奇跡をもう一度
こんな夢を見た。
僕は高校の制服姿で祖父母の家にいる。
祖父母も健勝で家も津波で流されていない。昔の姿のままだ。
両親もとても若く元気だ。
制服姿の僕を見た祖父母はとても喜んでいた。
思えば制服姿を見せたことがなかった。
画面が変わり、高校に行くと、なぜか中学校時代の友人たちもたくさんいる。
面識のなかった高校時代の友人と中学時代の友人が仲良く話をしている。
僕も話に加わり昔した失敗談などをしてみんなで笑い合った。楽しい時間だった。
画面がさらに変わる。音楽の授業が始まった。隣の席には僕の好きな子がいた。
僕の高校では音楽の授業にギターがあった。
僕はギターを弾いていたのでギターのことで分からないことがあると話しかけてくれた。
僕は緊張しながら疑問に答えていった。
彼女から僕のプリクラが欲しいと言われたことがあった。
友人たちで撮ったプリクラを渡した。授業中、横を見ると彼女が僕の写っている部分を指で撫でていた。
当時、もし僕が告白していたら彼女とお付き合いできていたのだろうか。
今となっては分からない。
忘れていた沢山の思い出に触れた。
あまりにも懐かしく夢から覚めた僕の瞳から涙がこぼれ落ちた。奇跡のような夢を見た。
夜明け前
3年前のとある日の夜明け前、祖父から祖母の様子がおかしいと連絡が入った。
僕と母は祖父母の家へ向かった。少し調子が悪いのだろうという程度に思っていた。
以前同じようなことがあったからだ。
だが、その日は違った。
すでにぐったりした状態で、これはまずいと家に入った瞬間に思った。
すぐに救急車を呼びその間、人工呼吸をしていた。
救急車が到着し病院に搬送されて医師から診断を下される前にすでに絶望的な状況を悟ったのか、祖父は病院についてこなかった。
祖母が天寿を全うした。
とても優しく強い人だった。
僕の家が経済的に苦しい状況に陥った時に真っ先に駆けつけ、お米とお金を置いていってくれた。
祖母は2度家を失っている。
1度目は第二次世界大戦の空襲で、そして2度目は東日本大震災で津波で家を流された。
津波で家を流され、僕の家の近くに新しく住むことになった。
そんな祖母はとても前向きだった。
祖母のコミュニケーション能力は非常に高く僕は圧倒された。
新しい土地に来たにもかかわらずあっという間に沢山の人と交友関係を育んでいた。
祖父は祖母とは違いコミュニケーションは苦手だった。お互いがお互いを補っているような関係性だった。
だからなのか、祖母がなくなった1年後、祖父も旅立った。
祖父が亡くなる数時間前に幸運にも僕は病院で会うことができた。
そこで祖父が僕に「一番大変だろうけど頑張ってな」と声をかけてくれた。
祖父が最後の大事な時間に僕のことを気遣った激励の言葉をかけてくれたことがとても嬉しかった。
僕の苦労全て理解してくれたようで救われた気がした。
祖父も祖母と同じでとても優しく強い人だった。
僕も2人のようにありたいと思っている。
本気の恋
僕は恋愛経験が少ない。
早くから家族の経済的支援をしなければいけなかったので働く以外の余裕がなかった。
経済的支援の後には介護が待っていた。
そんな僕にも本気の恋愛をしたことが二度ほどあった。
残念ながら、どちらも結婚には結びつかなかった。
きっと結婚をしていたら、相手に苦労をかけていたと思う。
だからこれで良かったのだ。
初めて僕がお付き合いをしたのは高校2年の頃だった。
修学旅行の時に相手から告白してくれた。
僕は相手のことをよく知らなかったので、お友達から始め、その後正式にお付き合いを始めた。
色々な場所に行くことができ沢山の思い出を作ることができた。
僕の高校時代の最高の思い出だ。
その後、父が借金の連帯保証人に巻き込まれてしまい資産を失ってしまったので、弟たちの学費を工面する必要があった僕はひたすら働き続けた。
必然的に彼女とは会えなくなってしまったので、お別れすることになった。相手には既に別の男性がいた。
2度目の恋愛は僕が小学校から知っている子だった、僕の事情を知ってくれ、沢山励まし、力をくれた。
気づいたら僕は彼女のことばかり考えるようになった。
辛い状況を乗り越えられたのも 彼女のおかげだ。
彼女は僕だけでなく、僕の家族も救ってくれたのだと思っている。
お付き合いをはじめてしばらくしてから僕の家族に介護が必要なことが分かった。
彼女は介護を手伝ってくれると言った。
だが僕は彼女の負担にだけはなりたくなかった。
だから話し合いを重ねた末に身を引いた。
介護を実際に始めてみると、僕の選択は正しかったと思った。
以上が僕の数少ない恋愛だ。
書くにあたり、昔を少し振り返ることができて、とても懐かしく、少しの寂しさが僕の胸に迫った。
カレンダー
月の初めにカレンダーをめくる。予定は仕事以外何もない。
寂しい人生だと思われるかもしれないが、僕はとても楽しんでいる。
ある心理学者が人間関係がストレスの原因だと言っていた。
それを取り除いた今、僕の人生はこれまでにないほどのストレスフリーな生活を送れている。
そしてその確保したストレスフリーな精神状態を全力で家族の介護に当てられることができる。
以前の僕は他人の人生と自分の人生を比べていた。
ひどく落ち込んでいたことが多いように思う。
周りの人全てがキラキラ輝いて見えていた。
人付き合いを最小限にしたことでその考えは消えた。
SNSも一切やっていない。
他人の人生を見ていた自分が消え、自分の人生に全力を注げるようになったと考えている。
本音を言えば僕もキラキラした人生というものを生きてみたかった。
だが無理なものは無理なのだ。
テレビやインターネットに出てくる人と比べてもしょうがない。今考えると時間の無駄だった。
他人の人生を羨んでいた頃の自分は、自分の人生を歩めていなかったのだと思う。
今は空いた時間をどう楽しむかについて全力で考えるようにしている。
気づいたらテレビやSNSを見なくなった。
そうしていると自分の幸せに気づくことができた。
こう考えるとテレビやSNSは果たしてどれだけ多くの人を不幸に導いてきたのだろうか。
もし今、自分が不幸だと考えている人がいたら、一度テレビや SNSから離れてみるといいのかもしれない。
空白の多いカレンダーも悪くない。
喪失感
中学時代に1人の友人がいた。
彼は僕の恩人でもある。
僕は自分の声がコンプレックスだった。
当時の僕は声変わりが遅く、高い声でよくからかわれていた。
音楽の時間にみんなの前で歌わされた時に僕の番になると、沢山の人が僕を笑った。先生まで笑っていた。
この件が僕の音楽嫌いとコンプレックスに拍車をかけた。
中学校2年生のある日クラス替えになって緊張していた僕は自己紹介の時間に 上ずった声を出してしまった。当然、笑った人もいた。
けれど、休み時間の時に1人の男子が話しかけてくれた。
「優しい声だね」
僕は衝撃を受けた。
僕のこの声を笑うのではなくポジティブな言葉に変換し表現してくれたからだ。
彼の言葉に何度も救われた。
そんな彼が高校1年生の春に突然亡くなった。
心臓に持病を抱えていたと、このときになって知った。
彼はとても明るい人で、大病を患っていたことを全く表に出さなかった。
僕はとてつもない喪失感を覚えた。
何度も彼の言葉を反復した。
そして彼が褒めてくれたこの声で音楽をやろうと決心した。
高校1年生の夏にギターとボイストレーニングを始めた。
彼の存在を沢山の人たちに伝えたかったのだ。
紆余曲折があり音楽の仕事をすることはかなわなかったが、彼は間違いなく僕の人生をポジティブな方向に変えてくれた。
僕は音楽と自分の声を好きになることができたのだ。
僕は確信している。
人の言葉は現在だけでなく、過去も未来も誰かの心を救うのだ。