値の中で泳ぎ続ける僕をどれだけの人が笑っていたのだろう。劣等に塗れすぎた僕は僕自身すら愛すことは困難を極めていて、目を背けてしまう。次に目を覚ましたときはどうか劣等の類いを感じない人生を歩めていますようにと、わずかな希望を抱きながら瞼を閉じる。

7/12/2023, 12:24:06 PM

これまでずっと秘めていた想いをついに手放すときがやってきた。
「君が真相に辿りつけたとき、本当の僕が見えてくるかもね」
「は? どういう意味だ? ちゃんと説明しろ」
「そのままの意味だよ」
「だからそれがわかんねぇって言ってんだろ」
「僕が教えなくても、きっと胸の中に浮かんでくるはずだから。——僕の言葉に疑問を抱いているうちは説明してもきっと伝わらないと思う」
「なんでいつもそうやって上っ面しか話してくれないんだよ、お前は」
「はは、上っ面か……それはごめん」
「おい、待て——」

肩を掴む手を振り解いて僕は海の中へ体を沈め、潜っていく。
君は僕に辿り着けるのだろうか。君が僕に辿り着けたとき、それは僕が手放したものを君が受け取ってくれたってことになるんだけど、そんな夢みたいなこと起きるわけないよね、とか思いながら海中を浮遊する。色濃い絶望の中に居ながらも、僕はどこか期待してるのかもしれない。小刻みに波打つ海面を海底から眺めていても、やっぱり君が降りてくる兆しはない。瞬きをすると淡く揺れる視界。潮がまつ毛を揺らすたびに、小さな気泡が眼前を蝶のようにひらひらと舞う。海面から差し込むひとすじの光に人差しを伸ばしてみる。透ける指先が綺麗だ。なのに、僕の心は霞んでいる。僕は哀れな人魚。君が僕を好きになってくれなければ、泡になってしまう。泡になって消えてしまう。僕の胸に生まれた熱が君に伝わっているのなら早く迎えに来てほしい。そんなふうに思うのは重たすぎるだろうか。この海でずっと待ってる。君を。君だけを。君の気が向いたらでいいから、気が向いたら僕を救ってほしい。それだけが僕の望みだから。

7/11/2023, 3:27:45 PM

「元気?」
もう動くことはないと思っていたトークルームは、一件のラインで半年ぶりに日付が更新された。
「あ、既読ついた」
「そりゃつくだろ」
「ブロックされてると思ってた」
「しねぇよ。するわけねぇだろ」
ぎこちない会話のキャッチボールを繰り返したのち、この機会を逃せば、きっとまたいやそれこそ未来永劫に話せなくなってしまうと思った俺は「少し話すか」と通話を切り出した。
「え」
「都合悪りぃか?」
「いや違くて上手く話せないかもしれないから返答に困った」
「俺が適当に話すから別にいい」
「できないでしょ。口下手じゃん」
「舐めんな。話してない間に俺だって成長した」
「こっちはなんも変わってない。いやマジで上手く話せなくて黙ってばっかになるかもよ」
「だから構わねぇよ。これを機にまた頻繁に話して慣らしていけばいいだろ。……もういいからかけんぞ」
断われるのは怖くて半ば強引に通話ボタンをタップする。一回、二回と重なっていくコール音を聴いていると、そのコール音に合わせるように脈を刻むスピードも早まっていく気がした。五度目のコール音のあと受話器から聴こえてきた控えめな「もしもし」に熱くなる胸。懐かしさと嬉しさが入り混じって変な感じだ。きっと今度は失敗しない。今度こそ上手くやる。固い決意を胸の中で唱えながら頭に浮かんだ言葉を紡いでいく。崩れてしまった関係をゆっくりと時間をかけて修復していきたい。足りない部分は補い、隙間を無くすように縫い合わせる。かつてこいつが俺にそうしてくれたように今度は俺がこいつのことを満たしてあげたい。ただそれだけだった。
「ねえ、怒ってないの?」
「お前の方こそ」
「怒るわけない」
「だったら俺も同じだ」
「……ありがとう」
「……あのとき、逃げてごめん。弱くてごめん」
「それはこっちも同じだから。なんだかすれ違っちゃったみたいだね。でもさ……なんていうの……その、燕と同じで元の場所に還るんだね」
「なんだそれ」
「詳しく聞きたい?」
「ああ、ぜひ聞かせてほしい」

7/10/2023, 1:13:04 PM

目が覚めたら隣で寝ているはずのあの人の姿がなかった。突如として生じた空白と侘しさは底のない穴の中を落下し続けるようだった。けど、なぜかなにも思い出せない。こんなに悲しいのに酷く曖昧だ。留めておきたい記憶のすべてに靄が色濃くかかり、わからないの比率が大きくなるばなりで、声はどんな感じで温もりはどれほどのものだったかよく思い出せない。どんな髪型で、どんな表情を浮かべていたのか不明瞭になってしまったのに涙だけはあふれてくる。不思議だ。心だけが憶えているのだろうか。心だけが憶えているから悲鳴を上げ続けているのだろうか。ひりひりと痛む。眠りに就くまでのあふやな残像が頭の中を巡って、心が熱く揺れる。ひとつだけわかるのは、あの人を二度と抱きしめてあげることができないということ。あれ、でもどうして私はあの人を抱きしめてあげなければならかったんだっけ。たぶんきっと悲しそうだったからのような気がする。不確かだけど、あの人が悲しそうだったから私もいつも泣いて、どうすることもできなかった。やるせない思いだけ募って助けてあげれなかった。あの人のことも自分自身のことも。こんなことになるなら、高望みなんてしなければよかったなあ。

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