『恋物語』
ずいぶん、日が長くなった。
そう思いながら、会社からの帰り道、まだ少し明るいので、ちょっと寄り道をしたくなった。
私のお気に入りの書店。
お店には、年配のおじさんがひとりでいつもいる所だ。
「ギィ」と軋むような音がする、年季の入った木の扉を開けると
「いらっしゃいませ」と静かな声。
あぁ、これがいいんだ、と私は思う。
音楽もなく、お客も少なく、みんな静かに本を選んでいる。
ここは、本好きしか来ないだろうな、といつも思っていた。
ときおり、コーナーを移動する静かな靴音と本の頁をはらり、とめくる音。
私の好きなコーナーを見ている。と、
目についた小さな本があった。
取り出してみると文庫本サイズの本で、表紙がハードカバーのそれのように、とてもしっかりしている。
タイトルは『恋物語』とあった。
私が戸惑ったのは、タイトルに似つかわしくない、艶消しの黒の装丁だったから。
その中に、白い字でタイトルが書かれているのだ。
(なんだか喪に服しているみたい)
その本は、見た時からそう思えてならなかった。
不思議な気分だった。
そして、好奇心がムクムクと出て来て
気がつくと、店主のおじさんの前に立っていた。
「これ、ください」
そういうと、店主は口元に笑みを貼り付けながらこう言った。
「お客さん、ときおりいらっしゃいますね?」
不意に言葉を投げかけられ少し驚いたが、客商売なのだ。会話くらい。
「ええ、私、このお店の雰囲気がとても好きなんです。静かで」と言うと、
「お客さん、かなりの本好きですよねぇ。そうでなきゃ買わない様な本ばかりを選んでらっしゃる」
不意に言われ、また少し驚いた。
買っていく本まで覚えているなんて。
すると、それを察したように店主は、「うちは、ベストセラーの本とかは置かないので、自然と本好きなお客さんばかりになるんですよ」
なるほど。たしかに大きな書店に平積みにされて、派手な謳い文句がつけられている様な、そんな本はここには無い。
「ありがとうございます。また、いらしてください」代金を支払い、会釈をひとつして、本を受け取り店を後にした。
お風呂上がりの夜、さっき買ってきた本が気になり、開いてみる。
タイトルが入っただけの頁の次は、目次だった。
どうやら3つの小説が入っているようだ。
私はそれを見て、首を少し傾げた。
《目次》
1 予感と期待
2 苦悩
3 その時
あとがき
「なんか、変わった本……なのかな」
とりあえず「1」を読んでみようと、本を開いた。そこに書かれていたのは
「予感は、いつも違った形で訪れる。
そして私は期待する」
そしてパラパラと頁をめくったけれど真っ白な頁が続くだけだった。
「2」も似たような物だった。
「苦しい、辛い。こんなにも辛いのは彼女のせいなのだ。私はどうしたらいいのだろう」
そして、やはり何も書かれてはいなかった。何なのだろう、この本は。
最後の「3」を開いた。
「やはりやるしかないのだ。でも、私にできるのだろうか。いや、やらなくては、私達は幸せにはなれない」
私は、もはや呆れてしまっていた。
一応、「あとがき」も見てはみた。
やはり、真っ白な頁があるだけ。
「何、これ。こんなの本とは言えないじゃないの」とつぶやき、この本をどうするか、考えた。
買ったその日に、処分はできない。
頃合いを見て、処分しよう。
そう思うと、無駄なお金を使ってしまった、と少し腹立たしくもあり、その本を無造作に本棚に閉まった。
そんな事もすっかり忘れていたある日、会社の同じ課の同期の子がパソコンに「知ってる?今日からこの課にひとり入ってくるんだって。しかもかなりのイケメンだって!独身だってさ。どう?何だかときめかない?( *´艸`)ムフフ」と顔文字付きで送ってきた。私は見つからないように、
「くだらない事を言っているヒマがあったら、さっきの書類、早くお願いね」と送ると、すぐに
「あいかわらずの真面目ちゃんね!
はいはい、すぐやります〜(๑¯ ¯๑)」と返ってきて、クスリと心の中で笑った。
「新しく、本日付で配属されました、間宮智也です。皆さんの足を引っ張らないよう、1日も早く仕事を覚えがんばりますのでよろしくお願いします」と言うと拍手が起こり、課長が、
「そうだな、柏木くんの横が空いているので、柏木くんに分からない事は聞くといい」と言った。
それは、私、柏木さつき、の横だった。
あまりそういうのに疎い私でさえ、独身の女子社員達の刺すような視線を感じた。(仕事を教えるだけじゃない、馬鹿馬鹿しい)と思いながら、
「間宮さん、私、課長に言われた柏木さつきです。何かあったら私のわかる事なら言いますので」と言って、
間宮を見た。
まあ、イケメンなのは認めるけど。
と思いながら、結局は仕事ができるかなのよ、と思った。
「柏木さん、出来たのですが、これでよろしいですか?」
「あ、はい。では課長に渡してきて下さい」と言いながら、仕事の飲み込みの速さに驚いていた。
その週末、間宮の歓迎会があった。
本当は、もっと早くにやるはずが、思いがけない仕事が入り、延び延びになっていた。
もちろん、独身の女子社員達は、仕事が終わるとロッカールームで念入りに、しかしナチュラルに見えるようメイクを直し、ヘアスタイルまで変えて
いた。
驚いたのは、私以外、全員の私服が合コンのそれのようだった事だ。
パソコンで、いち早く間宮の情報提供をした、倉石まさみも気合いが入っていて、いつも通りなのは私だけだった。
「ちょっと、さつき!あんた、出遅れてるじゃない!隣にずーっといるクセに」とわざわざ言いに来た。
「だって、ただの歓迎会」と言いかけると、まさみは私を隅にグイグイと連れて行き「さつき、気をつけなよ。これはみんながライバルなんだから。誰がトモ君をモノに出来るか」
私は意味がわからず、戸惑いながら
「ごめんね、トモ君て誰?」と言うと
「あんたのお隣の間宮トモ君じゃない!!」とまさみが言った。
私はもう帰りたくなった。
「柏木さん、お疲れ様です。どうぞ」
「あ、どうも」そのトモ君、もとい間宮君からお酌されて口だけつける。
「アルコール、苦手ですか」と聞かれ
「うーん、というよりこういう場があまり性に合わないだけ。ごめんね、今日は間宮君の歓迎会なのに」
先程から、可哀想に、間宮は上司や先輩男子に挨拶に行きかけると、誰か誰か、女子につかまり、困っているようだった。
そして、ようやく上司と先輩に挨拶を終え、席についたのだ。
「間宮君こそ、お疲れさま。質問攻めにあって辟易しているのじゃないの?」と微小を浮かべて私がお酌すると
「いやー、女性の多い職場は初めてなので、ただただもう、驚いちゃって」と言い、そこで人懐こい笑みを浮かべ
「柏木さん、お疲れ同士、別のお店に行きませんか?」と言った。
次に間宮が連れて行ったのは、落ち着いた感じのいいお店だった。
するといきなり、彼が手を掴み
「仕事以外では、さつきさん、って言っていいですか?」と言った。
その仕事中とは別人のような、甘い吐息混じりの声に、私は何も言えなくなってしまった。
はあ〜、たしかにイケメンだわ。
でも、あまりにも揃いすぎていて、逆に私は妙に気持ちが覚めていた。
「ごめんなさい、私にはそんな器用な真似、出来ないの。間宮君は私が教えるべき後輩、それだけなの」と言うと
ぽかんとしている間宮を残して
「ありがとう、これ、ここのお勘定」と言って、お疲れさま、と言い私は家に帰った。
シャワーを浴びてパジャマになると、ふと思いついて、あの本を出してみた。
頁をめくり、目次を見ようとしたが、なかった。さっきはあったのに。
それどころか、中を開くと、よくある恋愛小説になっていた。
(私、よっぽど疲れたんだ)と思うと、本当に疲れが出てきてベッドで一気に眠ってしまった。
朝、目が覚めて伸びをして、ハッとして「い、今何時?!」と、血走った目を時計に向けると気がついた。
今日は土曜日だ。
お休みだった。
あれ?本は?
夕べ開いたら、あの変な目次もなくて、中は普通の恋愛小説になっていたのだ。
それを読みながら寝たのだから….。
しかし、ないのだ。
ベッドの布団をどかしても、挙句はマットレスの隙間を見ても本棚を見ても、どこにもない。
「私はよっぽど、恋には縁遠いんだな〜」本までいなくなるなんて。
間宮も、この後きっと誰かと付き合い始めるのだろう。
それもひとりではなく、何人かとうまくやるのだろう。
妙に手慣れていた気がする。
「気をつけないと、下手するとあの本にあったみたいにドロドロの刃傷騒ぎになるよ」と何気なく言ってから、ハッとした。
もしかして、あの本は、望む持ち主を探して現れるのではないのか。
そして、役目を終えると、また目立たない本屋の棚に並んでいて、誰かが手に取る。
急に動悸がしてきた。
だけど、外でチュンチュンと鳴くスズメの声と明るい青空が、馬鹿な考えを払拭してくれた。
「休みなら」また寝なおそう。
そう思って私は何事もなかったかのようにベッドにもぐった。
『真夜中』
スマホから突然、ブー、ブー、とバイブ音がした。
今何時?ベッドの電気スタンドをつけると真夜中の2時だった。
「だれ〜、こんな時間に〜」と、文句を言いながらスマホを見る。
思わずドキッとした。家からだった。
嫌な予感を感じながら「もしもし」と言った。
「あぁ、多香子?」少し強張った母の声がした。なんだか動悸がしてきた。
「おばあちゃんがね、さっき亡くなったの、明日が……、あ、もう今日ね。夜にお通夜で翌日が告別式なんだけど、あんた、これからで悪いけど喪服持って帰ってこれる?」と、母が聞く。
「うん、大丈夫。LINEで友達に送っておくから、大学も忌引で休むから」
そういうと、母が安堵したように
「ああ、良かった。お姉ちゃん、ちょうど今夜、夜勤だっていうの、夜勤明けに、すぐ来てっていうのも可哀想でね。あ、でも告別式は出られるって。」
裕子お姉ちゃんは病院の看護師だ。
人数もそんなに余裕がなく、なかなか代わってもらう訳にも行かないらしい。
急いで仕度をする。
この時間の家からの電話は、たぶんおばあちゃんに何かある時だと思っていた。でも、亡くなるなんて。
クローゼットの中の喪服を出してきちんとたたんで仕舞う。
靴はちょっとヒールの低めのプレーンなのがあるからそれにしよう。
一応、もう大学生だから、一通りは用意してある。クローゼットの一番奥の所に紙袋に、告別式に出席するとき用の物をまとめて入れてある。
スーツケースに必要なものを入れた。
普段の服とかは家に置いてある。
急いで薄めのメイクをして、髪を梳かす。後ろでハーフアップにして黒のリボンのついたヘアクリップで留める。
よし、と夜中なのでそぉっとドアを閉め鍵をかけると、音がしないようスーツケースを手で持ってアパートの階段を降りる。
普段あまりパンプスは履かないので、スーツケースの重さで歩きにくい。
車に乗せると、運転席にまわり、シートベルトをして、真夜中の道を走り出した。
家までは二時間位で着く。
夜中なのに電気が全部ついていた。
(当たり前か)そう思いながら、車から降りると、母が出てきた。
母はチャコールグレーのトップスに黒のスカートを履いていた。足元はサンダル履きだが。
「悪かったわね、疲れたでしょう?」
そう言いながら、近付いてきた。
声は元気だが、そばで見ると母はとても疲れてみえた。
「お母さん、寝てないの?おばあちゃん、いつ亡くなったの?」と言うと、
「もうここひと月はずっと入院してたの。食べられなくなっちゃってね。」
全然知らなかった。
夏休みに帰った時も、やつれてはいたけれど、まだまだ元気そうだった。
母にそう言うと、
「あんた、小さい頃はおばあちゃんっ子たったじゃない。あんたが帰る日はおばあちゃん、布団をたたんで元気そうにしてたのよ。あんたによけいな心配、かけたくなかったんでしょう」
私は、私は何も言えず母の後ろをついて家に入った。
「おじさん、おばさん」久しぶりに会う、親戚がもうだいぶ来ていた。
「多香子ちゃんも大人びたわね」
「大学生活は楽しいかい?」
ずいぶん会ってないのでみんなから一斉にいろいろ言われた。
「全くね、こんな時くらいじゃないと、みんな揃わないなんて、いやよね」と母が言いながらお茶を入れようとしていたので、慌てて
「お母さん、私やるから。少しは休んだら」と言うと、母の妹の君子叔母さんが感心したように
「多香子ちゃんもすっかり気遣いが出来る大人ね」と言いながら
「姉さん、多香子ちゃん、まだ母さんに会ってないんじゃないの?」と言うと、母は慌てたように
「あら嫌だ、多香子、来て」と言って
おばあちゃんの部屋に行こうとしたので、「いいよ、お母さん。私ひとりでお参りしてくるから、お母さん、今のうちに少しでも休んでいて」
すると母が急に涙ぐみ、「言っても仕方ないけれど、こんな時はやっぱりお父さんに生きていてほしかったわ」
と言った。やはり気持ちが弱っているのだろう。
「私とお姉ちゃんでがんばるから、お母さんはもうあまり動かなくていいよ」と言わずにはいられなかった。
それほど母は憔悴していたのだ。
──ごめんね、お母さん、家にいなかったから何も出来なくて。
私は唇を噛み、おばあちゃんの部屋へと向かった。
おばあちゃんは、しばらく見ないうちに、すっかり老人のそれになっていた。
「おばあちゃん、多香子だよ。ただいま」と言ってお線香を上げると、その香りに、昔を思い出した。
両親が働いていたので、小学校の頃は「ただいま〜!」と帰ってくると「多香子かい?おかえり」とにこにこしながら玄関に出てきてくれた。
そして、おばあちゃんの部屋でおやつを食べながら、学校であった話をいろいろ話して聞かせた。
おばあちゃんはいつも、優しく微笑んで「そう」と言いながら楽しそうに聞いていた。
そして「はい、これはおばあちゃんと多香子の好きな物」と言って、黒い大きな飴をいつもふたつ出して、ひとつずつ口に入れて「おいしい!」「おいしいねぇ」と、顔を見合わせて笑った。
そんな優しいおばあちゃんが大好きだった。
そして、中学生になり、部活で帰りがいつも夕飯時になると、ご飯の後、おばあちゃんの部屋に行って、今日のあった事をいろいろ話した。
おばあちゃんは、そうして穏やかに聞いていると、「はい」と大きな黒い飴をふたつ出して、ふたりでひとつずつ舐めた。おいしかった。
高校生になり、部活の他に、彼氏ができて、帰りは更に遅くなった。
休みの日はデートがあるので、おばあちゃんの部屋へは、帰った時、ちょっと入るだけになった。
私が高校2年の時に父が仕事中突然倒れて、呆気なく亡くなった。
心筋梗塞だった。
私は、部活をやめ、バイトをするようになった。彼氏とも疎遠になりなんとなく別れた。
お姉ちゃんは看護師1年生だった。毎日疲れると、でも嬉しそうだった。
私は休みの日もバイトを入れていたので、疲れていた。母に何度か
「バイトで疲れてるのはわかるけれど少しはおばあちゃんのところへ行ってあげなさい。全く、昔はあんなにおばあちゃんっ子だったのに」と言われ、一緒に住んでいるのに、バイトで夕飯にもいないので、朝しか顔を合わせない。でもその時は、顔を合わせているんだから、と思っていた。
バイトのない日、久しぶりにおばあちゃんの部屋に入ろうとして、障子に手をかけると、(家の障子には真ん中あたりにガラスが入っているのだ)おばあちゃんが背中を丸めて、テレビも入れず、ただ、座っていた。
それははっと胸を突かれたような、『寂しさ』の塊だった。
「おばあちゃん!」と言って入ると、何事もなかったかのように、穏やかに「多香子かい?」と、いつも通りの、昔からよく見ていたおばあちゃんだった。(気のせい?)そう思い、久しぶりに昔のように、いろいろな話をした。そしておばあちゃんは嬉しそうに「はい」と、昔よく舐めた、大きな黒い飴を出してきた。
私は笑いながら「いいよ、いらない、キャンディなら持ってるから」と言うと、「……そうだったねぇ、多香子も大きくなったのに、つい、おばあちゃんは忘れちゃってたよ。もう、こんな飴は今時、舐めないよねぇ」と少しさみしそうに戻した。
そして、大学生になり、家を出てひとり暮らしをする時も、おばあちゃんの部屋に報告に行くと「そうかい、早いねぇ、」と微笑みながら言い「淋しい時は、おばあちゃんに何時でも電話していいんだよ」と優しく言った。
私は、新生活がワクワクして待ち遠しかったので「え〜、大丈夫だよ〜」と笑いながら言った。
何だか、悪いことを言った気がして、「夏休みには帰ってくるから。そうしたらまた、ゆっくりおばあちゃんに会えるよ?」と言うと、優しく微笑み「そうかい?それはおばあちゃん、楽しみだねぇ。待っているから、体に気をつけるんだよ」と言った。
いつも通りのおばあちゃんだった。
夏休みに、たしかに帰ってきたが、地元の友達と遊んだり、ほとんど家にいなかった。一度だけ、おばあちゃんの部屋に行った。
「多香子は、困っていないかい?」と、おばあちゃんが突然聞いた。私は「何も困ってないよ。毎日楽しいよ」と言って「おばあちゃんは?」と何気なく笑いながら言った。ひと呼吸おいてから、
「おばあちゃんかい?楽しいよ」といつものように微笑みながら言った。
私は、顔をしかめて「この部屋、臭いね」と言った。
「うん、臭い。なんで気が付かなかったんだろ。あ!お仏壇のお線香の臭いだ、これ」と言うと、おばあちゃんは
「そうかい、多香子は嫌いだったんだね、ごめんね」とおばあちゃんが言ったので、笑いながら、別に謝るほどじゃないじゃない、と笑った。
ご飯の時、おばあちゃんがいないのに気づいて母に言うと「おばあちゃん、最近、あまり食欲ないからって、あまり食べないの。心配だから病院に連れて行ってみようかと思って」と言うので、私は、でも食べているなら大丈夫じゃないの?と済ませてしまった。
帰る時、おばあちゃんの部屋に顔を出し、「おばあちゃん、最近あまり食欲ないの?」と聞くとにこにこしながら
「年をするとねぇ、たくさん入らなくなるんだよ。病気じゃないから大丈夫だよ」と言ったので、
「でも、なるべく食べてね。私、今度は暮れのお休みに帰ってくるから」
ほらね、やっぱりおばあちゃん、なんともないじゃない。と思った。
そして、母から電話が来たのが10月だったのだ。
今は、お線香の香りが立ち込めると、ああ、おばあちゃんの部屋の香りだ、懐かしい、と思った。
不意にいつかのおばあちゃんの、寂しさの塊のような、背中を丸くして黙って座っていた、あの背中を思い出した。
「おばあちゃん、勝手に開けてごめんね」とひとり言を言いながら、おばあちゃんの茶箪笥の一番上の引き出しを開けてみた。
案の定、手のつかない、新しい袋のあの大きな黒い飴がいく袋も出てきた。中には手付かずで賞味期限が切れている物もいくつも出てきた。
私がいつ、欲しいと言ってもいいように、買っていたんだ。
「おばあちゃん、いつものひとつ頂戴」と言って、新しい袋を開け、口に入れる。
──優しい味。
それは、おばあちゃんそのものだった。目だたないけれど、見た目、特に目を引くものではないけれど、いつも同じに、優しかったおばあちゃん。
あんなに小さい頃は毎日おばあちゃんの部屋に来て、おばあちゃんと一緒に「おばあちゃんと多香子の好きな物」と言って、この飴を出してくれたのだ。ふたりでひとつずつ舐めながら「おいしいね!」と言ったのを、おばあちゃんは大切な思い出にして、まるであの時の飴のように思い出をゆっくり、ゆっくり独りで味わって寂しさを紛らわせていたのだ。
「はい、これはおばあちゃんの分」と言って枕元に置く。
何でもっと、おばあちゃんと話さなかったんだろう。
何で、きっとすごく待っていてくれた夏休みにも、ほとんど顔を出さなかったんだろう。
お線香が臭い、なんて、なんてひどい事を言っちゃったんだろう。
もう、あの優しい声で二度と「多香子」と呼んでくれないんだ。
私は、私はたまらず声を上げて泣いた。わんわん、子供みたいに泣いた。
おばあちゃん、おばあちゃん、おばあちゃん!!ごめんね。会いたいよ。
多香子かい?とどこかで声がした気がした。
『愛があればなんでもできる?』
私の母の口癖はちょっと普通と違って変だ。
「あんたね、愛があればなんでもできるんだよ!」だった。
だから私はいつも、母に言う。
「愛でお腹は膨れない」「愛で貯金は貯まらない」「愛でアパートは借りられない」「愛で面接は受からない」
いつもいつも、これは親子、逆ではないかと思う。
若い、世間知らずの娘がそういう事を言って、それを親がたしなめる。
それが普通ではないのだろうか?
でも、私はもう母に何も言わない。
母から『愛があれば(以下省略)』は死ぬほど聞かされてきたから。
「お母さんはね、両親にたくさん愛されて育ったから、こんな優しい性格なの、分かるでしょ?」とか、
「お母さんはね、優しい子に育ったから、友達も多かったの。知ってるでしょ?」そして極めつけが、
「お母さんはね、お父さんからたっくさんの愛をもらったから、こーんなに幸せで、だから元気で仕事もできてお料理も美味しくできるの!」と言う。
だから私が先ほど述べたような事を言っても母はびくともせずに
「それはあんたの感謝が足りないからでしょ?お父さんとお母さんの愛に感謝してないから、物事を全てネジ曲がって解釈するの」
「こんなに愛を注いだのだから、あんたは何でもできるのよ!」
それはもうすでに、アイドルのファンクラブ会員証No1番で、狂信的なアイドルの信者にも似ている。
何を言っても駄目なのだ。
「では、お母さんの愛を一身に受けて育った娘の私は、そろそろ学校に行ってくるよ」と皮肉めいた言葉を言っても、母は嬉々として、
「イヤだ、この子ったらやっと分かったの!そうよ〜、行ってらっしゃ〜い!」
私はため息をつき学校に行く。
「どうしたのさ、朝からため息なんてついて」と友達の麻子がバン!と肩を叩く。ゴリラに叩かれたかと思うくらい痛い。骨にヒビが入ったかもしれない。麻子は、良く言えば健康優良児だった(つまりはふくよかなのだ)
「いやー、また、家のお母さんがね」
「まさかまた朝から、おばさんの、『愛があればなんでもできるのよ〜』を聞かされたの?」と麻子が言う。
「そうだよ〜。もう本当にいい加減にしてほしいよ〜」と言って机に突っ伏す。この、不毛な母との会話はいったい何度した事だろう。
「でも、考え方が若々しくていいじゃない、恭子のお母さん。家なんていつも」そういうと、麻子は両手を腰に当て、怖い顔をして、
「いい?麻子。世の中、お金が1番なの。分かるでしょ?私がお父さんでどれほど苦労しているか。お父さんがもっと優秀だったら、もっといい会社に入っていたらこんなにお金の苦労もなかったのに」
「麻子は、お母さんの苦労を見てきているからわかると思うけれど、生活するって大変なのよ。なんと言っても食べていくにはお金がかかるの!だから、あなたはいい会社に入って、お金に苦労しない男を見つけるのよ」
麻子と同じく、麻子のお母さんも話が長いのだ。そして何より、甘いものに目がない。
毎日必ず大福2つとおせんべい1袋は食べるという。麻子は、そのせいで生活が苦しいんだと思うんだけどね、と言う。
「顔なんて、ついてればいいのよ!顔でお金が稼げる?稼げないでしょ?格好良くない、なんて3日で慣れるから、それよりお金のある人と結婚するのよ!」
そう言って、腰から手を話す。
「だから、お母さんが食べ過ぎなんだって。お父さん、いつも文句を言われて可哀想だよ〜」
でも、どちらかというと、母親というものは、麻子のお母さんのような人が大半なのではないだろうか。
だから、みんな高校を卒業すると、ひとり暮らしを始めるのだ。
でも、私はあまり家を出る気にはならなかった。
麻子みたいな思いをしてないし、母とはけっこう仲がいいのだ。
私は机から1時間目の教科書を出しながら言う。
「でも、麻子はなんだかんだ言って頭いいじゃない。それこそおばさんの言うように、いい会社に入ってお金のある人と結婚するかもよ」と言うと、
「恭子〜。私のこのスタイルでモテると思う?」と痛いところを突かれた。
「で、でもさ、男の人って彼女にするのと結婚するのは違うっていうじゃない?麻子みたいに包容力があって料理が上手な人は、男の人には最高じゃないかな〜」とごまかしたが駄目だった。麻子は本当に頭がいいのだ。
「だからぁ、彼女と付き合って結婚するんじゃない?私はどうすれば彼女になれるのさ」するどい。
「世の中、けっこうふくよかな人がいいって男の人が多いじゃない?」と私が苦し紛れに言って、憮然として麻子が口を開こうとしたら、予鈴が鳴った。
帰りは、麻子に捕まらないうちに下校した。
よう、という声で振り返ると
「なんだ、隆か」と言うと不満そうに
「なんだ、はないだろ、なんだは。幼馴染みが挨拶してるんだから、少しは愛想よくこたえろよ」不満そうに言う。
隆とは、家が隣同士なので、もはや家族ぐるみの付き合いだ。
「あっちゃんは?喧嘩したのかよ」と隆が麻子の事を聞いてくる。
「別に。何もないよ。でもさ」と朝話した、麻子との話をすると
「まぁ、確かにあっちゃんのおばさんみたいなのが圧倒的だよな。その点、恭子のおばさんは、進んでいるよ」
そうかなあ。
「家だって、あっちゃんのおばさんと同じだよ、うるさいのなんのって。N大行けってうるさいんだよ。俺の成績で入れるかって話だろ?」と隆は、今朝の私みたく深いため息をついた。
「N大かぁ、ちょっとおばさん、自分の息子の事、全然わかってないんじゃない?」と言うと、隆は顔をしかめ、
「そんなはっきり言うかよ、幼馴染みなのに」ちょっとしょげて見えたので「まあ、元気だしなよ。ねえ!今日は私が特別に隆に好きな物奢ってあげるよ。ただしマ○ドナル○だけどね」と言うと、とたんに機嫌を直し
「やった!!さっすが恭子ちゃん」
何が恭子ちゃんだ。まぁいいや。
私も気のおけない隆と笑って話すのが好きだ。
でも、と考えた。
こんな風に、気のおけない幼馴染みの隆との楽しい時間も、お互い文句を言い合いながらストレス発散している友達の麻子とも、いつかは離れるときが来るのだ。
それはイヤだ、だって悲しいじゃない。
お母さんに言えば、また「愛があるじゃない!幼馴染み愛!そして友達愛!ほらね!愛があればなんにも心配ないでしょう?」と言うに違いない。
でもね、お母さん。
卒業したら現実問題として、どこかの大学に行く事になるんだよ。
出来たら家から通える大学に通って、そこで友達作って、夏休みは麻子や隆と思いっきり遊んで、そして単位の心配をしながら、卒論の準備もしながら、リクルートスーツに身を包み、いろいろな企業を回るんだよ。
そして、どこかの会社に運良く入れれば、そこで働いて誰かと知り合ってつきあって、いずれ結婚するのかな。
なんだか、自分の人生がもう決まったレールの上を粛々と自分の意志とは関係なく進む様でなんだか、それでいいのか、初めて考えて急に怖くなった。
この疑問は、どんな愛があれば解決するのかな、お母さん。
第一、愛があればなんでもできるのかな。
それは、どんな『愛』なの?
お母さん。
『後悔』
今日の皆さんの書く事がだいたい見当がつく。
「後悔のない人生なんてありはしない。私は今まで後悔だらけだ」
どうです?
こんな感じではないでしょうか?
ところが私は、失敗ばかりやらかすのに、後悔という事をあまりしないのだ。
かなり、手酷い思いをしても、喉元過ぎればなんとやら。
またすぐケロッとして同じ事を繰り返す。
だって、失敗しない人間なんて、いないもん、という子供みたいな開き直りで、すごい失敗や同じ事を繰り返しても、そんなに後悔はしてないのだ。
まあ、遠足行けば山から転がり落ちるし、友達と跳び箱が並んでる上に座って話していれば、後ろにひっくり返り、ちょうど2つの跳び箱の間にV字に挟まり、友達は助けようと覗いては、お腹を抱えて笑っていて全然助けてくれないし。
学校行事で階段の2階から下までダダダダっと落ちるし。
幸い、横長のリュックだったのでそれが下になって大した事はなかった。
片足の腿に真っ黒な大きなアザができたくらいだ。
私が後悔が少ないのは、やりたい!とウズウズしたらやらずにはいられないからではないかと思っている。
やった事で失敗しても対して気にしない。
でも、やらなかったら、きっと山ほど後悔する気がする。
やりたいと思うとやらずにいられないから、後悔が少ないのだ、と自分では思っている。
『風に身をまかせ』
私、津田小夜子は、高校生になった時から、同じクラスの井本ヒカルに憧れていた。
言っておくが、ヒカルは女生徒だ。
どのグループにも属さず誰とも距離をとり、いつも一人で本を読んでいた。
艶のある美しい黒髪をショートボブにカットして、いつも彼女は、毅然としていた。
それが、とても自然体で美しかった。
真っ白い肌も美しく黒目がちの意志の強そうな顔をしていた。
私は、元々少し肌の色が黒くて髪はクセっ毛だったので、ポニーテールにいつもしていた。
ある日、委員会があり帰りが遅くなった。
クラスに鞄を取りに戻ると、井本ヒカルがいつものように、まだ本を読んでいた。
ー誘ってみたいなー
そう思って、思い切って「あの、井本さん」と言うと、彼女は本から顔を上げ「なに?」と言った。真っ直ぐこちらを見る目、少しドキドキしながら「良かったら一緒に帰らない?それで、時間があったらだけど、一緒にお茶しない?」と言うと、本をパタン、と閉じ「いいよ」と言った。
やった!やっと彼女と話せた!
そしてふたりは、帰りによくみんなが寄るカフェに行き、私はストレートの紅茶、彼女はブラックコーヒーを頼んだ。
そして、飲み物が来ると、何を話していいのか、誘う事に一生懸命で何も考えてなかった。
私はなんだかドギマギして「あの、井本さん」と言い出すと「ヒカルで良いよ、その代わり、あなたの事もサヨって呼ぶね」と言った。嬉しかった。
私は人見知りをするので、なかなか仲の良い友達ができないのだ。「ヒカルは何故、私の誘いに来てくれたの?」と言うと、コーヒーを冷ましながら「あなたが誘ってくれたから」と言った。
びっくりしてポカン、としていると、クックッと笑いながらヒカルは「ほらね、サヨってとても正直なのね。私、そういう人と友達になりたかったの」と言った。本当に、嬉しかった。
だから、翌日からは私とヒカルはいつも一緒にいた。まるで最初から決まっていたかのように。
一緒にお昼を食べ、休み時間は必ず一緒に過ごし、帰りも一緒だった。
そして、空には白くモクモクと入道雲ができる頃、せわしなく鳴くミンミンゼミの声を聞きながら校庭の木陰でひっくり返り休んでいる時、ヒカルが突然「ずっと友達でいようね」と言った。それはあまりにも当たり前で、何を今更、と思いながら「うん、もちろん!」と言った。
2学期のはじめ、お昼を食べている時、ヒカルが唐突に「彼氏が出来た」と言った。
私は唐揚げを飲み込もうとしていたので危うくむせるところだった。
「へ?いつの間に」となんとも気の抜けたことを言うと、「元々親同士が仲良くてさ、夏休みに一緒に海に行ったりしたの、その時告白されて。全然今まで意識とかしてなかったんだけどさ」と、少し早口で一気にヒカルが話す。白い肌がポゥっと少し赤くなる。
「……おめでとう!良かったじゃない!」と笑顔で言うと、ヒカルはホッとしたように、「あ、でもサヨとは今まで通り友達だよ。そこは何も変わらないよ」と言った。
でも、私は無理をしていた。
そしてかなりショックを受けていた。
夏休みにも一緒に何度も出かけてのに、一言もそんな事を言ってなかった。
でも、ヒカルの、打ち明けてくれた気持ちを考え、何でもない顔をして祝福したのだ。
それからは、今までは毎日一緒に帰っていたのが3回に1回は彼氏と帰るようになり、そのうち週の大半は彼氏と帰るようになった。
やがて、言いにくそうに「ごめんね、サヨ、帰りは一緒に帰れなくなっちゃった」とヒカルは言った。いつか、そうなる気がしていたが、私は笑顔で「いいじゃない、帰りくらい一緒に帰りなよ」と言った。
ホッとした顔のヒカルを見て、初めてジェラシーを感じた。
いや、本当はもっと前から感じていたのに、あえて気づかないフリをしていたのだ。
お昼は一緒に食べたけれど、話の大半がヒカルの彼氏との話だった。
私はお腹に何か塊を感じたが、それを押さえつけ、無邪気に笑って聞いていた。
休みの日も月に2度は一緒に出かけていたのに、1度になった。
出かけていても、どこかうわの空だった。
だから私はヒカルに笑顔で「ごめーん、休みの日、出かけられなくなっちゃった。お母さんに、休みの日くらい手伝えって怒られてさ」と手を合わせると「ありゃー、いいよ。お母さんに怒られないように手伝ってあげなよ」とホッとしたように言った。
そのうち、ヒカルは言いづらそうに、「あのさ、サヨ、お昼を彼氏が一緒に食べたいって言うんだよね。」と言うので、「いいじゃない!私とは学校にいる間一緒なんだから、お昼くらい一緒に食べなよ」と言うと「ありがとう、サヨにはいつも感謝してる」と言った。
感謝はしても、一緒にほとんどいないじゃない、という言葉を飲み込んで。
私は、入学した当初のように、また一人でお昼を食べるようになった。
でも、最初には感じなかった淋しさを感じていた。
みんな、誰かと食べている。
疎外感を感じながら、なんでもない様に一人でお弁当を食べていた。
ある日、朝は気持ち良く晴れていたのに、帰る頃になって急にひどい雨が降ってきた。
下駄箱で靴を履き替えていると屋根の下に、ヒカルと多分ヒカルの彼氏が立っていた。
カサを持っていないのだろう。
私は、母親がうるさいので、いつも折りたたみのカサを鞄に入れていた。
それを取り出すと、しばらく立っていたが、笑顔を作り「ヒカル!」と言った。
「サヨ!潤くん、いつも話してるサヨだよ」と、ヒカルが彼氏に言うと「ああ」とだけ言った。
「ヒカル、カサ、ないんじゃない?これ使って」と折りたたみのカサを渡すと、びっくりしたように「だって、それじゃサヨが濡れちゃう!」と言うので笑顔で「大丈夫!私、置きガサあるから」と言うと、でも、と言っているヒカルに無理やりカサをを手渡した。
少し躊躇ったが、ヒカルはカサを受け取ると「ありがとう、サヨ、本当は困ってたの!」と言って手を振ってふたりで帰って行った。
タップリ15分経ってから、私はどしゃ降りの雨の中、歩きだした。
置きガサがあるなんて、もちろんウソだ。
でも、ヒカルと彼氏が困る方が嫌だった。
本当に?それは、私の本心?
いいや!そうじゃない!!
心が痛かった。雨に混じって塩からい物が口に入る私は泣きながらいつしか歩いていた。
すると不意に「何やってんだよ、お前!」と言う声と同時に、腕をグイっと掴まれ大きな黒いカサを差し掛けられた。
見ると同じクラスの岡田くんだった。
そして訳も分からず岡田くんに連れられ、オシャレな雑貨屋さんに入った。
その時の私は木偶人形の様にされるがままになっていた。
木製の扉が開くと、カランコロンといい音がした。
「あら、宏、おかえりなさい」と素敵なワンピースを着た女性が声を掛けてきた。
「あらあら、大変!びしょ濡れじゃない、そのままでは風邪を引くわよ。宏、シャワーをすぐ使わせてあげて。着替えは」と言うのを聞き、ようやく私は「体操着はあります」と言った。すると「ここ、俺んち。これ母さん」と岡田くんが言うと「シャワー、こっち」、下に着る物は母さんが出しておくから、と言って2階に上がる。お風呂場を教えてもらい、ひどく体が冷えているのにようやく気づいた。コックをひねって熱いシャワーを浴びていると、ようやく感情も戻ってきた。
脱衣場にはかごの中に新しいショーツとブラタンクトップが入っていた。
多分、売り物であろうそれを身に着け体操着を着て、置いてあったドライヤーで髪を乾かすと下に降りた。
すると、店内の奥のガラスのテーブルに岡田くんが、紅茶を持ってきてくれた。「ハチミツ入りだよ。ハチミツは喉にいいんだよ」とカチャカチャと危なっかしくガラスのテーブルに置いた。
「ありがとう、いただきます」と言うと、ふうふうと熱々の紅茶をコクン、と一口飲んだ。少し入ったハチミツの甘さが心地良かった。
胃を通って体に染み渡る。
「良かったら、これも食べて」と言って岡田くんのお母さんがハムとキュウリのサンドイッチを出してくれた。
びっくりしてると「どうせ宏が食べるからよけいに作っただけなの」何か食べると体が温まるのよ、と言って微笑んだ。上品で優しそうな人だった。
「じゃあ、いただきます」と言って食べたら美味しくてお皿のを熱い紅茶と一緒に全て食べてしまった。
その時になって、初めてなのにこんなにしてもらって、ガツガツ食べてしまって恥ずかしくなった。
「ごめんなさい、お腹、空いてないと思っていたのに全部食べてしまって」と言うと、「良かったじゃん、これも飲んでおけよ」と言って岡田くんが、水の入ったコップと市販の風邪薬を持ってきてくれた。
飲まないとずっと立っているので、仕方なく薬を水で飲んだ。
岡田くんのお母さんに「あの、肌着すみません。あれ、売り物ですよね?私、お金払います」と言うと「いいのよ、雑貨屋さんで肌着を買う人なんてあまりいないの。一応置いてあるだけだから」と言ってお金を受け取ってくれなかった。
「お前さ」と急に岡田くんが言い出した。
「井本になんでそこまで遠慮するの?友達だって言うんなら対等なはずだろ。見てるとお前達、最近、お前が我慢してばかりじゃん。それって友達なの?」私は座った脚の上で握り拳を作る。岡田くんは、全部見て知っていたのだ。
それは、私が目をそらして居続けた真実だった。
「だって、だって、そうしたら、今度は私が一人になっちゃう」思わず心に思っていた事を言ってハッとする。
そうだ、私は、今はもう一人になりたくないんだ。
「じゃあ、俺が友達になるよ」はあ?と思って岡田くんを見ると大真面目だった。
「お前が一人で弁当食うの嫌なら俺と食おう。帰りが一人が嫌なら俺と帰ろう。俺と友達になればいいじゃん」思ってもいない事を言われ、混乱した。
「で、でも岡田くん、そうしたら岡田くんが友達といられなくなっちゃうじゃない」と言うと
「馬鹿だな、べったり一緒にいなくても友達は友達だ。ちゃんといるよ。」
「そんな事で離れていく奴は友達じゃないよ。俺、違う高校に行って、夏休みに久しぶりに会った友達いるけれど、何も変わらないぞ」
泣きたくないのに、涙がポロポロあとからあとから出てきて止まらなくなった。
私は、そうだ。ずっと我慢していたんだ。
「あら、晴れたようよ」とお母さんが柔らかく言った。
外を見ると青空が出ていた。
気がつくと、いつも重たかった心が晴れやかだった。今の私の心のようだ。
「あの、また来てもいいですか?」と、岡田くんのお母さんに言うと「もちろん、嬉しいわ。こんな可愛らしいお友達が出来て」と言って優しく抱きしめてくれた。
「俺、途中まで送ってくる」と岡田くんがお母さんに言うと、私は頭を下げてからお店を出た。
「お〜、いい風だな。涼しくなった。」と岡田くんが言って私も風に吹かれて心地良かった。
「岡田くん、今日はありがとう」と言うと、いいさ、と言って笑った。
その優しい笑顔に何故かドキッとした。
「岡田くん、私、しばらくは誰かにすがるようなのはしたくない。だけど気持ちの整理がついたら、一人で立っていられるようになったら、友達になってね」と言うと、おう、と言って笑った。
今は、しばらくは心のままに、吹く風にこの身を任せてみよう。
そうしたら、何かが見える気がした。
明日になったら、ヒカルにもう友達ごっこはやめよう、と言おうと思った。
そして、出会った頃の憧れていたヒカルの様に一人を楽しめるようになろう、と思った。
それが平気になるまでは。
帰り道、心地良い風に吹かれて少しの不安と軽くなった心で歩いて行った。