この家の前は、いつも紅茶の香りがする。
平凡な通勤途中の、ちょっとした楽しみ。
ソファーから無理矢理体を起こして向かう早番の日も、終電へ急ぐ帰り道も。
品種なぞ分からずとも、それは確かな幸せの欠片。
穏やかな誰かのティータイムと、今を忙しなく生きる私。
二つを繋ぐのは、香り高い一杯の紅茶。
【紅茶の香り】
始まりはいつも、君から。
少し低い体温を頬に感じて、その手にすり寄る。
声もなく笑う君が、より一層近くなって。
そのまま溶かされるように、ふわふわ、ふわふわと。
指先から痺れるような愛を唯、傍受しているの。
【始まりはいつも】
遠くを見つめる、真っ黒な目。
光を一つたりとも受け入れない深淵。
人の行き交う駅前で、君一人が異質だった。
夜の羽虫が電灯に引かれるように、私は君の魅力に逆らえない。
掠れた声で名前を呼べば、首だけがこちらを向いてくれる。
美しい口もとが、緩く弧を描いて。
君はそのまま、くしゃりと顔を歪ませて笑った。
子供のように無邪気に、悪魔のように美しく。
気高き美が年相応に揺れるとき。
それは、禁断の果実を喰らう、背徳の味。
【子供のように】
ちょっぴり肌寒い秋風が、均一に並んだプリーツをなぞってゆく。
18℃の夜に惜しげもなく晒される、白い生足。
首もとを飾る大きな襟が、彼女達の若さを表していた。
もう戻らない確かな青春に、ほんの少しだけ。
未だ尚、その痛みは濃く、色付いたまま。
【過ぎた日を思う】
運命の人と巡り会えたら、どうなるのだろう。
触れるだけで指先が痺れるように熱くて。
重ねた唇には、かすかな甘さが残るのかもしれない。
一枚の板を挟んだ世界は、あまりにも幸せそうで。
うつむいた先には、剥げかけたネイルが見えた。
私は、そちらで生きていないから。
白馬の王子様なんていないことは、とうの昔に知っているのに。
【巡り会えたら】