世界から音が消えたら、どんなに生きやすいだろう。
罵詈雑言も、耳障りな笑い声も、全て消えてしまったら、この世界はどれほどキレイになるんだろう。
だから鼓膜を突いた。鈍い痛みの後に生ぬるい液体が耳を伝っていくのが分かる。
途端に世界から音が消えた。
街に出ても何も聞こえない。ただ、ネオンの光が僕の目を刺激するだけ。
怒鳴っているであろう男も、獲物を狩る目をした女も、うるさいはずの弾き語りギターも、全ての音がない。なんて心地いいんだろう。
失った?違う、手放したんだ。
うざったい響きを、僕のこの手で。
朝、目を覚まして窓の外を眺める。
霧が深くて遠くまでは見えないけど、子供達の楽しそうな声が聞こえる。
パリパリ、キャッキャッ、ザクザク。
霜が降ったんだなぁ。霜の降った葉や土を踏んで遊んでる光景が目に浮かぶ。
私も、外へ出たいな。
薬の作用で髪は抜け落ち、手足は痺れ、吐き気なんて毎日で。毎朝痛みで目を覚ましては絶望感に打ちのめされる。
あぁ、私も、あの地へ足を下ろしてみたい。
霜枯れしたように動かない体を憎む。
憎んだところで、霜は溶けない事を知りながら。
今日は塾。明日はピアノ。明後日はバイト。
そうやって手放してきた時間が、私のためじゃない事くらい知っている。
母親の第二の人生のコマでしかない。
友達からの誘いも断って、全ての時間を将来に投資する。
後ろから聞こえる楽しそうな笑い声、グラウンドから聞こえる沢山の黄色い声援、体育館から聞こえるシューズが床を擦る音。青い春を見ないフリする。
いつの間にか耳に入るのは自分の孤独な足音だけ。
私が手放した時間には、いったいどれほどの青い春があっただろうか。
私の人生は母親の人生。失敗した母親のための人生。
母親のために手放した時間に、私はいない。
全ては母親のため、私は従順なコマとなる。
色っぽい唇の紅が大好きだったよ。
キスをすれば移るし、食事の後は必ずお手洗いに行くけど、そんな君が大好きだった。
何年経っても僕とのデートではその紅を塗る。
お決まりのレストランで、お決まりのコース料理。
それでも君は喜んでくれる。
デート前に鏡の前で変わらない紅を塗る君。そんな君の準備を待つのが楽しいよ。
結婚して何年経ったかな?50年以上は経ってるかな?今年は1人。思い出のレストランにきたよ。
君の紅が僕に移らないなんて、僕には想像できなかったのにな。
毎日、同じ夢を見る。
走っている誰かの後ろを追いかけようとする夢。
毎回追いつけずに目が覚める。
気づけば目からは涙が溢れ出していて、必死に何かを掴もうと虚空に手を伸ばしている。
「誰か」その「誰か」を見つけるために、断片的にしか再生されない夢を掴もうとしている。
待ってくれ。置いていかないでくれ。頼むから。
必死に記憶を巡っても出てくるのは後ろ姿の誰か。
なぁ。お前は一体誰なんだ。
誰かも分からないのに、なんでこんなに必死なんだ。
今日も、夢の断片でしかない「誰か」を必死に探している。