『モノクロ』
『遠くの空へ』
あの空の向こうには何があるんだろうって考えているんだ。
ずーっと。ずっと。
人間は地に足をつく生物だ。鳥のように自由に空を飛び回ることも出来ないし、魚のように素早く深く永遠に水の中を泳ぐことも出来ない。
そう考えた時、自分はなんて不自由なんだろうと思い込んでいた時期があった。
もっと色々なことができたらなと思っていた。特に、空を飛ぶという夢は、昔から僕の憧れだった。
パイロットになりたいわけじゃない。僕自身が空を飛んで、あの雲の上を超えて綺麗な青空を見あげり、夜だったら美しい星達を眺めていたいと思った。
でも、そんなこと出来るわけが無い。当たり前だ。馬鹿馬鹿しい。
そう思いつつ、僕は今日も会社でせっせと仕事をしていた。
未読のメールが溜まる音、タスク管理アプリの通知音、電話の呼び出し音。
それらが交錯する中で、僕は一枚のエクセルファイルにしがみつくように、視線を這わせていた。
肩は凝り、背中は張り、心はどこか遠くへ行きたがっている。それでも締切は、待ってはくれない。
「頑張れ…自分を応援してくれる人は自分しかいない…」
そう呟きながら画面に向かい続けていると、上司がやって来た。
「あ、おつかれさ」
僕がそういう前に、デスクの上に書類の束が音を立てて置かれた。
「これ、急ぎで」
そう言って上司は去っていく。
頭が変になりそうだった。その書類の山を見て、自分は本当に何してるんだろうという気持ちで埋め尽くされる。
学校の友達は全員彼女もいてラブラブで今日も熱い夜を過ごすだとか僕にほざくし、皆休日はバーベキューとかドライブとか遊びに行ったりして…何がマイナスイオンだよ。僕はマイナスな空気しか吸えてない。こんなクソみたいなオフィスで彼女もいないし休日も少ないし給料も虫けら。
頑張ってる人間が馬鹿を見る時代だと、僕はつくづく思ってしまう。
結局その日も定時退勤できず、サービス残業で画面と向かい合っていた。
そして、終電を逃して駅で途方に暮れる。まぁ、こんなこと何回もあるから慣れてるんだけどさ。
生きてる意味がない。生きる気力も湧かない。疲労でやつれた顔を公衆トイレの鏡で見つつ、ため息を吐く。
「…空を飛びたい」
ここから家に帰るのも時間がかかる。いつもはタクシーで帰って高額な運賃を払ってるけれど、給料日前で金もないし、今は物凄く眠くてしんどくて頭も体もだるくてクラクラする。
公園のベンチで僕は座り、そのまま自分の体ズルズルと崩れ倒れる感覚がした。
「あー………………………………もうやだ」
そう呟いて目を閉じた時だった。
目を開けると、そこは空の上だった。
「…………は?」
理解できずに辺りを見渡してみるが、やはりここは雲の上。時間帯は夜で、星々はとても美しく輝いていた。
真っ黒に近い青色の画面に砂糖をばらまいたような、そんな細かい星達が僕を見つめてるような気がした。
僕はふわふわ浮いていて、なぜかその時の僕はそれが当たり前のような感じでバランスも上手く取れていた。
瞬時にわかった。
雲の下を覗こうとしたが、なぜか覗けない。街を見たわしたかったけれど、別に嫌な思い出しかないあんな人間が作り上げた構造物を見るより、自然の空を眺めようと僕は空を舞いながら星達を見つめた。
特にすごいと思ったのが月だった。あんなにも綺麗で美しい月を見ることになるとは思わなかった。しかもめちゃくちゃ月明りが凄くて、僕の体を包み込むような、太陽とは違う光が心地よくて気分が良い。
永遠にここでこうやって飛んでいたい。
僕は腕を頭の後ろで組み、雲の柔らかな布団に身を委ねるように寝そべった。
夜の空気はひんやりと静かで、風はまるで眠りを邪魔しないようにそっと吹き抜ける。
眼を開ければ、無数の星々が漆黒の天幕に散りばめられていた。
光は遠く、冷たく、しかし確かに温もりを持って瞬いている。
雲の上に浮かぶだけのこの瞬間、時間は緩やかに溶け、世界は僕だけのような気がしていた。
しかし、空を見ていると、僕の脇腹近くになにかの生き物がいたような気がして起き上がると、そこには一羽の鳥がいた。
シマエナガのように真っ白な小鳥で、とても可愛らしかった。僕が撫でようと手を触ろうとすると、その鳥が僕に喋りかけてきた。
「ねぇ」
鳥が喋った!!!!と驚くも、これが現実ではなく夢であるということを理解し、一気に冷静になる。
僕が深呼吸をして鳥に話しかける。
「どうしたの」
「ここにいたら、ダメだよ」
「……え?」
小鳥の表情は分からないが、その声色はどこか聞いたことがあるようなものだった。
この声、どこかで。
「ここにいたら、ダメだよ」
そう言って、彼女は入っちゃいけない屋上で横になる僕に注意を施す。屋上の扉は鍵をかけられてはいるものの、施錠されてないのに気付いた僕は屋上で時間を潰すようになった。
勉強もろくにせず、授業中スマホいじったり、漫画読んだりで散々なことしかしてない僕は、よく幼馴染の茉莉(まり)にしっかりしなきゃと言われていた。
茉莉は真面目で優しい性格で、よく妹や親戚の小さい子供の面倒を見ていたためか、少しお節介焼きな所がある。
親切心なんだろうけど、少しウザイというのが僕の本音だった。
「バレたらやばいよ。先生達に沢山怒られるよ」
「別にいいよ…どーでもいい。漫画読んでスマホ読んでれば僕は幸せかな」
本当に何を頑張ったって意味が無いと感じた。習い事で必死に課題をこなしても褒められない、上達を感じられない…親には見限られる始末だし。
だから僕も誰からも期待されたいとは思わなくなったし、応援されても余計なお世話だと思い込むようになった。
ただ、茉莉だけはずっと、僕のことを励ましてくれてはいた。余計なお世話だと思い込んでたとしても、心の縁では彼女の励ましは少しだけ生きる活力になっていたんじゃないかと思う。
だって、授業をサボっていても、一度も休むことなく毎日出席してるくらいだし。
茉莉の優しくて可愛い顔を見るために、茉莉と話すために、俺はこんな学校に来ていたんだということを、茉莉が死んでから気づいた。
茉莉は、最期まで素晴らしかった。飛び出した子供を庇うようにして車に衝突。子供の頭を手で抑えながら吹き飛ばされて、茉莉がクッションになったおかげで子供は軽い軽症で済んだらしい。
最後まで、本当に素晴らしい人間だったと、茉莉の葬式で僕は何度も何度も泣いて謝った。
たくさん、世話を焼かせて本当にごめん。茉莉のいうこと、全部無視して勝手なことばっかして困らせて本当にごめん。
泣いたって、どれだけ謝ったって、茉莉は戻ってくるはずがない。ボロボロと流す涙を拭いきれず、その場で崩れ落ちる。
大切な人を失ったあとは無我夢中で勉強もなにもかも頑張った。結果的に、まともな高校に入学することが出来て、そこでたくさんの友達と出会って、会社にも就職して…茉莉の分まで必死に生きようと思っていた。
でも。
結局。
自分の人生は充実なんかしていない。
クソみたいな会社で。
クソみたいな環境で。
クソみたいな生活で。
クソみたいな人間関係。
ほんと、全部。
意味がわからない。
空を飛べば、君に会えるかな…なんて、小学生の頃に夢見てた空を飛びたいたというものを、いい歳して思い込むようになるなんて、本当におかしくて笑ってしまう。
でも、会いたいんだ。茉莉に。
「……私も、凪斗(なぎと)が大好きだよ」
ポロポロと涙を流し、僕が小鳥に触れようとした時、足元の雲が沼の中に落ちるようにどんどん沈んでいく。
直感で、僕は夢から覚めてしまうのだと分かった。
「ま、茉莉っ!!!!」
もがきながら、僕は茉莉に何度も何度も伝えた。
「茉莉の事が大好きだ!!!そ、それなのに僕は…!!ごめん!!!本当にごめん…なさい…!!茉莉……!!沢山僕に手を差し伸べてくれたのに……!!」
ボロボロと涙を流しながら僕は茉莉に何度も謝った。
「凪斗君」
「……!!!」
「ありがとう」
目が覚めると、見慣れない天井が視界に入った。
白い光と、無機質な機械音。心臓の鼓動がまだ荒く、体が鉛のように重い。
「ここは……病院………?」
思い出す。昨日の午後、公園のベンチで、ただ疲れ果てて目を閉じたことを。
肩にかかる重み、胸の奥の空虚。体を起こす力もなく、ただ日差しを浴びながら瞼を閉じていた。
どれほどの時間が過ぎたのか。
遠くで声がする。看護師だろうか、慌ただしい足音と優しい声。
思い出すのは、あの夢で出会った小鳥。あれは……茉莉だった。茉莉は白い小鳥のキーホルダーを持っていて、それにピピと名前をつけるほど気に入っていた。
そのピピの姿に似ていると、今になって僕は気付いた。僕が呆然としていると、看護師が少し驚きつつ優しい表情で話しかけてきた。
「あら、起きていたんですね」
柔らかな声が耳に届く。
「公園のベンチで倒れていた所を、通りかかった人が救急車を呼んでくれたんです」
言葉がゆっくりと胸に落ちてくる。思い出す、あの午後のベンチ、疲れ果てて目を閉じていた自分を。
看護師は微笑みながら、テーブルの上に小さな物を置いた。
「そういえば、カバンの中からこんなものが出てきたみたいです。起きたら渡してあげてと」
それは亡くなった彼女が以前、気に入っていた小鳥のキーホルダーだった。
手に取った瞬間、胸の奥で凍っていた何かが溶け、思わず涙がこぼれた。
夢の中でも会えた気がして、泣き笑いのような、どうしようもない感情が溢れる。
「……あの……どうかされましたか……?」
看護師は、涙を流す僕を前に困惑した表情を浮かべる。
それでと僕は手の中のキーホルダーをぎゅっと握りしめて沢山も涙を流した。
前より楽観的に物事を捉えれるようになった気がする。鉛のように重い体も、あの会社を辞めてから凄く楽になった。
新しいオフィスは静かで、窓から差し込む光が柔らかく、以前の慌ただしさとは比べものにならないくらい気持ちが楽になった。
同僚や上司は皆、協力的で気さくだ。
小さな確認や進捗の報告でも、丁寧に耳を傾けてくれる。以前なら焦りや苛立ちを感じることが多々あったが、今の僕は違う。
呼吸を整え、一歩ずつ進むことの価値を知った。
夕方、オフィスを出ると、街路樹の葉がゆらゆらと風に揺れている。
深呼吸をひとつ。
無理をせず、自分のペースで歩む道は、以前よりずっと穏やかで、確かなものに思えた。
遠くの空にいる茉莉へ。
君が見ていても、見ていなくても。
僕はしっかり生きていきます。
もう僕は迷わない。
君の分まで、精一杯生きていこうと思う。
「ありがとう」
『またね』
またねって言葉は、嘘なんかじゃない。
ただ…今は会えないだけなんだ。本当にいつかは会える。その言葉を信じていれば、きっと。
部活終わり、俺は燈真(とうま)と一緒に家へ帰っていた時のことだった。
「実はさ、お前に相談したいことあって」
「?」
深刻そうな顔で話す燈真の姿は、何か新鮮なものを感じた。いつも、元気で明るく、色んな人達と仲良くしてる彼は、今みたいな悲しい顔を一度も見せたことがないからだ。
……いや、俺が知らないだけで、あまり相手に不安にさせたくないから見せていないってことも有り得るけれど。
「…友達がさ、遠くに引っ越すことになったんだ」
「うん」
「もう二度と会えないかもしれないらしくてさ…俺はまだまだそいつと遊んでいたいし、これからも友人として仲良くしていきたいんだよ」
「うん、すりゃいいじゃん」
「でも一生会えないかもしれないんだぜ?忘れちゃはないか?」
俺は少し考えてから、燈真の質問を返した。
「どっちかが相手のことを忘れない限り、関係は消えないよきっと」
「……そうだよな!」
二カリと笑って、そう燈真は頷いた。
「あ、ソイツ彼女もいてさ。彼女も引っ越すって聞いても遠距離恋愛したいって言うんだ。上手くいくと思うか?」
「距離に負けない努力と愛があればずっと続くだろ。そいつもそいつの彼女もお互いに大好きならな。
でも、やっぱりそうなるとやっぱり一年に一回は会わなきゃいけないかもね。
どんだけ遠くてもさ」
「……そうだよな。ありがとう。相談乗ってくれて」
「?」
感謝の言葉を俺に伝えた燈真の表情は、優しくて、どこか切ない感じがした。
友人との別れ。俺は燈真の友人のこと知らないから分からないけれど、燈真にとっては本当に大切な友人なんだろうな。親友みたいな関係の。
そんな燈真の悲しい表情を打ち切るように、俺はにこりと笑って言った。
「さよならは絶対に言うなよ」
「…………え?」
キョトンとする燈真を尻目に、俺は優しく燈真に教えてあげた。
「俺さ…仲良かった好きな子が県外の学校行く時さ、その子がじゃあねって言ったんだよ。
だから、俺はまたねって返してやった。そしたら振り返って、その子が笑顔でうん、またねって返してくれたんだ」
「…もしかしてそれが今付き合ってる彼女か?」
「そうそう。中学の頃は遊ぶだけの仲だったけど、高校行ってからでも月に一回は会ってるし、連絡だってとってるよ。
ま、彼女は都会の学校通ってるんだけど俺会いに行ってるよ。だからお前も、さよならじゃなくて、またねって言うんだ。絶対に会えるし、言われた方もすごく喜んでくれると思うよ。引っ越す友人もさ」
「…そうだな。まぁ、その通りだな」
「だからそいつにもしっかりまたねって言ってやれよ。お前特有の笑顔でさ!」
背中をバシッと叩いて燈真に俺は二カリと笑顔で言った。そう言うと、燈真は悲しい表情から優しい表情に変わり、淡いオレンジ色の夕日に照らされたながら、俺にありがとうと言った。
やがて歩いていると、分かれ道に出た。右の道は俺の家で、左の家は燈真の家だ。つまり、ここでお互い別れることとなる。
俺は燈真に、じゃあまた明日と言って右の道に行こうとすると、燈真は急に俺の名前を呼んだ。
「……またな!駿希(しゅんき)」
にかりと笑って手を振る燈真の表情は、優しさと悲しさで溢れていた。
よく分からず、俺もまたなと手を振る。
燈真は、その数日後に県外に引っ越してしまった。
『オアシス』
どこへ行っても、乾ききったこの世界で潤いなんてもの求めたって無駄なのは分かってる。
それでも、人って水がなきゃ生きていけないし、日に当たりすぎるのも良くは無い。
だからこそ、水もあって、日陰もあるそんなオアシスが必要なの。
私が言いたいこと、分かってもらえるといいんだけど。
君は誰よりも頑張りすぎだった。両親が居ないから、頑張らなきゃいけないのは分かってる。でも、自分の身体を酷使して、バイトや学校の勉学を頑張ってる君を見ると、私は辛くてたまらない。
君は、よく言ってくれた。
「……俺、馬鹿だし金もないし親もいないから…その分、沢山頑張らなきゃいけない…人の何十倍も」
そう話す君の表情はいつも暗かったな。目の下はクマで、凄く具合が悪そうな感じで、声もボソボソと話す。
疲れてるのがわかった。帰宅部で、夜許された時間まで働いて、そして夜は遅くまで勉強をしている。君はいつも、成績もトップクラスだ。
「……でも…体調悪そうだよ」
私が心配してそう言うと、眉間に皺を寄せて、何も言わずにその場から去っていった。
分かってる。なにもかも持ってる人には、自分の苦労なんて分かるはずないなんてこと。でも、純粋に彼のことが心配だった。
廊下でもたれかかって下を向く彼に心配で初めて話しかけた時も、君の表情はとても苦しそうだった。
せめて睡眠は撮って欲しい。彼の原動力は…卒業後の生活のためなんだろうけれど。
やがて、高校は二年から三年生へと進級。また彼と同じクラスになったものの、前年度とは違って席が遠く、お互いに交流する回数も減ってしまった。
そして夏目前になる所で、彼に一度だけ会った。
「………………あの………」
「……………………」
彼の表情に色がなかった。
目の奥は霞んでいて、遠くを見るような焦点の合わなさがあった。
声をかけたら、ふっと崩れてしまいそうで、それ以上の言葉が出ず、喉の奥で止まった。
彼が私の存在に気付くと、どこか悲しいような、苦しいような声で「あぁ」と答えた。
「……ねぇ…もう、倒れちゃうよ」
「平気、だよ」
そう言って、後ろを振り返って歩き出す。少しだけふらついていて、今にも倒れそうだ。
少し足取りが重い彼の服の裾を引っ張って止める。
「もうやめなって」
「……」
「これ以上頑張ったら…大変なことになるよ…!」
必死で止める私の腕を振り払って、彼は私を睨んで強く言いつけた。
「…関係ねぇだろ」
「…………」
「休めだとか、無理しないでだとか…余計なお世話なんだけど」
「……でも」
「お前はいいだろうよ!!!!家に帰れば親もあったかい飯もあるんだからな!!!!!」
廊下に響き渡る彼の声。私は、息を飲んだ。
「休めないんだよ。駄目なんだ。俺は人よりも出来ない人間だから…頑張らなきゃいけないんだよ」
そう言って、またゆっくりと歩くと、最後にポツリと私に吐き捨てるように言った。
「もう関わらないで」
私は、何も言い返せなかった。
そうだよね。私は、君と友達でもなければ、彼女でもない、ただの無関係の、赤の他人。
それでも…毎日毎日休み時間も、昼時間も休憩しないで頑張る君の姿を私は見てた。隣の席だったということもあったけれど…。
でも、君の凄いところは頑張るだけじゃなくて、自分の体に鞭を打ってでも、他人に底抜けに優しいところがある。
困ってる人がいたら、黙って手を貸すような優しさを持つ君は、自分がどれだけ疲れていても誰かが困ってたら手を止めて助けてあげていたよね。
そんな彼が、病院に運ばれたことを学校の朝のHRで知らされた。先生は、そこまで大したことがなさそうな口調で話していた。他の人だって「そうなんだ」と言わんばかりの他人事。
私は物凄く驚いてしまった。あれだけ自分の体を無理してまで動かして頑張ってたんだ。当たり前だと少しだけ思ってしまった。
でも、心配が勝っている私は彼の見舞いに行くことにした。
受付で名前を告げ、教えられた病室のドアをノックする。
返事はなかったけれど、そっとドアを開けるとそこには彼がいた。彼は、ベッドにもたれて窓の外をぼんやりと眺めていた。
細く光が差すその中で、彼はまるで、世界から切り離されたように見える。
私の存在に気が付いて、彼は驚いた表情をする。
「……大丈夫…?」
「……………………あぁ…まぁ……」
私と少しだけ目を合わせるが、気まずそうにすぐ他の方向を見たまま彼はボソリと話す。
「……来たんだ…」
「うん、心配でね」
私が彼に近寄って、ベッド横の椅子に座った。彼が窓の方向を向いたまま、小さな声で謝ってきた。
「……ごめん」
「…へ?」
「あんなこと…言ってごめん…」
申し訳なさそうに私の方を見て、頭を下げる彼に、首を振って全然大丈夫だと伝える。
そんな私を彼が少しだけ見て、すぐに俯いたまま話し続けた。
「……どこ行ったって…俺に居場所なんてなかったんだ…。学校も、施設も…俺は皆に必要とされてない。だから、早く高校卒業して、幸せになりたかったんだ。
一人だとしても…少しだけお金があれば幸せになれるって……そう思って無理をした。
でも、無駄なんだって分かったよ。バイトだって、学校の成績だって……あれだけ頑張っても、全然上がらないんだからさ。
頑張って、残ったのは疲れと…苛立ち。心も体も余裕が無いだけで…なんも残せない。
俺って、つくづく無駄ことしかしないんだなって……」
悲しくて、悔しくて、たまらないような表情で彼は話した。涙が、溢れてきそうだった。私も彼も。
私は彼の手を触れて、そんなことないよと言った。
「………君の頑張りは無駄じゃないよ…私は、隣の席だったし…同じクラスだったから、君がどれだけ頑張ってたの分かったよ。
君が眠そうな目で教科書を開いてるときも、誰よりも早く来て、椅子を揃えてるのも、辛くても弱音を吐かず、必死に頑張っている姿を、私は見てたよ」
そう言って、彼の手を握る。
「無駄なんだって思わないで…君の頑張りや、優しさは、誰かを救っているんだから。
……私も、その1人だよ」
「……え?」
「去年の全校集会の時、体育館で、めちゃくちゃ暑い中、私は立ちっぱなしでお腹痛くなって、ふらふらになったときのことを覚えてる?」
彼の眉が少しだけ動いた。
「誰も気づいてなかったのに……私の異変に気付いてくれて、大丈夫?って言って、ゆっくりしゃがませてくれたよね。
人目があるのに、全然ためらわずに。
君だって疲れて、手は少しだけ震えてたのに、それでも私にすっごく優しく接して寄り添って……私はその時のことを今でも、はっきり覚えてる」
彼は黙っていた。でも、真剣に話す私の顔を、彼は見てくれた。
「ずっと……私の中に残ってるんだ。あの時、君が誰かに寄り添う時に見せた優しい顔が。
だから、私はそんな君のことを応援してたし、心配してたんだ。
君に苦しんでほしくなくて…頑張ってる姿は素敵だし、凄いし…応援したくなるけれど…でも」
涙が頬を伝って、制服の襟元にぽとぽとと落ちていた。なにか、込み上げてくるこの感覚に耐えきれなかった。
彼女のその言葉は、彼の胸の奥に静かに沁み込んでいった。
彼はゆっくりと目を伏せて、小さく、深く息をついた。喉の奥に何かが詰まったみたいで、息が苦しい。胸が軋む。
気付くと、彼の頬にも、静かに涙が伝っていた。自分でも信じられなかった。けれど止まらなかった。
彼女は見てくれていたんだ。こんな、誰も気づかないようなちっぽけな自分を。
その事実が、どうしようもないほど、あたたかくて、嬉しくて、優しくて……初めての感覚で、俺の心は少し、報われたような、そんな感覚がした。
「ありがとう」
彼が、彼女にそう伝えた。
その声は震えていたけれど、まっすぐだった。
彼が今まで、誰にも言えなかった感謝。
ずっと心の奥で、誰かに伝えたかった言葉。
彼女が、涙目になりながらも、彼に微笑んだ。彼もまた、微笑み返した。
どこへ行っても、乾ききったこの世界で潤いなんてもの求めたって無駄なのは分かってる。
それでも、人って水がなきゃ生きていけないし、日に当たりすぎるのも良くは無い。
だからこそ、水もあって、日陰もあるそんなオアシスが必要なの。
でも、無かったら、作ればいい。簡単な事じゃないけれど、君にとってのオアシスになれるように…私が君に助けられたように、私が君を助ける番だ。
君が1人で苦しまないように。私が君のそばにいることを覚えておいて欲しい。
2人で、この乾ききった残酷な世界で、綺麗で、美しくて、幸せになれるようなオアシスを作っていこう。
君のその笑顔を、私はずっと見ていたい。
『半袖』
あの時買っときゃ良かった!!!!
俺は後悔しまくっている。なぜなら、今隣に座っているコイツがあの時俺が欲しかった半袖のシャツを買ってるからだ!!!どういう運命なんだこれは…!!
いや、さっきの話になるんだが、それは三十分前の出来事…。
超大型ショッピングモールで目を惹かれたシャツがあったんだよ。バックプリントに海外のキャラの絵が書いてあって、実にパンチがある服でね。バックプリント系の服が大好物な俺は、その服を買うか買わないか悩んでいたんだ。
いや、クールでかっこいい感じの服ではあったんだが、値段はなんと一万円。高いなぁ…でも欲しいなぁ…なんでそこで考えて、その服を試しに着てみたりしたんだけど、すごく自分に似合っていて、やっぱり買おうと思ったわけなんだが、財布を見たらあまり金が入ってない!!
カードか、支払いアプリで買えないかななんて考えてたが、なんとアプリもカードも禁止で、現金のみの所だったんだよ。
こんなとこ未だに存在すんのかよ!?と思いつつ、かと言って一万円をポンポン出したい訳でもない。欲しい気持ちもあって、お試しで着ているのにも関わらず、俺はやっぱりいらないって思って戻したんだよ。
悩んだということは、あってもなくてもどっちでもいいってことだと思ってね。特別、これ以上に素晴らしい服が見つかるかもしれないと思って買わなかったんだ。
そして今!!!ここでコーヒーを一人で飲んでる時に横に座ったソイツが!!!なぜか買うか悩んでた服を着てやがる!!!!
クソ!!なんかいらないって思ったけど!!買われるんだったら買っときゃ良かったなと後悔してしまう!!
コーヒーを飲みつつ、俺は隣に座るソイツの服装を見る。よく見るとソイツは、ピアスを沢山つけていて、赤メッシュの髪をした地雷系の女性だった。
年齢的には俺と同じくらいかな?なんて考えてたが、欲しがってた服はまさかこの女に買われたのかと思うと、なにか嫉妬のような感情が込み上げてくるのが分かる。
ため息を吐きつつ、何回も何回もチラ見する。変態じゃねぇかな俺と思いながら、買っときゃ良かったぁと悔しがる。
くそ…まじで羨ましい…あれ一着しかなかったんだよなぁ……。俺はもう一度コーヒーを飲み、チラ見すると、完全に女は俺の方向を向いていた。
「……え…あ」
急なことだったんで、変な声を出しつつすぐにかおをそらす。なんでこっち向いてるんだと心の中で悪態付きながら、またコーヒーを飲もうとするが、コーヒーはもう入ってない。
店員を呼ぼうと顔を上げるが、女がこっちを見てるのがわかる。見られてるって、こういう感じなんだなぁと思いつつ、ちょっと反省。
女の視線がすごいので、俺は恐る恐る視線を合わせると、バッチリ目が合った。
で、お互い目を合わせて数秒間が経過。周りからすれば、なんで目だけ合わせて何も喋んないの?とか思われてそうだが、俺が堪らずなにか発言しようとしたら、向こうがニヤリと笑ってシャツを見せびらかしてきやがった。
「…………あ?」
バックプリントを俺に見せて、ドヤ顔を決め込む。こ、この女は、今俺に自慢してきたのかよ…!?
イライラしつつ、俺が顔を逸らそうとすると、女が俺にちょんちょんと触る。
「?」
俺が女の方向を振り向くと、バックプリントを見せてくる。バックプリントを見せた後に、親指を上げてにっこりと俺に笑ってきた。
俺はたまらず棒読みでよかったっすねーって言った。
そしたら女が笑って、話し始める。
「ふふふ…いや、買うか買わないかめっちゃ迷ってましたよね」
「え?あ…そん時からいたんすか…」
女が頷く。
「うんうん。それでね、買うのかな?買わないのかな?どっちなのかなぁ…私も欲しいのになぁ…なんてずっと眺めてたら、急に手放しちゃったものですから…だから私買ったんですよ!」
そりゃあ良かったね。としか思えんが、自慢されて俺は少しだけ気分が晴れなかった。
「でも…そのシャツ素敵っすよ」
「ね!本当に買って良かったです♪」
ニコリと笑うその女性が少しだけ可愛く見えてきて、あれだけ欲しかった服だが、なんだかんだ彼女も喜んでいるようで良かったと思えた。
俺は他のシャツを買いに行こうと、彼女にぺこりと挨拶をしてその場から離れた。
こんな出来事もあるんだな。次は他のを買おう。あの服も素敵だが、同じくらい素敵な服もあるはずだ。
そして、たどり着いた古着屋。ここはカードOKなので、さっきよりも高い服を買おうと息巻いていた。
俺が色々服を見てると、一着だけ目を惹くものがあった。KING CROWNのフード付きデニム。KING CROWNってのは最高のブランドで、様々なかっこいメンズの服を作ってる会社だ(架空です)。
このブランドの古着…しかも、フード付きdenim。フード付きデニムも俺は好きなので、これをお試しで着てみて、店員に最高ですなんて言われつつ、買おうか買わないか悩んでると、どっかから視線を感じる。
視線の先を辿ると、そこにはさっき話した女がたっていた。流石にびっくりして、話しかけに行く。
「え…なんすか…?」
「あ、ごめんなさい…普通に入ってきたんですけど、たまたま貴方がいたものですから…そしたら、中々いい服を持っていたものですので……」
「え…あぁ…これすか……」
「その服、女が着ても可愛いですよねー」
「まぁ…え!?あげないっすよ!!これ俺買いますから!」
「えー?」
「えーじゃないっすよ!」
なんてやり取りをして、それでもブーブー欲しいと言う彼女に俺は根負けして差し上げたら、クッソ喜んでそれを即買い。そしたら店内でさっき着てた服を今買った服に着替え直して、俺にどうですかと見てきた。
くっそ似合う。まじで最高。最高だから故に、俺も着たいし欲しかったなぁとまた汗をにじませる。
くそぉ…二件もこの女に服を取られた!!
また、ぺこりと頭を下げて、すぐ隣の帽子専門店の所に入る。
最近クソ暑くて、髪の毛から炎が出てきそうな勢いなので、夏用になにか買おうと思い色々見てると、またも視線が。
まさか…と思い、すぐさまその視線に顔を向けると、やはり彼女がいた。
もうさすがに三度目はアレなのでなんでジロジロ見てんすかって詰め寄った。
「いや…たまたま私も…」
「いやそうだとしても俺を見る必要なんかないじゃないっすか」
「そ、そうだけど……」
もじもじして、彼女は頬を染めつつ話した。
「その…貴方の選ぶ服がどれもよくて…なんか…うん…すごいかっこいかったり可愛かったり…だから、その……」
恥ずかしそうに話す彼女を見て、可愛いなーと思いつつ、だからと言って俺を見る必要なんかねーだろと思ってた。
でも、彼女と俺はなんだかんだ服の趣味があってるのかもしれない。だから、俺が買おうとしてるやつとドンピシャで当たるのかも。
そんなお気楽なことを考え、俺はつい、その女に良かったら一緒に見て回りませんかと言った。
そしたら彼女は喜んで、いいんですかと言っていた。なんか、ナンパっぽくなってるから、あんまし嫌なんだが、貴方が嫌じゃなければ…と申し訳なさそうに言うと、彼女が喜んで首を振る。
「ううん!全然嫌じゃありませんよ!服の趣味が合う人あまり周りには居ないものですから…だから私でいいのであれば…よろしくお願いします…!」
結論から言おう。
俺と彼女は付き合った。なんか、あの後色々服買いまくって、ノリで連絡先交換することになって、それでプライベートで服を一緒に買いに行ったりしてなんだして…それを繰り返してたら、いつの間にか付き合ってることになってた。
で、めっちゃ驚いたことが一つだけあるんだ。それは、彼女が俺に近付いていた理由が、一目惚れだかららしい。
いや……今となっちゃ……まぁ、もう付き合ってるし、彼女は可愛いし優しいでいいんだけどさ…流石に驚いたよ。マジで?って何度も思ったね。
服を買う時に、俺を見かけた時から一目惚れして、コーヒーから古着店、帽子専門店まで着いてきたのも好きだかららしい。
あ、ちなみに彼女は二十三歳の大学生。俺は二十六歳の大学卒業してのしがない会社員。
とにかく、ビックリしたよ。
半袖のシャツ一枚でこんな人生変わるもんなのかってね。無駄に広い俺のアパートには、今では彼女が住んでる。ちょっとは賑やかになったし、自分の買う服を彼女も着たいっていうのは少し嬉しいかも。共通の服の趣味を持つ者同士として、恋人として。
でも……。
離れたところでジーッと俺のことを見る彼女のこと考えたらそれはそれでやべーよな…???