フィクション・マン

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11/15/2025, 2:58:49 PM

『木漏れ日の跡』

俺はこの日、何ヶ月もかけて描いた絵で絵画コンクールに挑んだ。
『努力は必ず報われる』
という言葉を信じて、俺はこの日までずっとずっと絶え間ぬ努力を続けてきた。
周りの人達も、先生も俺の作品を素晴らしいと言ってくれた。
コンクールに出すテーマは決まっていた。テーマは『風景』。風景画を描けということだ。
風景画なら絵が上手ければなんでもいいだろう。とにかく立体的に、美しく、色鮮やかに。
俺は『晴海 (せいかい)』を描いた。題名だけで俺が何を描いたのか連想させるだろうが、その通り、海だ。
雄大で青い煌びやかな海。そして晴天の空。
俺はこの絵で勝負するんだ。
他の奴らは街並みだとか、木々だとかを描いているけど、壮大なスケールの絵でないとコンクールには優勝出来ない。
そして何より、皆が俺の絵を賞賛してる。先生でさえ、絶対これは入賞すると背中を押している。
そうだ。入賞して、俺の努力を親に、友達に見てもらうんだ。
そうして、絵を提出し、美術部では賞を撮れるかなーと浅はかな期待をする奴らの会話で埋め尽くされていた。
「なぁ!お前の海の絵!!すげー綺麗だったから絶対入賞するって!!」
「まぁ、寝る間も惜しんだから…入賞しないと困るよ」
「いや絶対するだろあれ!だってリアルすぎんもん!」
「はは、まぁ……ありがとう」
当然だ。どんだけ美術のこと勉強したと思ってんだ。勉強を疎かにしてまで俺は美術の腕を磨いたんだ。馬鹿みたいにな。
友達とも縁を切ったんだ。描くことだけに集中するために。もちろんクラスで孤立した。だが芸術家というのは常に孤独が付き物だろう。
睡眠不足とストレスで目眩やら頭痛やら吐き気やらが起こったが、無理やり薬を飲んで誤魔化して、大丈夫と心で唱えながら絵を描いた。
そこまでして描いた絵が入賞無しの暁には、俺は生きてはいけないかもしれない。
そんなことを考えていると、隣の席から女子達の話し声が聞こえてきた。
「桜ちゃんの絵は絶対入賞するよー!」
「うーん…そうかなぁ…」
「そうだよ!だってあの絵素敵だったもん」
「ふふ、そうだと嬉しいなぁ」
天咲桜(あまざき さくら)。この女は俺の敵であり、妬み、恨んでいる人間でもある。
彼女の描く絵は必ずと言っていいほど入賞している。毎回金賞だ。そして、美術館に飾られている。
彼女の描く絵は魅力的なんだ。絵の上手さは勿論ながら、観察力が凄まじい。光、影、質感、形の微妙な変化……彼女の絵は写真に近く、本当に素晴らしいと言わざるを得ない。
彼女の絵を見る度にハッと息をのまれる。しかし、それと同時に俺は腸が煮えくり返るような憎悪に襲われる。
天咲桜は優等生。頭も良く、友達も多い。彼女とは同じクラスだから分かるが、沢山の友達に囲まれて毎日が笑顔いっぱいの日々を過ごしている。
俺とは対照的だ。全て美術に費やし、勉強も友達も疎かにしたってどうしたっても彼女を超えることは出来なかった。
俺だって入賞はしたさ。銅賞?銀賞?惜しくも金には届かなかった。邪魔な桜がいるから。
彼女を超えさえすれば、俺は芸術科の学校に進学できる。金賞をとって、美術館に飾られる。そう、両親と約束をした。
桜が色んな人達に信頼されてるのを見ていると、虫唾が走る。俺は窓の外を見てため息を吐く。
すると、桜の意外な一言が聞こえた。
「でも晴太君の絵だってすごく素敵だったし、絶対晴太君も入賞するよ」
そう、女子に話していた。
「あーたしかに!晴太君の絵もすっごい綺麗だったもんね!!海のキラキラした感じとかさ!」
「ね、とても綺麗だよね」
この褒め言葉に対して、素直に嬉しいと思えないのは何故なのか?理由は簡単だ。
『おまえのほうがはるかにすぐれているだろうが』
その一言が俺の頭の中を過ぎった。
俺は性格が悪い。美術で1番になることしか生き甲斐はない。誰かのために描くだとか、好きで描くとかそんなのではない。
人よりちょっと描けるから、そこに磨きを入れてるだけ。俺みたいに、本気で描いてもないような桜が、なぜ毎回金賞をとるのか理解に苦しむ。
俺は桜の方を睨んだ。
すると、桜は俺の視線に気付いたのかこっちを向いて少し驚いていた。
「……え?あ……」
少し戸惑ってる彼女に、俺は嫌味を言った。
「…入賞できる?金賞ばっか取っている人間に、俺の努力なんて分からないだろ。
高みの見物でもしてんのかよ?自分はどうせ金賞を取れますから、俺でも入賞できるレベルだよーって」
「え…………」
俺の言葉に女子達は静まり返る。
1人の女子が俺に牙を向いた。
「ちょっと何その嫌味。うざいんだけど。」
「そうだよ!なんでそんなこと桜ちゃんに言うの?」
俺も女子に負けじと言い返す。
「あのな?こんな奴に褒められて良い気すると思うか?はるかに自分達より上にいるコイツにだぞ?
鼻くそほじりながらでもコイツは書けば金賞。金賞。金賞…そして、俺の作品を露骨に褒める時もある。
は?ってなるだろ?王者の余裕かよ?なんなんだよ?俺からすれば煽ってるようにしか感じないんだよ」
イライラして、声を少しずつ荒らげる。いつの間にかクラスは俺達の言い合いの声で埋め尽くされていた。
周りの奴らの視線が気になるかもしれないが、それよりも俺は桜のウザイところを吐きまくった。
「はぁ!?金賞とってるから他人の作品褒めちゃいけないなんてことないでしょ!?」
「頭おかしいんだけど!!」
「どうやったらそんな考えになるわけ!?」
「お前らモブ女子は銀も銅も取ったことないからわかんないだろ!!才能の無い入賞したこともないような奴らには分かんないだろうよ!!」
「いやそんな声荒らげるレベルになるんだったら別に入賞なんてしなくて結構なんだけど」
「そうよ。別に入賞したいから描いてるんじゃないから。好きで描いてるんだから」
「好きで描く?ならコンクールに参加してねぇでテメーらは授業中にノートにでも落書きしてろ!!」
「はぁ!?!?!?なんでそんな考えになんの!?頭おかしいんじゃないの!?」
エスカレートしていく女子と俺との言い合いに、たまらず周りの奴らも止めに入る。
「まぁもうやめろって…そんな言い合いしたとこで」
「喧嘩なんて良くないよ」
しかし、向こうの女子の一言で、俺は机をひっくり返すレベルになった。
「そんなだから桜ちゃんの絵を越えられないんだよ」
「あぁ!?テメェ!!!!!」
絵だけの為に睡眠を削って、進学の為に死ぬほど描いて、友人と縁を切って、勉強よりも絵を優先して、そして銅、銀。
確かに、努力は簡単に実らないかしれない。しかし、努力してないで適当な絵を描いてへらへらしてるお前ら女子よりは俺は何千倍も何億倍も絵に命をかけている。
それを無下に扱われるのは腹が立ってしょうがなかった。
暴れる自分を抑える男子達。女子達は俺の血走った目を見て酷く動揺し、ドン引きしていた。
自分でも後から、なんであんなに自分の絵に拘っていたのだろうと疑問に思う。
でも、死ぬほど努力して、中々それが実らない時は人は追い込まれてる気がして、すごく怖いんだ。俺の場合は進学という目的が控えてるから。
次の日の放課後、今日は久々に部活無しで帰れるのだが、俺だけは帰らず、イライラしながら1人で美術部に残って昨日あった出来事を思い出しつつ、筆を動かす。
いつもは風景画、静物画、人物画しか描かないが、今回は抽象画を描くことにした。
暗い赤、黒、濃い青など、怒りや苛立ちを表す色が中心とし、一部に鋭い黄色や白を差し込んで、衝突や焦燥感を表現する。
鋭くて角ばった線、ねじれた渦、乱れたジグザグ。線の勢いを強くし、キャンバス全体に緊張感がみなぎるような作風にする。
整った形はほぼなく、衝突と混乱の印象を与えるかの作品に仕立てあげた。
人は怒りで満ち溢れていると暴走するとは言ったものだが、俺の場合はキャンパスいっぱいに広がるこの闇がまさにそのものだろう。
ものの数十分で見事『怒号』という作品が出来上がった。これは誰にも見せることは無いが、描くというのはやり気持ちが良かった。
夕日が差し込む窓の外を見る。校舎は夕焼け色に染まり、そして空もまた、オレンジ色でとてつもなく綺麗な色だった。
心を少し落ち着かせるために、空を見ながら深呼吸をする。
「……えっと、なにしてるの?」
「!!!」
急に声をかけられ心臓が飛び出そうになり、バッと後ろを振り返る。
「あっ!ごめんね、驚かせちゃって」
そこに居たのは天咲桜だった。すぐに冷静さを取り戻し、冷たい口調ですぐに言い返す。
「……部活休みだろ。何しにここに来たんだよ」
「あ…ちょっと忘れ物しちゃって…」
「忘れ物?」
「うん。今日美術の授業した時に教科書ここに置き忘れちゃってて…えーっと」
そう言って机の中をごそごそ確認し、教科書を手に取る。
「あった!これこれ!」
そう言って教科書を見せる。
「ふーん」
そう言って俺はまたキャンバスに目をやる。
俺はもう一度自分の描いた絵をマジマジと見ると、その絵がどれほど異常なものなのか理解ができた。
さっき描いたものとは思えないほど、そこには憎悪とか、悪意に満ち溢れたような絵が広がっていた。いや、さっき自分で描いていたものには間違いないのだが…少し気持ちを落ち着かせて見てみると、やはり不気味だった。
俺が絵を見てると、桜がヒョイっと後ろから顔を出す。
「絵を描いたの?」
「わっ!!」
俺は咄嗟に描いた絵を隠した。
「あ…見られるの嫌だった?」
「……あぁ」
「でもすごく上手だったよ?」
「……見たのかよ」
「うん、少し…ごめんね」
「………………」
なんというか。彼女のほんのりとした雰囲気というか、優しい声色というか、それが全部力が抜ける。あんなにも妬み、恨み、憎しんだ桜とワンツーマンで話すのは意外に初めてかもしれない。
「…………絵を描いた…」
「うん」
「……ただ、人に見せられる絵じゃない」
「え?もしかしてエッチな…」
「そういうのじゃない」
「ふふ…冗談だよ。ごめんね」
ニコニコと話す桜の顔を見て、俺はため息を吐く。
「……これ」
俺はそう言ってキャンバスから身体をどかした。桜は、暗い色いっぱいに広がるどうみても病んでるであろうその絵をマジマジと見た。
「……こんな絵はなんの意味もない…どこかに出す訳でもない……ただ描いただけ。
……感情のままに」
そう言いつつ、彼女はおー…と、驚いた顔をしながら絵を見てた。
「……引くよな。こんな気持ちわるいの」
俺自身も少し引いたような感じでそう言うと、桜は思いっきり首を振った。
「いや…ホントすごいよこれ!」
「……は?」
俺が彼女の意外な反応に呆気に取られてると、桜は続けて俺のこの絵を褒めちぎった。
「線の勢いも色の重なりも、晴太くんの感情そのものが飛び出してる感じで…すごく見てるだけで、心が揺さぶられるっていうか…怒りや焦燥だけじゃなくて、何か叫びたい気持ちとか、諦めたくない気持ちも伝わってくる。だから…私、この絵を気持ち悪いなんて思わない。すごく、素敵だと思う」
真剣に褒める彼女を見て、なんか変に気が抜けて
「…なんだそら」
と言って少し微笑んだ。
「あ…今笑った!?」
「あ……?あぁ…ごめん」
「いや!笑って!沢山笑ってよ!!」
「……は??」
「…晴太くんが笑ったところ、見たことないから」
「……そんなもん見る必要ないだろ」
俺が冷たくそう言い捨てると、桜は首を振った。
「ううん、笑って欲しい。私、晴太くんがいっつも頑張ってる所しか見たことないから」
「……は?」
俺がまた困惑してると、彼女は窓の外を見ながら話した。
「……私、いつも部活の時に絵を描いてる時、晴太君のこと沢山見てた。
誰とも喋らず、一人で真剣に作品と向き合ってる晴太君を物凄く尊敬してる。
集中力も途切れず、トイレ休憩もなしで、水分補給もとらないで、ずっとずっと絵を描いてる晴太君を見て…本当の本当に、晴太君は芸術家なんだって思って。
自分はまだまだだなって」
「……まだまだ?」
「うん…私もね、絵を描くことを楽しんでるよ。絵に対する想いも本当。でも、集中は途切れるし、ずっと同じ体制で描き続けると背中も痛くなっちゃって筆を止めちゃうこともある」
「……でもお前は金賞取れてるだろ」
「……私、本当は金賞なんていらない」
「は?」
「好きで絵を描きたいんだ。でも、お母さんやお父さんが私は絵の天才だって言って、沢山絵を描けって強く言ってくるの…絵でご飯を食べていけるレベルだから、それを磨けって」
「……いいじゃないかよ、それ」
「ううん。私、自由に描きたい。縛られて描くのは嫌…だから私は出来るだけ反抗してる。
友達と遊んだり、勉強沢山したりして…でも、家では沢山絵を描けって…私のお父さん…美術大学の講師だから……」
「あ…そうなのか……」
「…………」
俯く彼女を見て、なんとも言えない気持ちになった。辺りの静けさがより一層この場の空気を寂しさを物語らせる。
彼女が下を向いたまま俺に謝ってきた。
「……ごめんね」
「え」
「…ごめん。昨日、あんな酷いこと言って……」
「え、あ、いやそんな」
「私…晴太君の努力も知らないで、そんな簡単なこと言って、嫌な気持ちにさせちゃったこと、すごく後悔して…晴太君が沢山頑張ってるのも、作品に本気なのも知ってるのに…軽い気持ちであんなこと言って、本当にごめんなさい」
そう言って深々と彼女は頭を下げる。
「や、やめて、やめてまじで」
そう言って桜に言うが、桜はそれでも頭を下げ続けた。
「…………」
俺はもう一度キャンパスを見る。先程の憎悪に満ち溢れた絵を見て、自分は何をやってたんだろうと思えてきた。
そして、そのキャンバスを俺は思いっきり倒した。
「!!」
倒れた音にびっくりした彼女が顔をあげると、そこにはキャンバスを踏みつける俺の姿がいた。
「え!ちょ、ちょっとなにしてるの…!?」
彼女が俺を止めようとする。
俺はそんな彼女の方を向いて頭を下げた。
「ごめん!!!」
桜は咄嗟に謝ってきた俺にビックリしていた。
「…桜の絵を見て、羨ましいとか、嫉妬とか、余計な感情ばかり抱いて、正直、素直に褒められなかった。…いや、褒めるどころか、心のどこかで、嫌な気持ちをぶつけてたし…昨日はそれが爆発して…酷いことを言っしまった。ほんとに、ごめん」
「そ、そんなこと…」
「いや、ある。あるよ。ほんとに」
俺がキャンバスの方を見ながら話を続けた。
「…俺、金賞取らなきゃ進学できなくて…だから、馬鹿みたいに絵を描いてた。寝る間も惜しんで、勉強もしないで、友達と縁切って……ずっと絵を描いてた。
親にさ、大した腕もないのに絵で飯なんか食えると思うなって言われて…見返してやりたかったんだ。
昔っから絵を描くのが好きで…それを仕事にしたいって思ってたから…」
「…………」
「分かってた…自分の身を削ってまで、良い作品なんかできるわけがないってことくらい。でも、馬鹿みたいに自信があったのは…努力は必ず報われるって信じてたから。
まぁでもさ!よく考えたら大した腕もないのに不健康な状態で描いてたってよくなるわけねーよな!ははは!!」
吹っ切れたように笑う俺を見て、桜は首を振った。
「ううん、報われる…絶対報われるよ」
「いや、どうだろうね…多分ない」
俺はキャンパスを持って、美術部を後にしようとすると、桜は俺の服を引っ張った。
「……まだ何か?」
「…私、晴太くんの描く絵が大好き」
「……ありがとう」
「…晴太くんは、絵を描くの好き?」
「…好きだよ」
「…私も好き。絵は誰かの心を動かすためにあるかもしれないし、1つの目的のために描くのもあるかもしれないけど…でも……私は……」
「…?」
「楽しむために描くものだと思ってる」
その言葉を聞いて、小学生の頃の自分を思い出した。描くことが好きで、よく休み時間も授業中も描いてたっけ。
でも、今みたいに取り憑かれてたわけじゃなくて…友達と遊んだりして、たまに友達に絵を見られて恥ずかしがって隠したり…で、それを褒めてくれたら見せたりして………。
淡い青春が、俺の頭の中を過ぎらせた。
俺はニコリと笑って、桜に感謝を述べた。
「……ありがとう」
俺の笑顔に引き寄せられるように、彼女もまた緩んだ優しい笑顔を返した。
そうして、校舎まで一緒に歩いて、別々の帰り道の為、そこで改めて別れることとなった。
「じゃあ…」
「うん、またね」
そう言って手を振る彼女に、俺も手を振り返して歩き出す。
数歩歩いて大きな声で彼女が俺を呼び止める。
「晴太くん!!!」
「!?」
「絵を描くのってやっぱり楽しーいよね!!!」
彼女の言葉に
「……もちろん!!」
と大きく返した。


コンクールの結果。
俺は金賞を取り、桜は最優秀賞を取った。
この学校で初の最優秀賞と金賞を取ったとして、新聞にも乗った。
美術館に立ち寄った時に、桜の絵を見た。
題名は『木漏れ日の跡』。
俺はその絵を見て、美しさのあまり息を飲んだ。
遠くから差し込む光を描いたのではない…木々の下を歩く人が上を見上げたとき、葉や枝の間から零れ落ちる光の一瞬を切り取った絵だった。
その光はまるで空気そのものが輝いているかのように柔らかく、儚く、美しかった。
細かい筆の跡や色の重なりを見つめる。
一枚一枚の葉に映る微かな光の変化、枝の影の揺らぎ。
描かれた世界の中に、確かに風や光、時間の流れまでが存在しているように感じられた。
本当に素晴らしかった。俺は、この絵を感動すると同時に、自分の心の奥で初めて嫉妬ではなく純粋な憧れを認めた。
その瞬間、胸の中にわずかな安堵と温かさが流れ込み、静かで優しい光が差したかのような感覚がした。

9/29/2025, 10:15:44 AM

『モノクロ』

君は常に他人に冷たかった。

8/17/2025, 3:30:53 AM

『遠くの空へ』

あの空の向こうには何があるんだろうって考えているんだ。
ずーっと。ずっと。
人間は地に足をつく生物だ。鳥のように自由に空を飛び回ることも出来ないし、魚のように素早く深く永遠に水の中を泳ぐことも出来ない。
そう考えた時、自分はなんて不自由なんだろうと思い込んでいた時期があった。
もっと色々なことができたらなと思っていた。特に、空を飛ぶという夢は、昔から僕の憧れだった。
パイロットになりたいわけじゃない。僕自身が空を飛んで、あの雲の上を超えて綺麗な青空を見あげり、夜だったら美しい星達を眺めていたいと思った。
でも、そんなこと出来るわけが無い。当たり前だ。馬鹿馬鹿しい。
そう思いつつ、僕は今日も会社でせっせと仕事をしていた。
未読のメールが溜まる音、タスク管理アプリの通知音、電話の呼び出し音。
それらが交錯する中で、僕は一枚のエクセルファイルにしがみつくように、視線を這わせていた。
肩は凝り、背中は張り、心はどこか遠くへ行きたがっている。それでも締切は、待ってはくれない。
「頑張れ…自分を応援してくれる人は自分しかいない…」
そう呟きながら画面に向かい続けていると、上司がやって来た。
「あ、おつかれさ」
僕がそういう前に、デスクの上に書類の束が音を立てて置かれた。
「これ、急ぎで」
そう言って上司は去っていく。
頭が変になりそうだった。その書類の山を見て、自分は本当に何してるんだろうという気持ちで埋め尽くされる。
学校の友達は全員彼女もいてラブラブで今日も熱い夜を過ごすだとか僕にほざくし、皆休日はバーベキューとかドライブとか遊びに行ったりして…何がマイナスイオンだよ。僕はマイナスな空気しか吸えてない。こんなクソみたいなオフィスで彼女もいないし休日も少ないし給料も虫けら。
頑張ってる人間が馬鹿を見る時代だと、僕はつくづく思ってしまう。
結局その日も定時退勤できず、サービス残業で画面と向かい合っていた。
そして、終電を逃して駅で途方に暮れる。まぁ、こんなこと何回もあるから慣れてるんだけどさ。
生きてる意味がない。生きる気力も湧かない。疲労でやつれた顔を公衆トイレの鏡で見つつ、ため息を吐く。
「…空を飛びたい」
ここから家に帰るのも時間がかかる。いつもはタクシーで帰って高額な運賃を払ってるけれど、給料日前で金もないし、今は物凄く眠くてしんどくて頭も体もだるくてクラクラする。
公園のベンチで僕は座り、そのまま自分の体ズルズルと崩れ倒れる感覚がした。
「あー………………………………もうやだ」
そう呟いて目を閉じた時だった。
目を開けると、そこは空の上だった。
「…………は?」
理解できずに辺りを見渡してみるが、やはりここは雲の上。時間帯は夜で、星々はとても美しく輝いていた。
真っ黒に近い青色の画面に砂糖をばらまいたような、そんな細かい星達が僕を見つめてるような気がした。
僕はふわふわ浮いていて、なぜかその時の僕はそれが当たり前のような感じでバランスも上手く取れていた。
瞬時にわかった。
雲の下を覗こうとしたが、なぜか覗けない。街を見たわしたかったけれど、別に嫌な思い出しかないあんな人間が作り上げた構造物を見るより、自然の空を眺めようと僕は空を舞いながら星達を見つめた。
特にすごいと思ったのが月だった。あんなにも綺麗で美しい月を見ることになるとは思わなかった。しかもめちゃくちゃ月明りが凄くて、僕の体を包み込むような、太陽とは違う光が心地よくて気分が良い。
永遠にここでこうやって飛んでいたい。
僕は腕を頭の後ろで組み、雲の柔らかな布団に身を委ねるように寝そべった。
夜の空気はひんやりと静かで、風はまるで眠りを邪魔しないようにそっと吹き抜ける。
眼を開ければ、無数の星々が漆黒の天幕に散りばめられていた。
光は遠く、冷たく、しかし確かに温もりを持って瞬いている。
雲の上に浮かぶだけのこの瞬間、時間は緩やかに溶け、世界は僕だけのような気がしていた。
しかし、空を見ていると、僕の脇腹近くになにかの生き物がいたような気がして起き上がると、そこには一羽の鳥がいた。
シマエナガのように真っ白な小鳥で、とても可愛らしかった。僕が撫でようと手を触ろうとすると、その鳥が僕に喋りかけてきた。
「ねぇ」
鳥が喋った!!!!と驚くも、これが現実ではなく夢であるということを理解し、一気に冷静になる。
僕が深呼吸をして鳥に話しかける。
「どうしたの」
「ここにいたら、ダメだよ」
「……え?」
小鳥の表情は分からないが、その声色はどこか聞いたことがあるようなものだった。

この声、どこかで。




「ここにいたら、ダメだよ」
そう言って、彼女は入っちゃいけない屋上で横になる僕に注意を施す。屋上の扉は鍵をかけられてはいるものの、施錠されてないのに気付いた僕は屋上で時間を潰すようになった。
勉強もろくにせず、授業中スマホいじったり、漫画読んだりで散々なことしかしてない僕は、よく幼馴染の茉莉(まり)にしっかりしなきゃと言われていた。
茉莉は真面目で優しい性格で、よく妹や親戚の小さい子供の面倒を見ていたためか、少しお節介焼きな所がある。
親切心なんだろうけど、少しウザイというのが僕の本音だった。
「バレたらやばいよ。先生達に沢山怒られるよ」
「別にいいよ…どーでもいい。漫画読んでスマホ読んでれば僕は幸せかな」
本当に何を頑張ったって意味が無いと感じた。習い事で必死に課題をこなしても褒められない、上達を感じられない…親には見限られる始末だし。
だから僕も誰からも期待されたいとは思わなくなったし、応援されても余計なお世話だと思い込むようになった。
ただ、茉莉だけはずっと、僕のことを励ましてくれてはいた。余計なお世話だと思い込んでたとしても、心の縁では彼女の励ましは少しだけ生きる活力になっていたんじゃないかと思う。
だって、授業をサボっていても、一度も休むことなく毎日出席してるくらいだし。
茉莉の優しくて可愛い顔を見るために、茉莉と話すために、俺はこんな学校に来ていたんだということを、茉莉が死んでから気づいた。
茉莉は、最期まで素晴らしかった。飛び出した子供を庇うようにして車に衝突。子供の頭を手で抑えながら吹き飛ばされて、茉莉がクッションになったおかげで子供は軽い軽症で済んだらしい。
最後まで、本当に素晴らしい人間だったと、茉莉の葬式で僕は何度も何度も泣いて謝った。
たくさん、世話を焼かせて本当にごめん。茉莉のいうこと、全部無視して勝手なことばっかして困らせて本当にごめん。
泣いたって、どれだけ謝ったって、茉莉は戻ってくるはずがない。ボロボロと流す涙を拭いきれず、その場で崩れ落ちる。
大切な人を失ったあとは無我夢中で勉強もなにもかも頑張った。結果的に、まともな高校に入学することが出来て、そこでたくさんの友達と出会って、会社にも就職して…茉莉の分まで必死に生きようと思っていた。

でも。
結局。
自分の人生は充実なんかしていない。
クソみたいな会社で。
クソみたいな環境で。
クソみたいな生活で。
クソみたいな人間関係。
ほんと、全部。
意味がわからない。

空を飛べば、君に会えるかな…なんて、小学生の頃に夢見てた空を飛びたいたというものを、いい歳して思い込むようになるなんて、本当におかしくて笑ってしまう。
でも、会いたいんだ。茉莉に。

「……私も、凪斗(なぎと)が大好きだよ」
ポロポロと涙を流し、僕が小鳥に触れようとした時、足元の雲が沼の中に落ちるようにどんどん沈んでいく。
直感で、僕は夢から覚めてしまうのだと分かった。
「ま、茉莉っ!!!!」
もがきながら、僕は茉莉に何度も何度も伝えた。
「茉莉の事が大好きだ!!!そ、それなのに僕は…!!ごめん!!!本当にごめん…なさい…!!茉莉……!!沢山僕に手を差し伸べてくれたのに……!!」
ボロボロと涙を流しながら僕は茉莉に何度も謝った。
「凪斗君」
「……!!!」








「ありがとう」
















目が覚めると、見慣れない天井が視界に入った。
白い光と、無機質な機械音。心臓の鼓動がまだ荒く、体が鉛のように重い。
「ここは……病院………?」
思い出す。昨日の午後、公園のベンチで、ただ疲れ果てて目を閉じたことを。
肩にかかる重み、胸の奥の空虚。体を起こす力もなく、ただ日差しを浴びながら瞼を閉じていた。
どれほどの時間が過ぎたのか。
遠くで声がする。看護師だろうか、慌ただしい足音と優しい声。
思い出すのは、あの夢で出会った小鳥。あれは……茉莉だった。茉莉は白い小鳥のキーホルダーを持っていて、それにピピと名前をつけるほど気に入っていた。
そのピピの姿に似ていると、今になって僕は気付いた。僕が呆然としていると、看護師が少し驚きつつ優しい表情で話しかけてきた。
「あら、起きていたんですね」
柔らかな声が耳に届く。
「公園のベンチで倒れていた所を、通りかかった人が救急車を呼んでくれたんです」
言葉がゆっくりと胸に落ちてくる。思い出す、あの午後のベンチ、疲れ果てて目を閉じていた自分を。
看護師は微笑みながら、テーブルの上に小さな物を置いた。
「そういえば、カバンの中からこんなものが出てきたみたいです。起きたら渡してあげてと」

それは亡くなった彼女が以前、気に入っていた小鳥のキーホルダーだった。
手に取った瞬間、胸の奥で凍っていた何かが溶け、思わず涙がこぼれた。
夢の中でも会えた気がして、泣き笑いのような、どうしようもない感情が溢れる。
「……あの……どうかされましたか……?」
看護師は、涙を流す僕を前に困惑した表情を浮かべる。
それでと僕は手の中のキーホルダーをぎゅっと握りしめて沢山も涙を流した。

前より楽観的に物事を捉えれるようになった気がする。鉛のように重い体も、あの会社を辞めてから凄く楽になった。
新しいオフィスは静かで、窓から差し込む光が柔らかく、以前の慌ただしさとは比べものにならないくらい気持ちが楽になった。
同僚や上司は皆、協力的で気さくだ。
小さな確認や進捗の報告でも、丁寧に耳を傾けてくれる。以前なら焦りや苛立ちを感じることが多々あったが、今の僕は違う。
呼吸を整え、一歩ずつ進むことの価値を知った。
夕方、オフィスを出ると、街路樹の葉がゆらゆらと風に揺れている。
深呼吸をひとつ。
無理をせず、自分のペースで歩む道は、以前よりずっと穏やかで、確かなものに思えた。

遠くの空にいる茉莉へ。

君が見ていても、見ていなくても。

僕はしっかり生きていきます。

もう僕は迷わない。

君の分まで、精一杯生きていこうと思う。




「ありがとう」


8/7/2025, 4:21:18 AM

『またね』

またねって言葉は、嘘なんかじゃない。
ただ…今は会えないだけなんだ。本当にいつかは会える。その言葉を信じていれば、きっと。

部活終わり、俺は燈真(とうま)と一緒に家へ帰っていた時のことだった。
「実はさ、お前に相談したいことあって」
「?」
深刻そうな顔で話す燈真の姿は、何か新鮮なものを感じた。いつも、元気で明るく、色んな人達と仲良くしてる彼は、今みたいな悲しい顔を一度も見せたことがないからだ。
……いや、俺が知らないだけで、あまり相手に不安にさせたくないから見せていないってことも有り得るけれど。
「…友達がさ、遠くに引っ越すことになったんだ」
「うん」
「もう二度と会えないかもしれないらしくてさ…俺はまだまだそいつと遊んでいたいし、これからも友人として仲良くしていきたいんだよ」
「うん、すりゃいいじゃん」
「でも一生会えないかもしれないんだぜ?忘れちゃはないか?」
俺は少し考えてから、燈真の質問を返した。
「どっちかが相手のことを忘れない限り、関係は消えないよきっと」
「……そうだよな!」
二カリと笑って、そう燈真は頷いた。
「あ、ソイツ彼女もいてさ。彼女も引っ越すって聞いても遠距離恋愛したいって言うんだ。上手くいくと思うか?」
「距離に負けない努力と愛があればずっと続くだろ。そいつもそいつの彼女もお互いに大好きならな。
でも、やっぱりそうなるとやっぱり一年に一回は会わなきゃいけないかもね。
どんだけ遠くてもさ」
「……そうだよな。ありがとう。相談乗ってくれて」
「?」
感謝の言葉を俺に伝えた燈真の表情は、優しくて、どこか切ない感じがした。
友人との別れ。俺は燈真の友人のこと知らないから分からないけれど、燈真にとっては本当に大切な友人なんだろうな。親友みたいな関係の。
そんな燈真の悲しい表情を打ち切るように、俺はにこりと笑って言った。
「さよならは絶対に言うなよ」
「…………え?」
キョトンとする燈真を尻目に、俺は優しく燈真に教えてあげた。
「俺さ…仲良かった好きな子が県外の学校行く時さ、その子がじゃあねって言ったんだよ。
だから、俺はまたねって返してやった。そしたら振り返って、その子が笑顔でうん、またねって返してくれたんだ」
「…もしかしてそれが今付き合ってる彼女か?」
「そうそう。中学の頃は遊ぶだけの仲だったけど、高校行ってからでも月に一回は会ってるし、連絡だってとってるよ。
ま、彼女は都会の学校通ってるんだけど俺会いに行ってるよ。だからお前も、さよならじゃなくて、またねって言うんだ。絶対に会えるし、言われた方もすごく喜んでくれると思うよ。引っ越す友人もさ」
「…そうだな。まぁ、その通りだな」
「だからそいつにもしっかりまたねって言ってやれよ。お前特有の笑顔でさ!」
背中をバシッと叩いて燈真に俺は二カリと笑顔で言った。そう言うと、燈真は悲しい表情から優しい表情に変わり、淡いオレンジ色の夕日に照らされたながら、俺にありがとうと言った。
やがて歩いていると、分かれ道に出た。右の道は俺の家で、左の家は燈真の家だ。つまり、ここでお互い別れることとなる。
俺は燈真に、じゃあまた明日と言って右の道に行こうとすると、燈真は急に俺の名前を呼んだ。
「……またな!駿希(しゅんき)」
にかりと笑って手を振る燈真の表情は、優しさと悲しさで溢れていた。
よく分からず、俺もまたなと手を振る。

燈真は、その数日後に県外に引っ越してしまった。


7/27/2025, 3:59:39 PM

『オアシス』

どこへ行っても、乾ききったこの世界で潤いなんてもの求めたって無駄なのは分かってる。
それでも、人って水がなきゃ生きていけないし、日に当たりすぎるのも良くは無い。
だからこそ、水もあって、日陰もあるそんなオアシスが必要なの。
私が言いたいこと、分かってもらえるといいんだけど。

君は誰よりも頑張りすぎだった。両親が居ないから、頑張らなきゃいけないのは分かってる。でも、自分の身体を酷使して、バイトや学校の勉学を頑張ってる君を見ると、私は辛くてたまらない。
君は、よく言ってくれた。
「……俺、馬鹿だし金もないし親もいないから…その分、沢山頑張らなきゃいけない…人の何十倍も」
そう話す君の表情はいつも暗かったな。目の下はクマで、凄く具合が悪そうな感じで、声もボソボソと話す。
疲れてるのがわかった。帰宅部で、夜許された時間まで働いて、そして夜は遅くまで勉強をしている。君はいつも、成績もトップクラスだ。
「……でも…体調悪そうだよ」
私が心配してそう言うと、眉間に皺を寄せて、何も言わずにその場から去っていった。
分かってる。なにもかも持ってる人には、自分の苦労なんて分かるはずないなんてこと。でも、純粋に彼のことが心配だった。
廊下でもたれかかって下を向く彼に心配で初めて話しかけた時も、君の表情はとても苦しそうだった。
せめて睡眠は撮って欲しい。彼の原動力は…卒業後の生活のためなんだろうけれど。
やがて、高校は二年から三年生へと進級。また彼と同じクラスになったものの、前年度とは違って席が遠く、お互いに交流する回数も減ってしまった。
そして夏目前になる所で、彼に一度だけ会った。
「………………あの………」
「……………………」
彼の表情に色がなかった。
目の奥は霞んでいて、遠くを見るような焦点の合わなさがあった。
声をかけたら、ふっと崩れてしまいそうで、それ以上の言葉が出ず、喉の奥で止まった。
彼が私の存在に気付くと、どこか悲しいような、苦しいような声で「あぁ」と答えた。
「……ねぇ…もう、倒れちゃうよ」
「平気、だよ」
そう言って、後ろを振り返って歩き出す。少しだけふらついていて、今にも倒れそうだ。
少し足取りが重い彼の服の裾を引っ張って止める。
「もうやめなって」
「……」
「これ以上頑張ったら…大変なことになるよ…!」
必死で止める私の腕を振り払って、彼は私を睨んで強く言いつけた。
「…関係ねぇだろ」
「…………」
「休めだとか、無理しないでだとか…余計なお世話なんだけど」
「……でも」
「お前はいいだろうよ!!!!家に帰れば親もあったかい飯もあるんだからな!!!!!」
廊下に響き渡る彼の声。私は、息を飲んだ。
「休めないんだよ。駄目なんだ。俺は人よりも出来ない人間だから…頑張らなきゃいけないんだよ」
そう言って、またゆっくりと歩くと、最後にポツリと私に吐き捨てるように言った。
「もう関わらないで」
私は、何も言い返せなかった。
そうだよね。私は、君と友達でもなければ、彼女でもない、ただの無関係の、赤の他人。
それでも…毎日毎日休み時間も、昼時間も休憩しないで頑張る君の姿を私は見てた。隣の席だったということもあったけれど…。
でも、君の凄いところは頑張るだけじゃなくて、自分の体に鞭を打ってでも、他人に底抜けに優しいところがある。
困ってる人がいたら、黙って手を貸すような優しさを持つ君は、自分がどれだけ疲れていても誰かが困ってたら手を止めて助けてあげていたよね。

そんな彼が、病院に運ばれたことを学校の朝のHRで知らされた。先生は、そこまで大したことがなさそうな口調で話していた。他の人だって「そうなんだ」と言わんばかりの他人事。
私は物凄く驚いてしまった。あれだけ自分の体を無理してまで動かして頑張ってたんだ。当たり前だと少しだけ思ってしまった。
でも、心配が勝っている私は彼の見舞いに行くことにした。
受付で名前を告げ、教えられた病室のドアをノックする。
返事はなかったけれど、そっとドアを開けるとそこには彼がいた。彼は、ベッドにもたれて窓の外をぼんやりと眺めていた。
細く光が差すその中で、彼はまるで、世界から切り離されたように見える。
私の存在に気が付いて、彼は驚いた表情をする。
「……大丈夫…?」
「……………………あぁ…まぁ……」
私と少しだけ目を合わせるが、気まずそうにすぐ他の方向を見たまま彼はボソリと話す。
「……来たんだ…」
「うん、心配でね」
私が彼に近寄って、ベッド横の椅子に座った。彼が窓の方向を向いたまま、小さな声で謝ってきた。
「……ごめん」
「…へ?」
「あんなこと…言ってごめん…」
申し訳なさそうに私の方を見て、頭を下げる彼に、首を振って全然大丈夫だと伝える。
そんな私を彼が少しだけ見て、すぐに俯いたまま話し続けた。
「……どこ行ったって…俺に居場所なんてなかったんだ…。学校も、施設も…俺は皆に必要とされてない。だから、早く高校卒業して、幸せになりたかったんだ。
一人だとしても…少しだけお金があれば幸せになれるって……そう思って無理をした。
でも、無駄なんだって分かったよ。バイトだって、学校の成績だって……あれだけ頑張っても、全然上がらないんだからさ。
頑張って、残ったのは疲れと…苛立ち。心も体も余裕が無いだけで…なんも残せない。
俺って、つくづく無駄ことしかしないんだなって……」
悲しくて、悔しくて、たまらないような表情で彼は話した。涙が、溢れてきそうだった。私も彼も。
私は彼の手を触れて、そんなことないよと言った。
「………君の頑張りは無駄じゃないよ…私は、隣の席だったし…同じクラスだったから、君がどれだけ頑張ってたの分かったよ。
君が眠そうな目で教科書を開いてるときも、誰よりも早く来て、椅子を揃えてるのも、辛くても弱音を吐かず、必死に頑張っている姿を、私は見てたよ」
そう言って、彼の手を握る。
「無駄なんだって思わないで…君の頑張りや、優しさは、誰かを救っているんだから。
……私も、その1人だよ」
「……え?」
「去年の全校集会の時、体育館で、めちゃくちゃ暑い中、私は立ちっぱなしでお腹痛くなって、ふらふらになったときのことを覚えてる?」
彼の眉が少しだけ動いた。
「誰も気づいてなかったのに……私の異変に気付いてくれて、大丈夫?って言って、ゆっくりしゃがませてくれたよね。
人目があるのに、全然ためらわずに。
君だって疲れて、手は少しだけ震えてたのに、それでも私にすっごく優しく接して寄り添って……私はその時のことを今でも、はっきり覚えてる」
彼は黙っていた。でも、真剣に話す私の顔を、彼は見てくれた。
「ずっと……私の中に残ってるんだ。あの時、君が誰かに寄り添う時に見せた優しい顔が。
だから、私はそんな君のことを応援してたし、心配してたんだ。
君に苦しんでほしくなくて…頑張ってる姿は素敵だし、凄いし…応援したくなるけれど…でも」
涙が頬を伝って、制服の襟元にぽとぽとと落ちていた。なにか、込み上げてくるこの感覚に耐えきれなかった。

彼女のその言葉は、彼の胸の奥に静かに沁み込んでいった。
彼はゆっくりと目を伏せて、小さく、深く息をついた。喉の奥に何かが詰まったみたいで、息が苦しい。胸が軋む。
気付くと、彼の頬にも、静かに涙が伝っていた。自分でも信じられなかった。けれど止まらなかった。
彼女は見てくれていたんだ。こんな、誰も気づかないようなちっぽけな自分を。
その事実が、どうしようもないほど、あたたかくて、嬉しくて、優しくて……初めての感覚で、俺の心は少し、報われたような、そんな感覚がした。

「ありがとう」

彼が、彼女にそう伝えた。
その声は震えていたけれど、まっすぐだった。
彼が今まで、誰にも言えなかった感謝。
ずっと心の奥で、誰かに伝えたかった言葉。
彼女が、涙目になりながらも、彼に微笑んだ。彼もまた、微笑み返した。


どこへ行っても、乾ききったこの世界で潤いなんてもの求めたって無駄なのは分かってる。
それでも、人って水がなきゃ生きていけないし、日に当たりすぎるのも良くは無い。
だからこそ、水もあって、日陰もあるそんなオアシスが必要なの。

でも、無かったら、作ればいい。簡単な事じゃないけれど、君にとってのオアシスになれるように…私が君に助けられたように、私が君を助ける番だ。
君が1人で苦しまないように。私が君のそばにいることを覚えておいて欲しい。
2人で、この乾ききった残酷な世界で、綺麗で、美しくて、幸せになれるようなオアシスを作っていこう。
君のその笑顔を、私はずっと見ていたい。

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