#部屋の片隅で
私が暮らす部屋の片隅には穴が空いている。
物理的に壁を破壊してできた穴ではない。この部屋には三年ほど住んでいるが、内見の時はもちろん、入居してから全く気づかなかった。
それが1ヶ月ほど前、ふと、「穴が空いている」と思ったのだ。
穴は直径五センチほど。あまり大きくない。床から10センチあまりの高さに空いている。もう少し低い位置ならば、子供の頃にカートゥーンアニメで見たネズミの巣穴のようだ。
1kの小さな単身向けアパートの2階。穴が空いている壁の向こうは隣の部屋ではなく、外。
ちょうど、ベッドを背もたれに座ってテレビを見る方向の左隅の方に黒々と空いていた。
むろん私が空けた覚えはない。白い壁に黒いシミのように空いている穴を見つけたときは、恐怖や不安よりも好奇心が優った。ぽっかりと空いているが奥は見えない。
向こう側ももちろん見えないし、深さが知れない。
空気が吐き出されることも、吸い込まれることもなさそうだ(気付いたのは冬の寒い朝だったけれど、穴から外気が入ってきている様子はなかった)。
穴のことを大家さんや管理会社に伝えることはしなかった。
繰り返される単調な毎日に飽きてしまっていたし、そんなエネルギーもなかったのだ。
退去時に穴のことを咎められたらどうしようという考えは脳裏を掠めたが、目の前の「面倒くさい」にはなにものも勝てない。
なにせ、もう何年も同じような日々だ。
毎日家と会社の往復だけの生活。晩御飯は最寄駅から家までの間にあるチェーン店の弁当屋で日替わり弁当を買って帰ったり、駅前のスーパーで半額のお惣菜を買ったり、なかなか心と時間に余裕がない。
こんなんじゃ結婚しても料理なんてできないと思いつつ、まあ、結婚の予定なんてない上に彼氏すらいないんだから、私は一生このまま独身で他人の作った冷飯を温めて食べていくのだろうと思う。
最初の一週間目。穴との同居は順調そのものだった。
二週間が過ぎた頃、微妙に穴の大きさが違う時があることに気がついた。
テレビに顔を向けると視界の端に映るため、どうしても穴を見てしまうわけだが、5センチくらいだったはずが、手のひら大になったり、逆にものすごく小さくなっている時がある。
消えることはなく、どれだけ小さくとも1センチ以下にはならないようだ。
あまり大きいと不気味だと思いつつ、休日のある日、ぼんやりと好きなスマホゲームをしていたときだ。欲しいカードが1回のガチャで出た。
やったー!と誰もいない部屋で大きな声を出し、両手を振り上げて喜んでいると、ふと穴が目に入った。
見る間に、シュルシュルと穴が小さくなった。
「え?縮んだ?」
驚き、穴に近寄ってみる。先ほどまでの喜びが消え、不安な気持ちになった瞬間、穴がにゅるにゅると大きくなった。
「今度は大きくなった?え、やだ、気持ち悪いな」
手のひら大の大きさになって止まり、それ以上は動かなかった。
大きさが変わった以外、変化はなさそうだ。
考えてもわからないと感じ、壁から身を離して座り直した。
その夜、次の日の仕事のことを考え、休日中にやらなくてはいけない積み残しの仕事を嫌々やって、それが終わり、顔を上げると、穴がまた一段と大きくなっていた。
この穴は私のストレスや不安で大きさが変化するのだ。
そうわかったのが最近。そして今に至る。
今日は珍しく映画を観に行くため、早起きをした。
休みの日に出かけるなんていつぶりだろう。
休日はベッドかベッド下のラグの上でダラダラするだけが多かったので、春めいてきたこともあるし、春休みに合わせた映画を見ようと思い立ったのだ。
穴はとても小さくなっている。私は浮き足立っているからね。
久しぶりのフルメイク。仕事の時は必要最低限の化粧を面倒だと文句を言いながらするが、誰に会うわけでなくとも、こういう時のメイクは心の高鳴りが違う。
ずっと繁忙期が続いていたせいで、肌荒れがひどい。穴もずっと大きかったもんな。
仕上げに大ぶりのイヤリングをつけ、もう片方、と、イヤリングが手元から落ちて床へバウンドした。
イヤリングが、ポイっときれいに放物線を描いて、穴に吸い込まれていった。
「え、入っちゃった!」
まさか穴に物が入ってしまうとは思わなかった。
でも、この穴に手を入れるのは怖い。
仕方なくイヤリングは諦め、時計を一瞥して家を出た。
噂通り、映画はとても壮大で良い映画だった。
お昼ご飯も贅沢をしてちょっといいお店で食べたし、大満足。
帰りに高級スーパーでお惣菜を買い込み、ビールも用意した。同じお惣菜でもいつもの激安スーパーとは値段が違う。きっと味も違うことだろう。
意気揚々と帰宅し、荷物を置いてシャワーを浴び、パジャマに着替えて早速ビールを開ける。
ふと、穴のそばにイヤリングが落ちているのが見えた。
今朝、穴に入ってしまったイヤリングだ。
「戻ってきたのかな?それとも入ったと思ったのが気のせいだった?」
真相はわからないが、失したものが戻って嬉しかった。
私は普段、アルコール類はほとんど飲まない。だが、今日の映画はとても良かったし、パンフレットを眺めながらビールを飲みたい気分だった。
穴からイヤリングが帰ってきたのも幸運に感じたし、ついつい飲み過ぎてしまった。
一人暮らしで酒を飲むと止める人がいなくて駄目だ。
気づくとかなり酔っ払って、ふわふわしながらラグの上に転がっていた。
目線の先に穴がある。
穴。なんだろう、あれ。改めて、あの穴はなんだろうという気持ちになった。
酔いからの好奇心で、私はゆっくりと起き上がると穴の前に正座した。
穴はちょうど女の私の手首が入るくらいの大きさ。
「穴……本当になんなのよ」
穴に手を入れた。いや、入った。
右手を穴に差し入れると、抵抗なくにゅっと20センチほど入った。
穴の中は暑くもなく、寒くもなく。風も吹いておらず、土や水の感触もない。空間へすっと入った感じだ。
「なんだろう」
そう呟いた瞬間、穴の中の右手が誰かに掴まれた。
しっかり、人間であろう感触に手首を掴まれ、私は悲鳴を上げながら手を引き抜いた。
手は無事だった。しかし、あまりの恐怖に心臓が割れそうだ。
パニックになりながら後退り、近くにあったビールが入っていたビニール袋が手に触れたので、それで穴を覆おうと思った。
部屋を眺めまわし、ガムテープを引っ掴んで、穴の上にビニール袋を貼り付け、ガムテープで固定する。
穴はなぜか小さくなっており、ビニール袋で見えなくなった。
なんとか塞いでやったという安堵の気持ちもあるが、あの掴まれた感触が残っていて肌が粟立った。
ああ、酔いなど冷めてしまった。やれやれだ。
私はどうして今まで安穏と穴と暮らしてきたのだろう。今更、後悔が浮かんだ。
翌朝、ビニール袋が壁に貼り付いている光景を見て、夜のことを思い出した。
恐怖しながらも、疲れていたせいもあってあの時はそのまま寝てしまったのだ。
穴は見えない。今日は会社に行かなければいけないし、私は恐ろしさをふりほどくように家を出た。
仕事が終わって「家に帰りたくない」と思うなんて初めてのことだ。
部屋には穴がある。消えていてほしいと願うものの、きっとまだあるという妙な確信があった。
玄関のドアを開け、電気を点けて進む。
4歩も歩けば寝室兼居室。電気のスイッチを押し、「落ち着け、落ち着け」と独り言を言いながら壁を見る。
ビニール袋がなくなり、穴が空いていた。
膝から崩れ落ち、絶望感を感じた。
穴は大きくなればビニール袋を飲み込むだろう。
もっと大きな紙なり、なんなら、ホームセンターでベニヤ板のようなものを買ってきて貼り付けるべきか。
私はため息と共にゆらゆらと立ち上がって、穴に近づいた。むろん、手など入れない。今は直径が30センチほどだ。
すると、穴から何かぴょこんと出てきて、覗き込む私の額に当たった。
「痛っ!」
転がったものを見ると、小石だった。
「なんでこんなものが?」
つまんで首を傾げていると、またポイと穴の向こうから小石が。
コツン。コツン。コツン。コツン。
小石はどんどん出てくる。
「何よ?これ?」
不安になって穴から体を離すが、今度は少し大きめの石も出てきた。
いや、帰宅した時は小石が通る程度だった穴が、大きくなっているのだ。
石が増えるごとに、私の不安と不快感と恐怖が大きくなり、穴が大きくなる。
コツン。ゴトン。ガチャン。ガチン。
私の心臓の音と目の奥が痛くなるほどの恐怖と連動するように穴は大きくなり、ついに。
人が通れるほどの大きさになった。
私は咄嗟に放り出していたカバンを引っ掴み、一目散に家を飛び出した。
どこをどう走ったのかわからない。とにかく誰か人がいるところ、人気があるところと、駅を目指した気がする。
その後、私は一度もあの部屋に帰ることなく、実家へ身を寄せ、落ち着いてから引っ越した。
あの部屋の片隅にあった穴はなんだったのかわからない。
引越し業者の人は穴など空いていなかったと言っていたし、もちろん大家さんも同様だ。
過ぎたことは気にしないようにしたが、一つだけ、そう、一つだけ気になることがある。
新しい部屋の廊下にも。
穴が。
2023/12/08 猫田こぎん
12/8/2023, 3:32:09 AM