『真夜中』
スマホから突然、ブー、ブー、とバイブ音がした。
今何時?ベッドの電気スタンドをつけると真夜中の2時だった。
「だれ〜、こんな時間に〜」と、文句を言いながらスマホを見る。
思わずドキッとした。家からだった。
嫌な予感を感じながら「もしもし」と言った。
「あぁ、多香子?」少し強張った母の声がした。なんだか動悸がしてきた。
「おばあちゃんがね、さっき亡くなったの、明日が……、あ、もう今日ね。夜にお通夜で翌日が告別式なんだけど、あんた、これからで悪いけど喪服持って帰ってこれる?」と、母が聞く。
「うん、大丈夫。LINEで友達に送っておくから、大学も忌引で休むから」
そういうと、母が安堵したように
「ああ、良かった。お姉ちゃん、ちょうど今夜、夜勤だっていうの、夜勤明けに、すぐ来てっていうのも可哀想でね。あ、でも告別式は出られるって。」
裕子お姉ちゃんは病院の看護師だ。
人数もそんなに余裕がなく、なかなか代わってもらう訳にも行かないらしい。
急いで仕度をする。
この時間の家からの電話は、たぶんおばあちゃんに何かある時だと思っていた。でも、亡くなるなんて。
クローゼットの中の喪服を出してきちんとたたんで仕舞う。
靴はちょっとヒールの低めのプレーンなのがあるからそれにしよう。
一応、もう大学生だから、一通りは用意してある。クローゼットの一番奥の所に紙袋に、告別式に出席するとき用の物をまとめて入れてある。
スーツケースに必要なものを入れた。
普段の服とかは家に置いてある。
急いで薄めのメイクをして、髪を梳かす。後ろでハーフアップにして黒のリボンのついたヘアクリップで留める。
よし、と夜中なのでそぉっとドアを閉め鍵をかけると、音がしないようスーツケースを手で持ってアパートの階段を降りる。
普段あまりパンプスは履かないので、スーツケースの重さで歩きにくい。
車に乗せると、運転席にまわり、シートベルトをして、真夜中の道を走り出した。
家までは二時間位で着く。
夜中なのに電気が全部ついていた。
(当たり前か)そう思いながら、車から降りると、母が出てきた。
母はチャコールグレーのトップスに黒のスカートを履いていた。足元はサンダル履きだが。
「悪かったわね、疲れたでしょう?」
そう言いながら、近付いてきた。
声は元気だが、そばで見ると母はとても疲れてみえた。
「お母さん、寝てないの?おばあちゃん、いつ亡くなったの?」と言うと、
「もうここひと月はずっと入院してたの。食べられなくなっちゃってね。」
全然知らなかった。
夏休みに帰った時も、やつれてはいたけれど、まだまだ元気そうだった。
母にそう言うと、
「あんた、小さい頃はおばあちゃんっ子たったじゃない。あんたが帰る日はおばあちゃん、布団をたたんで元気そうにしてたのよ。あんたによけいな心配、かけたくなかったんでしょう」
私は、私は何も言えず母の後ろをついて家に入った。
「おじさん、おばさん」久しぶりに会う、親戚がもうだいぶ来ていた。
「多香子ちゃんも大人びたわね」
「大学生活は楽しいかい?」
ずいぶん会ってないのでみんなから一斉にいろいろ言われた。
「全くね、こんな時くらいじゃないと、みんな揃わないなんて、いやよね」と母が言いながらお茶を入れようとしていたので、慌てて
「お母さん、私やるから。少しは休んだら」と言うと、母の妹の君子叔母さんが感心したように
「多香子ちゃんもすっかり気遣いが出来る大人ね」と言いながら
「姉さん、多香子ちゃん、まだ母さんに会ってないんじゃないの?」と言うと、母は慌てたように
「あら嫌だ、多香子、来て」と言って
おばあちゃんの部屋に行こうとしたので、「いいよ、お母さん。私ひとりでお参りしてくるから、お母さん、今のうちに少しでも休んでいて」
すると母が急に涙ぐみ、「言っても仕方ないけれど、こんな時はやっぱりお父さんに生きていてほしかったわ」
と言った。やはり気持ちが弱っているのだろう。
「私とお姉ちゃんでがんばるから、お母さんはもうあまり動かなくていいよ」と言わずにはいられなかった。
それほど母は憔悴していたのだ。
──ごめんね、お母さん、家にいなかったから何も出来なくて。
私は唇を噛み、おばあちゃんの部屋へと向かった。
おばあちゃんは、しばらく見ないうちに、すっかり老人のそれになっていた。
「おばあちゃん、多香子だよ。ただいま」と言ってお線香を上げると、その香りに、昔を思い出した。
両親が働いていたので、小学校の頃は「ただいま〜!」と帰ってくると「多香子かい?おかえり」とにこにこしながら玄関に出てきてくれた。
そして、おばあちゃんの部屋でおやつを食べながら、学校であった話をいろいろ話して聞かせた。
おばあちゃんはいつも、優しく微笑んで「そう」と言いながら楽しそうに聞いていた。
そして「はい、これはおばあちゃんと多香子の好きな物」と言って、黒い大きな飴をいつもふたつ出して、ひとつずつ口に入れて「おいしい!」「おいしいねぇ」と、顔を見合わせて笑った。
そんな優しいおばあちゃんが大好きだった。
そして、中学生になり、部活で帰りがいつも夕飯時になると、ご飯の後、おばあちゃんの部屋に行って、今日のあった事をいろいろ話した。
おばあちゃんは、そうして穏やかに聞いていると、「はい」と大きな黒い飴をふたつ出して、ふたりでひとつずつ舐めた。おいしかった。
高校生になり、部活の他に、彼氏ができて、帰りは更に遅くなった。
休みの日はデートがあるので、おばあちゃんの部屋へは、帰った時、ちょっと入るだけになった。
私が高校2年の時に父が仕事中突然倒れて、呆気なく亡くなった。
心筋梗塞だった。
私は、部活をやめ、バイトをするようになった。彼氏とも疎遠になりなんとなく別れた。
お姉ちゃんは看護師1年生だった。毎日疲れると、でも嬉しそうだった。
私は休みの日もバイトを入れていたので、疲れていた。母に何度か
「バイトで疲れてるのはわかるけれど少しはおばあちゃんのところへ行ってあげなさい。全く、昔はあんなにおばあちゃんっ子だったのに」と言われ、一緒に住んでいるのに、バイトで夕飯にもいないので、朝しか顔を合わせない。でもその時は、顔を合わせているんだから、と思っていた。
バイトのない日、久しぶりにおばあちゃんの部屋に入ろうとして、障子に手をかけると、(家の障子には真ん中あたりにガラスが入っているのだ)おばあちゃんが背中を丸めて、テレビも入れず、ただ、座っていた。
それははっと胸を突かれたような、『寂しさ』の塊だった。
「おばあちゃん!」と言って入ると、何事もなかったかのように、穏やかに「多香子かい?」と、いつも通りの、昔からよく見ていたおばあちゃんだった。(気のせい?)そう思い、久しぶりに昔のように、いろいろな話をした。そしておばあちゃんは嬉しそうに「はい」と、昔よく舐めた、大きな黒い飴を出してきた。
私は笑いながら「いいよ、いらない、キャンディなら持ってるから」と言うと、「……そうだったねぇ、多香子も大きくなったのに、つい、おばあちゃんは忘れちゃってたよ。もう、こんな飴は今時、舐めないよねぇ」と少しさみしそうに戻した。
そして、大学生になり、家を出てひとり暮らしをする時も、おばあちゃんの部屋に報告に行くと「そうかい、早いねぇ、」と微笑みながら言い「淋しい時は、おばあちゃんに何時でも電話していいんだよ」と優しく言った。
私は、新生活がワクワクして待ち遠しかったので「え〜、大丈夫だよ〜」と笑いながら言った。
何だか、悪いことを言った気がして、「夏休みには帰ってくるから。そうしたらまた、ゆっくりおばあちゃんに会えるよ?」と言うと、優しく微笑み「そうかい?それはおばあちゃん、楽しみだねぇ。待っているから、体に気をつけるんだよ」と言った。
いつも通りのおばあちゃんだった。
夏休みに、たしかに帰ってきたが、地元の友達と遊んだり、ほとんど家にいなかった。一度だけ、おばあちゃんの部屋に行った。
「多香子は、困っていないかい?」と、おばあちゃんが突然聞いた。私は「何も困ってないよ。毎日楽しいよ」と言って「おばあちゃんは?」と何気なく笑いながら言った。ひと呼吸おいてから、
「おばあちゃんかい?楽しいよ」といつものように微笑みながら言った。
私は、顔をしかめて「この部屋、臭いね」と言った。
「うん、臭い。なんで気が付かなかったんだろ。あ!お仏壇のお線香の臭いだ、これ」と言うと、おばあちゃんは
「そうかい、多香子は嫌いだったんだね、ごめんね」とおばあちゃんが言ったので、笑いながら、別に謝るほどじゃないじゃない、と笑った。
ご飯の時、おばあちゃんがいないのに気づいて母に言うと「おばあちゃん、最近、あまり食欲ないからって、あまり食べないの。心配だから病院に連れて行ってみようかと思って」と言うので、私は、でも食べているなら大丈夫じゃないの?と済ませてしまった。
帰る時、おばあちゃんの部屋に顔を出し、「おばあちゃん、最近あまり食欲ないの?」と聞くとにこにこしながら
「年をするとねぇ、たくさん入らなくなるんだよ。病気じゃないから大丈夫だよ」と言ったので、
「でも、なるべく食べてね。私、今度は暮れのお休みに帰ってくるから」
ほらね、やっぱりおばあちゃん、なんともないじゃない。と思った。
そして、母から電話が来たのが10月だったのだ。
今は、お線香の香りが立ち込めると、ああ、おばあちゃんの部屋の香りだ、懐かしい、と思った。
不意にいつかのおばあちゃんの、寂しさの塊のような、背中を丸くして黙って座っていた、あの背中を思い出した。
「おばあちゃん、勝手に開けてごめんね」とひとり言を言いながら、おばあちゃんの茶箪笥の一番上の引き出しを開けてみた。
案の定、手のつかない、新しい袋のあの大きな黒い飴がいく袋も出てきた。中には手付かずで賞味期限が切れている物もいくつも出てきた。
私がいつ、欲しいと言ってもいいように、買っていたんだ。
「おばあちゃん、いつものひとつ頂戴」と言って、新しい袋を開け、口に入れる。
──優しい味。
それは、おばあちゃんそのものだった。目だたないけれど、見た目、特に目を引くものではないけれど、いつも同じに、優しかったおばあちゃん。
あんなに小さい頃は毎日おばあちゃんの部屋に来て、おばあちゃんと一緒に「おばあちゃんと多香子の好きな物」と言って、この飴を出してくれたのだ。ふたりでひとつずつ舐めながら「おいしいね!」と言ったのを、おばあちゃんは大切な思い出にして、まるであの時の飴のように思い出をゆっくり、ゆっくり独りで味わって寂しさを紛らわせていたのだ。
「はい、これはおばあちゃんの分」と言って枕元に置く。
何でもっと、おばあちゃんと話さなかったんだろう。
何で、きっとすごく待っていてくれた夏休みにも、ほとんど顔を出さなかったんだろう。
お線香が臭い、なんて、なんてひどい事を言っちゃったんだろう。
もう、あの優しい声で二度と「多香子」と呼んでくれないんだ。
私は、私はたまらず声を上げて泣いた。わんわん、子供みたいに泣いた。
おばあちゃん、おばあちゃん、おばあちゃん!!ごめんね。会いたいよ。
多香子かい?とどこかで声がした気がした。
5/17/2023, 2:32:57 PM