猫田こぎん

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#冬のはじまり

 暑い夏が終わり、乱痴気騒ぎの秋を経て冬がやってくる。
 里山や山でも収穫の秋を寿ぐ祝祭ムードが高まり、誰も彼も浮かれていた季節がようやく終わりそうだ。暗く長い冬がひたひたと近づく足音が聞こえる。
 仲間内では寒くなるのを厭う者もいたが、冬生まれの河太郎は、ピリッとくる朝の空気や、鼻の奥が甘くなる夜の冷気が好きだった。
 それに、冬になると陸よりもむしろ川の中の方があたたかい。山より下って滔々と流れる清水は凍らないのだ。
 河太郎が川面から頭を出して早朝の村の様子を窺い見た。
 誰も起きている様子はない。朝霧に包まれた村は静寂に満ちており、河太郎は一度水に潜って十分に頭の上の皿に水を満たしてから川を出た。
 山の方では熊やリスなど、冬眠する動物が籠りだしたと聞く。
 水かきのついた両手を擦り合わせながら、河太郎は独り言ちた。
「冬になったら食べ物が少なくなる山の連中は大変だな。河童で良かった」
 川の魚は寒さに凍えて川底の石や流木の間に身を潜め、動かなくなる。活発に泳ぐ夏よりもむしろ狩りはしやすかった。
 それに、河太郎にしてみたら、夏は村の子供達が毎日魚釣りや水遊びに大人数でやって来てはやかましいことこの上ない。
 人間と相撲を取るのが好きな者たちはここぞとばかり子供らにちょっかいをかけているけれど、河太郎はどちらかというと人間が怖い方だった。
 あいつらは何をするかわからない。突然残虐なことをすると聞いた。関わらないに越したことはないのだ。
 そんな人間嫌いの河太郎だったが、冬のはじまりには必ずやらなくてはいけないことがあった。
 それは、村人の源太から敷き藁をもらうこと。
 冬の間の、寝床に敷くふかふかの敷き藁がないと、流石に寒くて越せない。
「今年もくれるだろうか」
 もう何十年も毎年繰り返していることでも、河太郎はいつも不安になる。
 源太と知り合ったのは彼がまだ若衆の時分だった。
 川縁で両腕を抱えて凍えていると、芝刈りを終えた背の高い偉丈夫が「河童も寒いのか。この草を置いたら家にある藁を持ってきてやる。ちょっと待ってろ」と言い置き、「これを敷いて寝るといいぞ」と両手に一抱えもある藁をくれた。
「本当はこれで雪の間に暮らすための拵え物を作るんだがな、お前さんがあんまり寒そうだからやろう」
「なんだ、それだとお前が困るんじゃないか?」
「人の心配をしてくれるのか。ふふふ。それじゃあ、何かと交換ことでもするか?」
 そこで河太郎はこう提案した。
「それじゃあお前が約束を違えず藁をくれたら、翌日に己が木の人形をたくさんやる。夏の間に作っておいてやろう」
 そうして河太郎と源太の物々交換が始まった。
 今年も変わらずひょこひょこと歩いて、村外れの源太が住む家を訪ったのだが。
 いつも藁が積んである場所に、何もない。
「ありゃ。これはどうしたことか」
 河太郎は初めてのことに戸惑い、尻を掻きながらしばし途方にくれてしまった。
 季節を何度繰り返しても、源太に子が生まれ、孫が生まれ、緩やかに生きる河童にはわからない人の子の激しい生の中でも、源太は必ず藁をくれていたというのに。
 敷き藁がないと今年の冬は寒くなりそうだ。それとも一度も叩いたことのない木戸を叩いてみようか。
 空が白々と明けてきた。人間に姿を見られるのは避けたい。
「どうしたもんかなぁ」
 その時、背後からいきなり「お前が河太郎か」と声がした。
 河太郎は驚いて尻餅をつき、「ひやぁ!」と叫んだ。
「すまんすまん。驚かせてしまったな」
 河太郎の緑色の腕を躊躇することなくむんずと掴み、引き起こしてくれたのは源太だった。いや、源太ではない。源太はもう老境のはず。
「だ、誰だ?」
「俺は源九郎。じいちゃんの孫だ。ええと、じいちゃんってのは、お前が知っている源太だ」
「ええ?お前は源太じゃあないのか?そっくりじゃないか。孫?そうか、あのふやふやの赤子がこんなに大きく?」
 事態を飲み込めない河太郎は必死に考え、源九郎の顔をしげしげと見つめた。
「呑気で人の好い河童だと聞いていたが本当だな。毎年藁と馬っこ人形を交換していじいちゃんは病に臥せっていてな。藁を用意することができなんだ」
「源太は病気なのか?」
「そうだ。年を越すのは難しいだろう。そこで、俺がじいちゃんからお前のことを言いつかった。藁がないと寒くて大変だろうからと」
 源九郎が言い終わるより前に、河太郎の両目から涙がこぼれた。藁をもらえないことが悲しいのではない。会ったのはほんの数回しかない源太だが、この世からいなくなるのが無性に寂しく思えたのだ。
「河童が泣くとは。驚いたな。そうか。ありがとう。じいちゃんももういつお迎えがきてもおかしくない年だ。それは仕方ない。だが、お前が困るのを嫌がっていてな。孫の中から俺を選んでお前に渡してほしいものがあると」
 ちょっと待っていろと言って源九郎は一度母屋へ戻り、すぐに暖かそうな新品の布団を抱えて戻ってきた。
「お前がくれる馬っ子人形はとてもよく出来ていてな、町へ行くと高く売れるんだ。冬の間はそれを真似て村中で作り、この村はとても豊かになった。そのお礼だ。これからは藁を取りに来ずとも良い。馬っこ人形も持ってこなくても大丈夫だ」
 河太郎が触れたこともないようなふわふわの、藁よりもずっとずっとあたたかい布団を体に巻き付けるように持たせ、源九郎は頭を下げた。
「今までありがとうな」
 河太郎は布団に顔を埋めながら、涙を拭いた。
「礼なぞ言われるいわれなんぞない。己と源太で約束したことだ。人形をどうしようとお前らの勝手だし」
「だがおかげで暮らし向きも良くなったんだ」
 そうか、そうか。と、河太郎は繰り返し呟き、踵を返した。
「そんならもう己はここへは来ねえ。それがいいんだな?」
「来るなって話じゃない。来られたら困るってことでもないんだ。気を悪くしたら謝る」
 今度は源九郎が慌てて河太郎の甲羅を掴んだ。
 引っ張られた河太郎は仰向けにひっくり返ったが、布団のおかげで皿を割らずに済んだ。
「わあ!すまない!大丈夫か?」
「大丈夫じゃねえ!」
 声ほど河太郎は怒りもせず、少し笑って「また来る」と言った。
 次の日。河太郎は同じく朝霧の出る早朝に源太の家を訪った。
 いつも置いておく馬っこ人形の代わりに、十数粒の丸薬を置いて、水かきのある手形を筵に押して帰った。
 その丸薬を飲んだ源太の病は家人や医者も驚くほどみるみるうちに良くなり、畑仕事もできるまでになった。
 河太郎はもらった布団でぬくぬくと冬を越し、もう冬のはじまりに源太の家に通うことは無くなったけれど、村も栄えて皆楽しく暮らしたそうだ。

2023.11.30 猫田こぎん
 

 
 

11/30/2023, 9:06:05 AM