猫田こぎん

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12/8/2023, 11:54:09 AM

#ありがとう、ごめんね


 感謝と謝罪を同時に言うような人間は卑怯だ。
 私はそういう人間が嫌いだ。


2023/12/08 猫田こぎん

12/8/2023, 3:32:09 AM

#部屋の片隅で


 私が暮らす部屋の片隅には穴が空いている。
 物理的に壁を破壊してできた穴ではない。この部屋には三年ほど住んでいるが、内見の時はもちろん、入居してから全く気づかなかった。
 それが1ヶ月ほど前、ふと、「穴が空いている」と思ったのだ。
 穴は直径五センチほど。あまり大きくない。床から10センチあまりの高さに空いている。もう少し低い位置ならば、子供の頃にカートゥーンアニメで見たネズミの巣穴のようだ。
 1kの小さな単身向けアパートの2階。穴が空いている壁の向こうは隣の部屋ではなく、外。
 ちょうど、ベッドを背もたれに座ってテレビを見る方向の左隅の方に黒々と空いていた。
 むろん私が空けた覚えはない。白い壁に黒いシミのように空いている穴を見つけたときは、恐怖や不安よりも好奇心が優った。ぽっかりと空いているが奥は見えない。
 向こう側ももちろん見えないし、深さが知れない。
 空気が吐き出されることも、吸い込まれることもなさそうだ(気付いたのは冬の寒い朝だったけれど、穴から外気が入ってきている様子はなかった)。

 穴のことを大家さんや管理会社に伝えることはしなかった。
 繰り返される単調な毎日に飽きてしまっていたし、そんなエネルギーもなかったのだ。
 退去時に穴のことを咎められたらどうしようという考えは脳裏を掠めたが、目の前の「面倒くさい」にはなにものも勝てない。
 なにせ、もう何年も同じような日々だ。
 毎日家と会社の往復だけの生活。晩御飯は最寄駅から家までの間にあるチェーン店の弁当屋で日替わり弁当を買って帰ったり、駅前のスーパーで半額のお惣菜を買ったり、なかなか心と時間に余裕がない。
 こんなんじゃ結婚しても料理なんてできないと思いつつ、まあ、結婚の予定なんてない上に彼氏すらいないんだから、私は一生このまま独身で他人の作った冷飯を温めて食べていくのだろうと思う。
 最初の一週間目。穴との同居は順調そのものだった。
 二週間が過ぎた頃、微妙に穴の大きさが違う時があることに気がついた。
 テレビに顔を向けると視界の端に映るため、どうしても穴を見てしまうわけだが、5センチくらいだったはずが、手のひら大になったり、逆にものすごく小さくなっている時がある。
 消えることはなく、どれだけ小さくとも1センチ以下にはならないようだ。
 あまり大きいと不気味だと思いつつ、休日のある日、ぼんやりと好きなスマホゲームをしていたときだ。欲しいカードが1回のガチャで出た。
 やったー!と誰もいない部屋で大きな声を出し、両手を振り上げて喜んでいると、ふと穴が目に入った。
 見る間に、シュルシュルと穴が小さくなった。
「え?縮んだ?」
 驚き、穴に近寄ってみる。先ほどまでの喜びが消え、不安な気持ちになった瞬間、穴がにゅるにゅると大きくなった。
「今度は大きくなった?え、やだ、気持ち悪いな」
 手のひら大の大きさになって止まり、それ以上は動かなかった。
 大きさが変わった以外、変化はなさそうだ。
 考えてもわからないと感じ、壁から身を離して座り直した。
 その夜、次の日の仕事のことを考え、休日中にやらなくてはいけない積み残しの仕事を嫌々やって、それが終わり、顔を上げると、穴がまた一段と大きくなっていた。
 この穴は私のストレスや不安で大きさが変化するのだ。
 そうわかったのが最近。そして今に至る。

 今日は珍しく映画を観に行くため、早起きをした。
 休みの日に出かけるなんていつぶりだろう。
 休日はベッドかベッド下のラグの上でダラダラするだけが多かったので、春めいてきたこともあるし、春休みに合わせた映画を見ようと思い立ったのだ。
 穴はとても小さくなっている。私は浮き足立っているからね。
 久しぶりのフルメイク。仕事の時は必要最低限の化粧を面倒だと文句を言いながらするが、誰に会うわけでなくとも、こういう時のメイクは心の高鳴りが違う。
 ずっと繁忙期が続いていたせいで、肌荒れがひどい。穴もずっと大きかったもんな。
 仕上げに大ぶりのイヤリングをつけ、もう片方、と、イヤリングが手元から落ちて床へバウンドした。
 イヤリングが、ポイっときれいに放物線を描いて、穴に吸い込まれていった。
「え、入っちゃった!」
 まさか穴に物が入ってしまうとは思わなかった。
 でも、この穴に手を入れるのは怖い。
 仕方なくイヤリングは諦め、時計を一瞥して家を出た。

 噂通り、映画はとても壮大で良い映画だった。
 お昼ご飯も贅沢をしてちょっといいお店で食べたし、大満足。
 帰りに高級スーパーでお惣菜を買い込み、ビールも用意した。同じお惣菜でもいつもの激安スーパーとは値段が違う。きっと味も違うことだろう。
 意気揚々と帰宅し、荷物を置いてシャワーを浴び、パジャマに着替えて早速ビールを開ける。
 ふと、穴のそばにイヤリングが落ちているのが見えた。
 今朝、穴に入ってしまったイヤリングだ。
「戻ってきたのかな?それとも入ったと思ったのが気のせいだった?」
 真相はわからないが、失したものが戻って嬉しかった。
 私は普段、アルコール類はほとんど飲まない。だが、今日の映画はとても良かったし、パンフレットを眺めながらビールを飲みたい気分だった。
 穴からイヤリングが帰ってきたのも幸運に感じたし、ついつい飲み過ぎてしまった。
 一人暮らしで酒を飲むと止める人がいなくて駄目だ。
 気づくとかなり酔っ払って、ふわふわしながらラグの上に転がっていた。
 目線の先に穴がある。
 穴。なんだろう、あれ。改めて、あの穴はなんだろうという気持ちになった。
 酔いからの好奇心で、私はゆっくりと起き上がると穴の前に正座した。
 穴はちょうど女の私の手首が入るくらいの大きさ。
「穴……本当になんなのよ」
 穴に手を入れた。いや、入った。
 右手を穴に差し入れると、抵抗なくにゅっと20センチほど入った。
 穴の中は暑くもなく、寒くもなく。風も吹いておらず、土や水の感触もない。空間へすっと入った感じだ。
「なんだろう」
 そう呟いた瞬間、穴の中の右手が誰かに掴まれた。
 しっかり、人間であろう感触に手首を掴まれ、私は悲鳴を上げながら手を引き抜いた。
 手は無事だった。しかし、あまりの恐怖に心臓が割れそうだ。
 パニックになりながら後退り、近くにあったビールが入っていたビニール袋が手に触れたので、それで穴を覆おうと思った。
 部屋を眺めまわし、ガムテープを引っ掴んで、穴の上にビニール袋を貼り付け、ガムテープで固定する。
 穴はなぜか小さくなっており、ビニール袋で見えなくなった。
 なんとか塞いでやったという安堵の気持ちもあるが、あの掴まれた感触が残っていて肌が粟立った。
 ああ、酔いなど冷めてしまった。やれやれだ。
 私はどうして今まで安穏と穴と暮らしてきたのだろう。今更、後悔が浮かんだ。
 翌朝、ビニール袋が壁に貼り付いている光景を見て、夜のことを思い出した。
 恐怖しながらも、疲れていたせいもあってあの時はそのまま寝てしまったのだ。
 穴は見えない。今日は会社に行かなければいけないし、私は恐ろしさをふりほどくように家を出た。

 仕事が終わって「家に帰りたくない」と思うなんて初めてのことだ。
 部屋には穴がある。消えていてほしいと願うものの、きっとまだあるという妙な確信があった。
 玄関のドアを開け、電気を点けて進む。
 4歩も歩けば寝室兼居室。電気のスイッチを押し、「落ち着け、落ち着け」と独り言を言いながら壁を見る。
 ビニール袋がなくなり、穴が空いていた。
 膝から崩れ落ち、絶望感を感じた。
 穴は大きくなればビニール袋を飲み込むだろう。
 もっと大きな紙なり、なんなら、ホームセンターでベニヤ板のようなものを買ってきて貼り付けるべきか。
 私はため息と共にゆらゆらと立ち上がって、穴に近づいた。むろん、手など入れない。今は直径が30センチほどだ。
 すると、穴から何かぴょこんと出てきて、覗き込む私の額に当たった。
「痛っ!」
 転がったものを見ると、小石だった。
「なんでこんなものが?」
 つまんで首を傾げていると、またポイと穴の向こうから小石が。
 コツン。コツン。コツン。コツン。
 小石はどんどん出てくる。
「何よ?これ?」
 不安になって穴から体を離すが、今度は少し大きめの石も出てきた。
 いや、帰宅した時は小石が通る程度だった穴が、大きくなっているのだ。
 石が増えるごとに、私の不安と不快感と恐怖が大きくなり、穴が大きくなる。
 コツン。ゴトン。ガチャン。ガチン。
 私の心臓の音と目の奥が痛くなるほどの恐怖と連動するように穴は大きくなり、ついに。
 
 人が通れるほどの大きさになった。

 私は咄嗟に放り出していたカバンを引っ掴み、一目散に家を飛び出した。
 どこをどう走ったのかわからない。とにかく誰か人がいるところ、人気があるところと、駅を目指した気がする。
 
 その後、私は一度もあの部屋に帰ることなく、実家へ身を寄せ、落ち着いてから引っ越した。
 あの部屋の片隅にあった穴はなんだったのかわからない。
 引越し業者の人は穴など空いていなかったと言っていたし、もちろん大家さんも同様だ。
 
 過ぎたことは気にしないようにしたが、一つだけ、そう、一つだけ気になることがある。

 新しい部屋の廊下にも。

 穴が。



 2023/12/08 猫田こぎん
 
 
 

 
 

12/7/2023, 2:07:21 AM

#逆さま

 空が青い。まさにスカイブルーだ。
 こんなふうに真っ青な空を見たのはいつぶりだろう。都会のビルの上にはこんな色が広がっていたのか。
 高揚感と浮遊感。まさにワクワクするような気持ちになっている自分に気付き、ふと笑みが漏れた。

「どうしたらこうなるんだよ」
 詰問調というよりは、完全に呆れ果てた感じで言われたのを思い出す。
 今は気持ちが良いから思い出したくなかったんだけど、今朝のあれはなかった。まさに、もういいと唇を噛んだ血の味がまた口腔内に蘇ってきた。
 いつもいつも。そう、いつもいつもいつも。
 俺はそうやって「なんで」「どうして」と言われ続けた。自分では普通にやっているつもりでも、他者をいらつかせてしまうらしい。
 社会に出て役に立ったことなど一つもない。
 もちろん、学生時代の頃だって、遡れば子供の頃だって。周りを呆れさせ、嘆かれたものだ。
 そういうものだと自分だって諦めて、でも頑張って、必死に努力したつもりだが、頑張り続けるなんてことはどだい無理なことだ。
 キラキラと通り過ぎていく景色を見るとはなしに眺めていたら、ちょうど俺が働いていた会社が入っているフロアの階だったようだ。
 窓際で、タバコを燻らす部長と刹那の間、そう、ほんの数十分の一秒、目が合った。
 部長は驚いているようだった。表情が変わろうかという筋肉の動きの一部しか目に入らなかったが、そりゃ驚くよな。
 一時間前に叱責した部下が窓の外を落ちているんだから。
 俺は逆さまに落ちながら、地面とのキスを心待ちにした。
 きっとあっという間のはずのこの時間がこんなに長いものだとは思わなかった。

 いろんな人の声が聞こえる。母親、部長、同僚のサイトウさんは唯一いい人だった。高校の先生、部活の顧問、父親は相変わらず背中を見せて何も言わない。
 
 これで自由になる。

 衝撃に備えて両手を胸の前でグッと握りしめる。

 と、不意に肩を叩かれた。
 肩を、叩かれた?

 目を開くと、喫煙コーナーの片隅にいた。
 手にしていたタバコがじじじと小さな音を立て、私の指を軽く舐めるように焼く。
「あ、あつっ!」
「え、部長、大丈夫ですか?」
 差し出されたポケット灰皿に、慌ててタバコをねじ込んで顔を上げた。
 そこにいたのは部下のサイトウだった。
「部長、お疲れなんじゃないですか?タバコを持ったまま寝ちゃ危ないですよ」
「いま……」
「ああ、お昼休みならまだあと30分近くありますから大丈夫です。飯、食いました?」
 眼鏡の奥の垂れ目が下がって、いつもの人好きのする柔和な笑顔になったサイトウにそう言われ、私はもう一度部屋の中を見渡した。
 ここは喫煙室だ。そう、今朝イイジマの奴がまた信じられないミスをやらかして……。
「イイジマ?」
 私は勢いよく立ち上がり、サイトウに「イイジマは?」と尋ねた。
「イイジマさんですか?ああ、そういえばちょっとぼんやりしていましたね。お昼食べないのかって聞いたら返事がなかった気が……」
 屋上だ。きっとイイジマは屋上にいる。
 私はなぜかそう確信して喫煙室を飛び出した。
 ちょうどやってきたエレベーターに駆け込み、屋上階を連打する。先客が目を丸くしているが、一瞥もせず上昇していく箱の天井を見つめた。
 粗い息で膝がガクガクしている。それもどうでもいい。心臓が口から飛び出そうだ。
 あれは夢だったのか。夢のはずだ。

 エレベーターが着くやいなや、小さな箱を飛び出て屋上へ走った。
 イイジマがいるという確信があり、フェンスぎわを探す。
「イイジマ!」
 私の声に靴を脱ごうとしていたイイジマが振り返った。
 二つの双眸は落ち窪み、黒い闇のようだった。
「お前!何してんだ!」
 自分でもびっくりするようないつも以上の大声が出た。
 イイジマは私の大声にはいつも萎縮するのに、むしろ背を伸ばしてニヤリと笑った。
「飛び降りるんですよ。だって、必要ないって言ったじゃないですか」
 私は膝から崩れ落ち、その場に手をついた。
 土下座のような格好で「そうか」とだけ声を捻り出した。
 イイジマの視線が私の後頭部に突き刺さってる。

「逆さまに、落ちたかったんです。部長もやってみますか?」

 その後駆けつけたサイトウがイイジマを抱えてフエンスから引き離し、社内は大騒ぎとなった。
 
 イイジマは休職を経て、営業から事務方に異動になり、細かい作業が得意だったおかげでエースになった。
 私はパワハラを咎められ、自主退社した。

 止めなければ良かったのか。今でもわからない。
 世界は逆さまになったようだ。



 2023/12/07 猫田こぎん

 

12/2/2023, 3:41:28 AM

#距離

 他者との距離感というものはとても難しい。 
 関係性や性別、状況などでも、どれくらい詰めて良いのか、はたまた離した方が良いのか、適宜正しく把握して実行できる人間なぞ、そうそういないだろう。
 そして、見えているものや感じていることは一人一人違うから、同じ距離感で接しても、この人からだと不愉快で、この人からだと好きになっちゃうなんてこともたくさんある。
 私が若く、働いていた頃の話だ。
 女性ばかりの職場で、年齢も近い人が数人と、年の離れた人が数人という、人間関係が固まりやすい環境だった(若いチームとおばさんチーム、みたいな)。
 そんな中、私と私の一つ年上のMさん、一つ年下のAさん、6つ年上のリーダーという組み合わせで仕事をすることになった。
 リーダーは恋多き女で、三人の下っ端はそれなりに上手に付き合っていたけれど、まあ、三人寄ればリーダーの悪口ばかり。仕事の愚痴とリーダーの悪口はセットだった。
 敵が一人いると仲良くなるもんで、三人で北海道旅行にも行ったし、うちに泊まりに来て夜通し酒を飲んだ日もあった。
 そんなに悪くない関係性だったと思う。
 でも、振り返ると、この2人のことが、私は嫌いだった(ような気がする)。
 ここまで歳を経ても煮え切らない言い方をしているけれど、思い出すと「ちょっと違うよなぁ」と思うことばかりなのだ。
 Mさんは私と真逆の人だった。私は阪神ファン、Mさんは巨人ファン、私は猫が好き、Mさんは犬が好き、そんな些細なことに始まって、もう全てが真逆だった。考え方から好き嫌いに至るまで。
 私がやらないようなことを平気でやり、私がなんでもないとホイホイやることを忌避した。
 刺激的だったけど、嫌いな物事が好きな人と長く付き合える訳もない。Mさんが会社を辞めて数年して関係は自然消滅した。
 そしてAさん。この子は悪い子ではなかったんだと思う。いい人だった。
 私を、前の職場の友達と引き合わせ、前職の友達とのライブ参戦や飲み会に連れて行ってもらった。化粧っけがない私にメイクを教えてくれたのも彼女だし、世話になったと行ってもいい。
 でも、前述したように、思い出すとモヤモヤすることがある。
 私を自分の友達の輪に入れた理由を、「私ね、中学生のころ、引っ越してきた人がクラスに馴染めなくて孤立しているのを見て可哀想になってさ。そういう人に声かけちゃうの」と。
 ええと。私が友達いないように見えたってことかしら。
 確かに友達が少ない。そうなんだけど、そうやってニコニコと私に近づいて距離を詰めて、すっかり「友達」ってなるのを、今の私はなんだか気持ち悪いなんて思ってしまう。
 昔からボッチ耐性が異常で、1人でも全然苦にならない性格をしている。まして仕事なんて、遊びにいくわけでもあるまいし、挨拶と適切な意見交換や申し送りができていれば仲良くする必要なんてないと思っていた。
 Aさんから言われたもう一つのモヤモヤ。
 ライブに行くのに、私はカエルのTシャツを着て行った。自分としてはかわいいと思って購入し、着たわけだが、Aさんの友達Tさん(前職の友達だね)に「ええ!なんでそんなTシャツ買ったの?」と言われ、横にいたAさんに「かわいいじゃん」と助け舟を出してもらった。それでその場は終わって、私は「変だったかな?」とちらりと思うに止まった。
 しかし、後日、「あのTシャツは酷かったよ。Tさんと爆笑したんだから」と言われた。
 ええ、あの場では笑ってなかったから、私がいないところでTさんと爆笑してたのか。つか、言わなきゃわからんのになんでわざわざ言うんか。ああいったTシャツを今後買わないようにと優しさで言うてんのか。それにしてもやぞ。
 Aさんが妊娠(結婚前に発覚)したのを機に先に仕事を辞めて、それ以降も年賀状のやりとりだけはしている。
 「今度会おうね」という定型文を毎年書きながら、一回も会っていない。
 やっぱり、彼女のことは嫌いなのかな、私は。
 Aさんのように明るく、距離の詰め方がふわっとぐいっと来るタイプで、どこか「私が声をかけてあげたんでしょ」みたいな人は正直苦手だ。
 彼女が辞めて18年。今年はAさんに年賀状を送るのを止めようと思っている。

 

2023/12/02 猫田こぎん
 
 

11/30/2023, 9:06:05 AM

#冬のはじまり

 暑い夏が終わり、乱痴気騒ぎの秋を経て冬がやってくる。
 里山や山でも収穫の秋を寿ぐ祝祭ムードが高まり、誰も彼も浮かれていた季節がようやく終わりそうだ。暗く長い冬がひたひたと近づく足音が聞こえる。
 仲間内では寒くなるのを厭う者もいたが、冬生まれの河太郎は、ピリッとくる朝の空気や、鼻の奥が甘くなる夜の冷気が好きだった。
 それに、冬になると陸よりもむしろ川の中の方があたたかい。山より下って滔々と流れる清水は凍らないのだ。
 河太郎が川面から頭を出して早朝の村の様子を窺い見た。
 誰も起きている様子はない。朝霧に包まれた村は静寂に満ちており、河太郎は一度水に潜って十分に頭の上の皿に水を満たしてから川を出た。
 山の方では熊やリスなど、冬眠する動物が籠りだしたと聞く。
 水かきのついた両手を擦り合わせながら、河太郎は独り言ちた。
「冬になったら食べ物が少なくなる山の連中は大変だな。河童で良かった」
 川の魚は寒さに凍えて川底の石や流木の間に身を潜め、動かなくなる。活発に泳ぐ夏よりもむしろ狩りはしやすかった。
 それに、河太郎にしてみたら、夏は村の子供達が毎日魚釣りや水遊びに大人数でやって来てはやかましいことこの上ない。
 人間と相撲を取るのが好きな者たちはここぞとばかり子供らにちょっかいをかけているけれど、河太郎はどちらかというと人間が怖い方だった。
 あいつらは何をするかわからない。突然残虐なことをすると聞いた。関わらないに越したことはないのだ。
 そんな人間嫌いの河太郎だったが、冬のはじまりには必ずやらなくてはいけないことがあった。
 それは、村人の源太から敷き藁をもらうこと。
 冬の間の、寝床に敷くふかふかの敷き藁がないと、流石に寒くて越せない。
「今年もくれるだろうか」
 もう何十年も毎年繰り返していることでも、河太郎はいつも不安になる。
 源太と知り合ったのは彼がまだ若衆の時分だった。
 川縁で両腕を抱えて凍えていると、芝刈りを終えた背の高い偉丈夫が「河童も寒いのか。この草を置いたら家にある藁を持ってきてやる。ちょっと待ってろ」と言い置き、「これを敷いて寝るといいぞ」と両手に一抱えもある藁をくれた。
「本当はこれで雪の間に暮らすための拵え物を作るんだがな、お前さんがあんまり寒そうだからやろう」
「なんだ、それだとお前が困るんじゃないか?」
「人の心配をしてくれるのか。ふふふ。それじゃあ、何かと交換ことでもするか?」
 そこで河太郎はこう提案した。
「それじゃあお前が約束を違えず藁をくれたら、翌日に己が木の人形をたくさんやる。夏の間に作っておいてやろう」
 そうして河太郎と源太の物々交換が始まった。
 今年も変わらずひょこひょこと歩いて、村外れの源太が住む家を訪ったのだが。
 いつも藁が積んである場所に、何もない。
「ありゃ。これはどうしたことか」
 河太郎は初めてのことに戸惑い、尻を掻きながらしばし途方にくれてしまった。
 季節を何度繰り返しても、源太に子が生まれ、孫が生まれ、緩やかに生きる河童にはわからない人の子の激しい生の中でも、源太は必ず藁をくれていたというのに。
 敷き藁がないと今年の冬は寒くなりそうだ。それとも一度も叩いたことのない木戸を叩いてみようか。
 空が白々と明けてきた。人間に姿を見られるのは避けたい。
「どうしたもんかなぁ」
 その時、背後からいきなり「お前が河太郎か」と声がした。
 河太郎は驚いて尻餅をつき、「ひやぁ!」と叫んだ。
「すまんすまん。驚かせてしまったな」
 河太郎の緑色の腕を躊躇することなくむんずと掴み、引き起こしてくれたのは源太だった。いや、源太ではない。源太はもう老境のはず。
「だ、誰だ?」
「俺は源九郎。じいちゃんの孫だ。ええと、じいちゃんってのは、お前が知っている源太だ」
「ええ?お前は源太じゃあないのか?そっくりじゃないか。孫?そうか、あのふやふやの赤子がこんなに大きく?」
 事態を飲み込めない河太郎は必死に考え、源九郎の顔をしげしげと見つめた。
「呑気で人の好い河童だと聞いていたが本当だな。毎年藁と馬っこ人形を交換していじいちゃんは病に臥せっていてな。藁を用意することができなんだ」
「源太は病気なのか?」
「そうだ。年を越すのは難しいだろう。そこで、俺がじいちゃんからお前のことを言いつかった。藁がないと寒くて大変だろうからと」
 源九郎が言い終わるより前に、河太郎の両目から涙がこぼれた。藁をもらえないことが悲しいのではない。会ったのはほんの数回しかない源太だが、この世からいなくなるのが無性に寂しく思えたのだ。
「河童が泣くとは。驚いたな。そうか。ありがとう。じいちゃんももういつお迎えがきてもおかしくない年だ。それは仕方ない。だが、お前が困るのを嫌がっていてな。孫の中から俺を選んでお前に渡してほしいものがあると」
 ちょっと待っていろと言って源九郎は一度母屋へ戻り、すぐに暖かそうな新品の布団を抱えて戻ってきた。
「お前がくれる馬っ子人形はとてもよく出来ていてな、町へ行くと高く売れるんだ。冬の間はそれを真似て村中で作り、この村はとても豊かになった。そのお礼だ。これからは藁を取りに来ずとも良い。馬っこ人形も持ってこなくても大丈夫だ」
 河太郎が触れたこともないようなふわふわの、藁よりもずっとずっとあたたかい布団を体に巻き付けるように持たせ、源九郎は頭を下げた。
「今までありがとうな」
 河太郎は布団に顔を埋めながら、涙を拭いた。
「礼なぞ言われるいわれなんぞない。己と源太で約束したことだ。人形をどうしようとお前らの勝手だし」
「だがおかげで暮らし向きも良くなったんだ」
 そうか、そうか。と、河太郎は繰り返し呟き、踵を返した。
「そんならもう己はここへは来ねえ。それがいいんだな?」
「来るなって話じゃない。来られたら困るってことでもないんだ。気を悪くしたら謝る」
 今度は源九郎が慌てて河太郎の甲羅を掴んだ。
 引っ張られた河太郎は仰向けにひっくり返ったが、布団のおかげで皿を割らずに済んだ。
「わあ!すまない!大丈夫か?」
「大丈夫じゃねえ!」
 声ほど河太郎は怒りもせず、少し笑って「また来る」と言った。
 次の日。河太郎は同じく朝霧の出る早朝に源太の家を訪った。
 いつも置いておく馬っこ人形の代わりに、十数粒の丸薬を置いて、水かきのある手形を筵に押して帰った。
 その丸薬を飲んだ源太の病は家人や医者も驚くほどみるみるうちに良くなり、畑仕事もできるまでになった。
 河太郎はもらった布団でぬくぬくと冬を越し、もう冬のはじまりに源太の家に通うことは無くなったけれど、村も栄えて皆楽しく暮らしたそうだ。

2023.11.30 猫田こぎん
 

 
 

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