猫田こぎん

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#逆さま

 空が青い。まさにスカイブルーだ。
 こんなふうに真っ青な空を見たのはいつぶりだろう。都会のビルの上にはこんな色が広がっていたのか。
 高揚感と浮遊感。まさにワクワクするような気持ちになっている自分に気付き、ふと笑みが漏れた。

「どうしたらこうなるんだよ」
 詰問調というよりは、完全に呆れ果てた感じで言われたのを思い出す。
 今は気持ちが良いから思い出したくなかったんだけど、今朝のあれはなかった。まさに、もういいと唇を噛んだ血の味がまた口腔内に蘇ってきた。
 いつもいつも。そう、いつもいつもいつも。
 俺はそうやって「なんで」「どうして」と言われ続けた。自分では普通にやっているつもりでも、他者をいらつかせてしまうらしい。
 社会に出て役に立ったことなど一つもない。
 もちろん、学生時代の頃だって、遡れば子供の頃だって。周りを呆れさせ、嘆かれたものだ。
 そういうものだと自分だって諦めて、でも頑張って、必死に努力したつもりだが、頑張り続けるなんてことはどだい無理なことだ。
 キラキラと通り過ぎていく景色を見るとはなしに眺めていたら、ちょうど俺が働いていた会社が入っているフロアの階だったようだ。
 窓際で、タバコを燻らす部長と刹那の間、そう、ほんの数十分の一秒、目が合った。
 部長は驚いているようだった。表情が変わろうかという筋肉の動きの一部しか目に入らなかったが、そりゃ驚くよな。
 一時間前に叱責した部下が窓の外を落ちているんだから。
 俺は逆さまに落ちながら、地面とのキスを心待ちにした。
 きっとあっという間のはずのこの時間がこんなに長いものだとは思わなかった。

 いろんな人の声が聞こえる。母親、部長、同僚のサイトウさんは唯一いい人だった。高校の先生、部活の顧問、父親は相変わらず背中を見せて何も言わない。
 
 これで自由になる。

 衝撃に備えて両手を胸の前でグッと握りしめる。

 と、不意に肩を叩かれた。
 肩を、叩かれた?

 目を開くと、喫煙コーナーの片隅にいた。
 手にしていたタバコがじじじと小さな音を立て、私の指を軽く舐めるように焼く。
「あ、あつっ!」
「え、部長、大丈夫ですか?」
 差し出されたポケット灰皿に、慌ててタバコをねじ込んで顔を上げた。
 そこにいたのは部下のサイトウだった。
「部長、お疲れなんじゃないですか?タバコを持ったまま寝ちゃ危ないですよ」
「いま……」
「ああ、お昼休みならまだあと30分近くありますから大丈夫です。飯、食いました?」
 眼鏡の奥の垂れ目が下がって、いつもの人好きのする柔和な笑顔になったサイトウにそう言われ、私はもう一度部屋の中を見渡した。
 ここは喫煙室だ。そう、今朝イイジマの奴がまた信じられないミスをやらかして……。
「イイジマ?」
 私は勢いよく立ち上がり、サイトウに「イイジマは?」と尋ねた。
「イイジマさんですか?ああ、そういえばちょっとぼんやりしていましたね。お昼食べないのかって聞いたら返事がなかった気が……」
 屋上だ。きっとイイジマは屋上にいる。
 私はなぜかそう確信して喫煙室を飛び出した。
 ちょうどやってきたエレベーターに駆け込み、屋上階を連打する。先客が目を丸くしているが、一瞥もせず上昇していく箱の天井を見つめた。
 粗い息で膝がガクガクしている。それもどうでもいい。心臓が口から飛び出そうだ。
 あれは夢だったのか。夢のはずだ。

 エレベーターが着くやいなや、小さな箱を飛び出て屋上へ走った。
 イイジマがいるという確信があり、フェンスぎわを探す。
「イイジマ!」
 私の声に靴を脱ごうとしていたイイジマが振り返った。
 二つの双眸は落ち窪み、黒い闇のようだった。
「お前!何してんだ!」
 自分でもびっくりするようないつも以上の大声が出た。
 イイジマは私の大声にはいつも萎縮するのに、むしろ背を伸ばしてニヤリと笑った。
「飛び降りるんですよ。だって、必要ないって言ったじゃないですか」
 私は膝から崩れ落ち、その場に手をついた。
 土下座のような格好で「そうか」とだけ声を捻り出した。
 イイジマの視線が私の後頭部に突き刺さってる。

「逆さまに、落ちたかったんです。部長もやってみますか?」

 その後駆けつけたサイトウがイイジマを抱えてフエンスから引き離し、社内は大騒ぎとなった。
 
 イイジマは休職を経て、営業から事務方に異動になり、細かい作業が得意だったおかげでエースになった。
 私はパワハラを咎められ、自主退社した。

 止めなければ良かったのか。今でもわからない。
 世界は逆さまになったようだ。



 2023/12/07 猫田こぎん

 

12/7/2023, 2:07:21 AM