『風に乗って』
龍の背に乗って、少年は空を駆けていた。
見下ろすと、先程出発した城のある町がずっと遠くに見える。
「本当にひとりで行くのか?」
龍が少年に尋ねる。
「うん、これ以上みんなを巻き込むわけにはいかない。大切な人たちを傷つけたくないんだ。」
迷うことなく、少年はそう答えた。
少年はこの旅の中で、仲間たちが傷つくのを、悲しむのを、二度と会うことが叶わなくなるのを、何度もみてきた。
それゆえ、最後の遠征は何があってもひとりで行こうと覚悟していた。
「お前は頑固だから、私が止めても行くのをやめないだろう。だが、お前が帰らなければ、お前の言う大切な人たちがこの上なく傷つくことをゆめゆめ忘れるな。お前の行いは、お前の想いに反するものになりうるということを。」
「わかっているよ。必ず邪智暴虐の女王を倒し、この国を救ってみせる。」
少年は答えと同時に龍の背を掴む両手にぐっと力を入れた。
龍は女王の待つ呪われた塔に向かってより一層速度を上げた。
『刹那』
それは一瞬のことだった。
海辺に煌々と咲き誇っていたダイヤモンドの彼岸花は、地平線の向こうから届いた斬撃により砕け散った。
花弁の辺りが砕けて一部は舞い上がり、一部は海へ沈み、また一部は砂浜に突き刺さった。
それと同時に、異変を察知して浜に駆けつけた精霊たちも無惨な姿へと切り刻まれた。その数およそ70。
精霊の島の最後は、こうもあっけないものであったのだ。
『生きる意味』
藤永求は今日も仕事帰りに団地横の公園に寄り、ベンチで缶ビールを開けた。
ここ数ヶ月、すっかりルーティンになっていた。
きっかけがはっきりとあったわけではないが、あるときから自分の人生に不安を覚えるようになった。それは、夜の自宅という、自分を生きられる場合にとりわけ襲いかかってくるので、家という場所と距離を取り、酒で脳を鈍らせることにしたのだ。
そしてこの日も、不安を誤魔化そうとしたが、この日に限って藤永の頭は妙に冴えていた。自分と向き合わずにはいられなかった。
「俺は一体、何が不安なんだろうか。」
ビールを一口飲み、空を見上げてため息をつく。
不安の出処がぼんやりとしている。そしてそのことが藤永をより一層不安にさせる。
藤永は、東京の大学を出た後、就職を機に名古屋へやってきた。生まれも育ちも東京だったので、まったくゆかりのない場所での生活を送ることになった。
最初の方は、仕事をするという新しい営みに慣れるのに必死で、毎日が充実していた。いち早く仕事を覚えようと、休日も自己研鑽に励んでいたので、彼の人生に関する諸問題について考える余地は無かった。
ところが、1年すぎてある程度仕事を覚えた頃から彼はよく周りのことが見えるようになった。今まで没入していたものから距離を取れるようになると、今までこっそりと棚上げにされていた問題が牙をむき出す。
慣れない土地での孤独や見通しの立たない将来が藤永の心を着実に蝕んでいた。しかし、孤独や将来という抽象的な不安は、「理解ができない」ことでますます不安を増長する。
こうして藤永は追い詰められていったのだった。
頭の中をぐるぐると様々な不安が巡る。
またビールを一口飲んで天を仰いだ。
ベンチから見上げる空は団地のせいで狭いが、むしろその狭さは藤永を安心させた。狭い空は、彼の頭の中で拡散する不安に歯止めをかけてくれるようであった。
いくらか空を見て少しは落ち着いた藤永は、残りのビールを一気に飲み干し、帰途についた。
「どうやったら、幸せになれるんかなあ。」
この日を境に、藤永は精神を徐々に病んでいき、1ヶ月後には鬱の診断を下された。
『善悪』
橋の下で少年と死にかけの犬とが対峙する。
自動車が上を通る度、橋はガタンと揺れる。
犬は語る。
「お前は俺を見てどう思う?可哀想だと思うか?ああ、そう思うだろう。だがな、俺がこんな有様になっちまったのは、一重に俺が逆らっちゃいけねぇものに逆らっちまったのがわりぃんだ。お前の善良な、俺を憐れむ心というのは、間違いだ。俺は完全なる悪であって、その罰を受けているんだ。」
犬は息を切らせながら尚も語る。
「善悪なんてもんを犬が語るなと思うだろうが、犬っころに語らせられるほど善悪というのは単純だ。それらは互いに相容っちゃいけねぇもので、互いにとって毒なんだ。だから坊主、さっさと俺から離れろ。お前という善良は俺という悪にとって毒だ。頼むから俺を苦しめないでくれ。」
『流れ星に願いを』
ドリーは屋根裏部屋の小窓から空を見上げていた。
「はあ、学校なんてなくなっちゃえばいいのに。」
今日も学校でガキ大将のラダンにいじめられたドリーは、真っ赤に腫れた頬を撫でながら、ため息をついた。
7月の夜空は満天の星でどこまでも美しかった。
ベガ、デネブ、アルタイル。これらの星はその中でもとりわけ燦々と輝いていた。
「どうしてこんなに綺麗な空の下で、僕は惨めなんだろうか。」
傷んだ床板に涙が落ちた。
ドリーはいつもラダンにいじめられていたが、決して泣くような少年ではなかった。それでもこの日だけは、世界の美しさを前に、自分の境遇を嘆かずにはいられなかった。
「もし神様がいるなら、この綺麗な星々を僕に見せるなんて残酷なことをしないでくれよ。」
ドリーがそう呟くと、ひとつの星が空を駆けた。流れ星だ。
そして次々と星が流れていった。
ベガ、デネブ、アルタイル。
あんなに煌々と輝いていた星も他の星たちと落ちていく。
やがて、空から星はなくなってしまった。
真っ暗な空を見上げてドリーはますます泣き出してしまった。
「何も全部持っていってしまわなくてもいいじゃないか。ほんの少し、僕と一緒に夜を越してくれる星がいてくれてもいいだろうに。」