初詣に行く神社へ何でもない日に夫と参拝に行った時のこと、初詣の時には立ち寄らない池に立ち寄ってみた。
池の脇にボックスがあり、『こいのえさ100えん』とあったので100円を入れて鯉の餌を買った。小袋に餌らしきものが入っていて、ひとつまみ池に投げてみた。
餌が池の面に広がって、鯉がワチャワチャ出てくるのを待ったけど、しーん。
はて?
夫と、「かなり深い池なんだよ」と笑って、今度は多めに餌を投げ入れてみた。
しーん。
亀すら居ない。
何も居ないのに、餌が売ってるとはどういう訳か…?
それとも他に生け簀があって、ここで餌を撒くのではなく、他の場所へ行かなければならないのか…?
それとも鯉の巣みたいのがあって、門みたいのが開いてなくて、出てきたくても出てこれないのか…?
それとも、………?
なんだろう。
袋の中の餌全部を池にばらまいてみた。
しーん。
辛抱強く待たなければならないのか?
しーん。
住んでるのは鯉じゃないのか?
子供が餌をやらないと、だめなんじゃないのか?
そもそも鯉1匹も居ないのに餌のみ売ってるって、どういうことか。
家の鯉のための、お持ち帰りのための餌なのか。
そもそも、そもそも、餌が売ってるからと言って鯉が出てくるとは限らない。【池に鯉が住んでます】とも、どこにも書いてない。
これは何かの教訓めいたものなのかもしれない。。そう思った。
これで怒るか、笑うか、どこかにカメラでもあって監視されてるのかも。。
とにかく謎。
若いカップルなら「鯉なんていないじゃ〜ん」と、手を繋いで笑って帰るところなんたろうけど、
中年夫婦、無言で餌を池に投げてるうちに、なんだかうっすら怖くなった。
それにしても、鯉いないのに餌袋はかなり置いてあった。餌だけ投げ入れられてるからなのか池は濁ってたし、きっと文句言う人が居ないんだと思う。
なんだか腑に落ちないまま池を後にした。
無言だった夫が、「あの箱の餌全部買わないと……、だったのかもよ」と。
「そんな訳あるかい?」
あの袋の餌、全部買って池に投げ入れたら何か出てくるのか。そりゃすごい。
ずっと無言だった夫もすごい。お互い喋ると、ずっと池の話しになりそうだから、その後はわたしも黙ってた。
池って、怖いし。
秋の訪れをしんみり楽しめるような気分のまま、人生を終わらせられるなら、それに越した事はないと思う。
わたしがある先生のカウンセリングに同席していた頃、相談者は女子高生の両親だった。その女子高生は被害者だった。言葉には出来ないほどの集団暴力を受け、人生を終わらせるか他に方法はないのか、これからの人生をどうすればいいのか…、それくらいの相談内容だった。
被害者だと思っていたその女子高生は、実は、自分がされたと同じ事を女友達にしていて加害者でもあった。恋愛関係のもつれからの仕返しの、仕返しだったと言う。
事実が分かるにつれて、結局裁判する事となり、先生からは、「これ以上は貴女の精神が持たないと思うから、席を外してください」と、言われ、その後その案件がどうなったかは分からない。
カウセリングルームは、いつも清潔で窓には淡い色のカーテンがかかっていて、外からの風と臭いやら香りやらが入ってきて、短い毛足の絨毯は柔らかい桃色で、そこに固めの座布団を敷いて正座して話しを聴いた。
秋には金木犀の香りも入って来た。
わたしは、自分が感じた事は、その場では言えない。と、いうか決して言葉にしても、表情に出してもならず。顔色を買えてもいけない。心に残してもいけない。
カウンセリングが終わったあと、先生だけに感じたまま思うままを話す事が許された。どう思うかなんて、なかなか言葉にする事が出来なかった。
ただただ、【世の中は広い】。そう思った。悲惨で凄惨で悲しい辛い事は、今この瞬間も裏の裏で密かに処理されている。
わたしが、見て聴いた事などほんのわずかな隙間から覗いた事に過ぎない。
こんな長閑な場所に住む事になって、
たまに、あの日々が、ふつと蘇ってくる。
【あの内容について、今後、何かを思ってもいけない】、と言われたのに。
汚れ仕事なのだ。信仰を持つということは。神様を信じると言うことは。
汚い場所を指し示されて、『お前が見るのだ、お前が聴くのだ』と。
だから、、、なのだ。
世の中を、嘆いているだけでは、とうていその意味など見つかるはずがない。
来年の手帳に、自分の名前と、家族の誕生日と友達の誕生日と、夫との記念日と、大切にしている日と、印を付けた。
昨夜はお腹が激痛で、腸が破けるかと思った。貧血なのか気を失いかけたのか、トイレでしゃがみ込んで、『ありがたいな』と思った。何の痛みも苦しみも知らずにいたら、わたしはただただ、【幸せだ】と思うだけか、幸せだと思う事さえしなかっただろう。『ありがたい』などとは思わなかっただろう。
精神的に苦しんだ日々がもったいなくて、『もっと、こんなふうに考えていたら』、とか思った事もあるけれど、
あの日々がなかったら、到底、苦しむご家族の話しを聴きに行ったりする事など出来なかっただろうと思う。人間は、いろんな事で訳が分からなくなってしまう。
この旅の、理由も分からないままなのか、理由が分かっているのか、ではずいぶん違う。
どのように死んだとて、【生きている】の延長線上なんだから何も変わらない。
還る場所はあるけれど、そこが目的地じゃない。
旅は終わらない、ずっと続く。
生きている時と同じように、ずっと。
しかも、それを選んだのは、自分自身である、という大変厳しいものだ。
わたしが離乳食を食べさせてもらっていた頃の、クマの子ウーフのお匙は、今でも現役で使っている。息子のお弁当にも持たせたし、夫も使っている。
このお匙は、永遠に残りそうな気がする。
いつか土に埋もれるようなことになって、発掘されて、大昔の庶民の生活を彷彿とさせる一品になるのではないだろか。。
あと、母と保育園の帰りに銭湯に通っていて、その当時使っていたプラスチック洗面器がまだある。
昭和ならではの森の動物達の絵柄で、お湯を入れると、底の動物たちがゆらゆら揺れて、母が身体を洗ってくれている間に物語を考えたりしたものだ。
この洗面器も永遠に残りそうな気がする。
それは、【土に還る事が出来ない事】で、大変かなしいことだと思う。
涙は血液から、というのは知ってたけれど、涙の98%が水分だというのは、知らなかった。
涙は心の洗濯です。泣く前と泣いた後は、しっかり水分補給しましょう。
涙の理由は何でもいいです。
楽しいから、悔しいから、寂しいから、痛いから、嬉しいから、、どれでもいいです。
だけど、涙の言い訳はしないでください。